御子イエスの権威 2009年7月19日(日曜 朝の礼拝)
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御子イエスの権威
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 5章19節~23節
聖書の言葉
5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
ヨハネによる福音書 5章19節~23節
メッセージ
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先程は、ヨハネによる福音書第5章19節から30節までをお読みいただきました。このところには、イエスさまの教えが記されています。イエスさまの教えは、第5章の終わりの47節まで続くのですが、長いので何度かに分けてお話ししたいと考えております。今朝は19節から23節までを御一緒に学びたいと思います。今朝の御言葉にあるイエスさまの教えは、第5章1節から18節に記されていた「ベトザタの池で病人をいやす」というお話しの続きとなっています。イエスさまが安息日にベトザタの池で38年も病気で苦しんでいた人を癒されました。それを知ったユダヤ人たちはイエスさまを安息日の規定を破る者として迫害するようになります。当然、ユダヤ人たちは、イエスさまに「あなたはなぜ安息日にこのようなことをするのか」と問うたのでしょう。その問いに対するイエスさまのお答えと、ユダヤ人たちの反応が17節、18節にこう記されておりました。「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」
当時のユダヤ人たちは、神さまを「わたしたちの父」と言うことはあっても、「わたしの父」とは決して言いませんでした(イザヤ63:16)。しかし、イエスさまは神さまを「わたしの父」と呼び、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われたのです。イエスさまは、御自分が安息日に働かれる理由を、父と子の一体的な関係によって正当化されたわけです。私たちは、プロローグの「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という御言葉に導かれて、ヨハネによる福音書を読み進めてきましたし、何より父と子と聖霊なる三位一体の神さまを信じておりますから、イエスさまが、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」という記述を読んでも何も驚かないわけです。当然のことと思っているわけですね。けれども、神は唯一であることだけを信じるユダヤ人にとって、神を父と呼び、自分を神と等しい者とすることは、神を冒涜することであり死に値することであったのです。ちなみに、ユダヤ人にとって、自分を神と等しい者とすることは、自分を善悪の基準とすることであり、神さまから独立した権威を主張することを意味しておりました。そのことは、創世記第3章のエデンの園のお話しを思い起こしてくださればよくお分かりいただけると思います。アダムとエバは、神の掟に背き、禁じられた木の実を食べたことによって、エデンの園から追放されるわけですが、そのとき主なる神はこう言われました。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」。この神さまの御言葉こそ、自分を善悪の基準とし、神から独立した権威を主張する者になったとことを意味しているのです。神さまが「決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪の木の実を、蛇に誘惑されて自分の意志でエバとアダムは食べてしまった。彼らはそのとき、神の言葉を善悪の基準とせず、自分自身を善悪の基準としてしまったのです。ですから、ユダヤ人は、自らを神と等しい者と主張するイエスさまを、神さまから独立した権威を主張する冒涜者と見なしたのです。そのような彼らに対して、父と子の一体的な関係がどのような関係であるのかを教えられるのです。御父と御子がどのような関係にあるのか。そのことをイエスさまは今朝、私たちにも教えてくださるのです。
19節、20節をお読みいたします。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたが驚くことになる。
ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。私たちがお祈りを結ぶ「アーメン」という言葉を重ねて、イエスさまは「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」と語り出しておられるのです。「アーメン」とは、ヘブライ語で「真実です」とか「本当です」という意味ですから、イエスさまはこのように語り出すことによって、これから語る言葉が特に大切な教えであることを示しています。まさに神の御子の権威をもって語られる教え、それが「はっきり言っておく」という言葉によって表されているのです。前もって言っておきますと、「はっきり言っておく」という言葉は、19節と24節と25節の三個所に記されています。ですから、19節と24節と25節は特に大切であると言えるかも知れません。そのようなことも心に留めつつ、このところを読んでいただければと思います。
さて、イエスさまは17節で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と仰せになりました。ここでイエスさまは、父と子である御自分が一体的な関係にあると言われたわけですが、そのことが19節の御言葉によって、より詳しく教えられています。すなわち、父と子との一体性は、父が子を愛してすべてのことを示し、子が父のなさることをなんでもそのとおりにすることによって成り立つ一体性なのです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」というイエスさまの御言葉は、別々の働きのことを言っているのではありません。私たち人間にたとえるならば、「お父さんが日曜日も会社に行くから、わたしもアルバイトをする」ということではないのです。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、という別々のことではありません。むしろ、ここで言われている光景は、父の働く姿を見ながら、子も同じ仕方で、同じ仕事をする。そのような一緒に心を一つにして働く光景であります。今からおよそ2000年前のイエスさまの時代、職業選択の自由という考え方はまだありませんでした。子は父と同じ職業に就くのが当然のことであったのです。そして、子は父がすることを間近に見ることによって仕事を身に着け、そして、父も子を愛して、自分の知恵や技術を惜しみなく教えるわけです(例えば、大工や漁師)。そのような当時の父と子の関係を思い浮かべながら、19節、20節のイエスさまの御言葉を読むとよくお分かりいただけると思います。もちろん、ここでイエスさまは三位一体の神の御父と御子との関係について教えられているのですから、人間の父と子の関係をそのままは当てはめるには限