人の子イエス
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- 村田寿和 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 5章27節~30節
5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」ヨハネによる福音書 5章27節~30節
先程は、ヨハネによる福音書第5章19節から30節までをお読みしましたが、今朝は、27節から30節までを中心にしてお話しをいたします。
27節から29節をお読みいたします。
また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ここでイエスさまは、世の終わりになされる終末の裁きについて教えています。これは、ユダヤ人たちが旧約聖書のダニエル書などの記述から信じていたことでもありました。前回もお読みしましたが、今朝もダニエル書第12章1節から4節までをお読みいたします。
その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するだろう。そして、知識は増す。」
このダニエル書第12章の御言葉は、死者の復活について教えている個所ですが、このところは第10章から記されている「終わりの時の幻」のクライマックスと言えます。そして、この「終わりの時の幻」をダニエルに示されたのが「人の子」であったのです。第10章5節に、「目をあげて眺めてみると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」とあります。また9節に、「その人の話す声が聞こえてきたが、わたしは聞きながら意識を失い、地に倒れた」と記されています。さらに16節に、「人の子のような姿の者がわたしの唇に触れたので、わたしは口を開き、前に立つその姿に話しかけた」とあります。このように、10章から12章に記されている「世の終わりの幻」は、「人の子」によってダニエルに示されたものであったのです。そして、この「人の子」こそ、第7章で、日の老いたる者から永遠の王権を受けた「人の子」であるのです。第7章9節から27節までを少し長いですがお読みいたします。
なお見ていると、王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火/その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。
さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。
わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。見ていると、この角は聖者らと戦って勝ったが、やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。さて、その人はこう言った。「第四の獣は地上に興る第四の国/これはすべての国に異なり/全地を食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く。十の角はこの国に立つ十人の王/そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、二時期、半時期がたつ。やがて裁きの座が開かれ/彼はその権威を奪われ/滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」
前回、ダニエル書が執筆されたのは、紀元前2世紀のセレウコス朝シリアによる迫害の時代であると申し上げました。ダニエル書の物語の時代設定は、バビロン捕囚時代のバビロンの宮廷でありますが、実際に執筆されたのは、紀元前2世紀のシリア帝国の王アンティオコス・エピファネスによる迫害の時代であったのです。そのことを背景として初めて、このダニエル書第7章に記されている幻は正しく読み解くことができるのです。19節に記されている非常に恐ろしい「第四の獣」は、23節にあるように、地上に興る第四の帝国、すなわちシリア帝国を指しています。そして、20節に記されている尊大なことを語る「一本の角」は、24節、25節に記されているように、いと高き方に敵対して、いと高き方の聖者らを悩ます一人の王、すなわちアンティオコス・エピファネスを指しているのです。25節に、「彼は時と法を変えようとたくらむ」とありますように、アンティオコス・エピファネスは、安息日と律法を廃棄しようとしたのでありました。そのような迫害を背景としながら、ダニエル書は、天上の神の裁きの幻を描いているのです。9節に「王座が据えられ『日の老いたる者』がそこに座した」とありますが、この「日の老いたる者」は、主なる神を指しております。そして、10節に、「裁き主は席に着き」とありますように、「日の老いたる者」こそ、裁き主であるのです。前々回に、旧約聖書は、裁きをなさるのは神さまだけであると教えていると申し上げましたが、ダニエル書においてもそうなのです。そして、「日の老いたる者」の裁きにより、永遠の王権を受けるのが、天の雲に乗る「人の子のような者」なのであります。そして、この「人の子のような者」は、「いと高き者の聖者ら」、すなわちイスラエルの民を指しているのです。そのことは、18節、22節、27節と三度も記すことによって強調されています。18節、「しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」。22節、「やがて、『日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」。27節、「天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」。このようにダニエル書第7章の幻は、イスラエルを悩ますシリア帝国を主なる神が裁きによって滅ぼしてくださり、イスラエルに永遠の王権与えてくださるという幻であるのです。そして、イエスさまの時代、この「人の子のような者」は、イスラエルに救いをもたらすメシアを指す、いわゆるメシア預言として読まれるようになっていたのです。「人の子のような者」は、個人でもあり、その個人に連なる集団でもある、いわゆる集合人格であるのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
イエスさまは27節で、「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」と仰せになりましたが、この「人の子」は、ダニエル書7章の、「日の老いたる者」から永遠の王権を受ける「人の子」であることは、よくお分かりいただけたと思います。イエスさまは、神さまの裁きによって、権威、威光、王権を受け、とこしえに統治される「人の子」であるがゆえに、裁きの権能をゆだねられたのです。それでは、イエスさまは、いつ神さまの裁きによって、権威、威光、王権を受けられたのでしょうか。それは、主の裁きである十字架の死からの復活によってでありました。マタイによる福音書の第28章で、復活されたイエスさまが、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と仰せになられたように、イエスさまは主の裁きである十字架の死からの復活によって、とこしえの王権を受けられたのです。それゆえに、復活されたイエスさまは、「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするように」と弟子たちにお命じになったのです(使徒10:42)。イエスさまは、主の裁きである十字架の死から復活し、天へと上げられ、父なる神の右に座する人の子として、世の終わりに、墓の中にいる者たちを復活させられるのです。
さて、ダニエル書第12章に、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と預言されていたように、イエスさまもここで二通りの復活について教えられています。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
これだけ読むと、復活して命を受けるか、それとも裁き(刑罰)を受けるかは、善を行ったか、悪を行ったかというその人の行いによって決定されると読むことができます。しかし、イエスさまがここで言われていることは、そのようなことではありません。なぜなら、イエスさまは、24節で、「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と仰せになったからです。「終末の裁きを待つまでもない、わたしの言葉に聞き従うならば、その人は永遠の命にすでに生かされているのだ」とイエスさまは仰せになったのです。それゆえ、イエスさまは、「驚いてはならない」と言われるわけです。今、イエスさまの言葉を聞いてイエスさまをお遣わしになった御父を信じている私たちは、命を受けるために復活することに驚いてはならない。なぜなら、私たちはこの地上で神さまとイエス・キリストを礼拝し、永遠の命の祝福に既にあずかっているからです。そうは言っても、29節に、「善を行った者は」と書いてあるではないかと思われる方がおられるかも知れません。この29節で、「善を行った者」と「悪を行った者」と並んで記されていますが、ここで「行った」と訳されている言葉は、もとの言葉ですと別の言葉が用いられています。「悪を行った者」の「行った」は、これは文字通り「行った」ということですが、「善を行った者」の「行った」は、「(実を)結んだ」とも訳すことができるのです。ですから、「善を行った者」は、「善の実を結んだ者」と訳すことができます。そして、この善の実は、主イエスの御言葉に聞き従う生活によって結ばれる善の実なのであります。それゆえ、ジャン・カルヴァンは、このところを注解して次のように述べています。「キリストはここで、救いの原因を扱っているのではなく、ただ信者たちを、かれらのしるしで特徴づけ」ている。ここには明らかに、ある緊張関係があります。それは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とイエスさまが言われる緊張関係です(ヨハネ14:23)。イエスさまは、25節で、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と仰せになりました。イエスさまの御声に聞き従う者は生きる。では、その歩みはどのようなものか。それはイエス・キリストの聖霊に導かれる歩みなのです。キリストの律法に従って善の実を結ぶ歩みなのであります。ガラテヤの信徒への手紙には、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると記されています。そのような霊の実を結ぶ者たちとして、私たちはキリストの再臨の日に、墓の中から復活し、命を受けるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストの愛に留まり、イエス・キリストの御言葉に留まり続けなくてはならないのです。私たちに与えられております聖霊を主と崇め、その導きに従い続けなくてはならないのであります。
今すでに永遠の命に生きる者とされているという現在的終末論と、世の終わりに、命を受けるために復活するという未来的終末論は、そのはざまに生きる私たちに、善という聖霊の実を結んで生きることを要請するのです。別の言葉で言えば、私たちが互いに愛し合って生きることを要請するのです。そして、そのとき、イエスさまは、「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と仰せになるのです。
30節をお読みいたします。
「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ここでは、再び父と子の一体性と、それに基づくイエスさまの裁きの正しさが記されています。19節、20節に、「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなされることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」とありましたように、裁きにおいても、イエスさまは父から聞くままに裁かれるのです。それゆえ、イエスさまの裁きは正しいのです。なぜなら、イエスさまは自分の意志ではなく、御自分をお遣わしになった方の御心を行おうとするからであります。「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」。このイエスさまのお姿を私たちは、あのゲツセマネの祈りにおいて見ることができます。イエスさまは、十字架を前にして、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と切に祈られました。そして、その祈りの中で、御自分が全人類に対する神の怒りの杯を飲み干すという御父の御心を受け入れられたのです。イエスさまは、祈りを通して御父の御心を御自分の心とされたのです。イエスさまが、「わたしの裁きは正しい」と言うことができるのは、十字架の主の裁きを、自ら進んでお受けになられた従順のゆえであったのです。ヨハネによる福音書は、このゲツセマネの祈りを記しておりませんけども、その代わりに最後の晩餐でのイエスさまの祈りを記しています。イエスさまはその祈りの中でこう祈られています(ヨハネ17:19)。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。
このようなイエスさまの祈りの実現として、今、私たちはイエス・キリストを信じる者とされているのです。イエスさまはこの祈りを実現するために、私たち一人一人に真理の霊をお遣わしくださっているのです。そうであるならば、私たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまわねばならないのです。私たちが自ら古い自分を十字架につけなくてはならないのです。そして、聖霊を主として、心の王座に迎え、心に蓄えた御言葉を通して語られる聖霊の御声に聞き従わなくてはならないのです。イエスさまを信じれば、自動的に善の実を結ぶことができるかと言えば、そうではないのです。日々、心の奥底で聖霊を主と崇め、その御声に信仰をもって従っていくとき、聖霊は私たちの内に善の実を結ぶことができるのです。願わくは、聖霊の導きに従って歩み、私たちがいよいよ聖霊の実を結び、自分が命を受けるために復活する者であることをいよいよ確信させていただきたいと願うのであります。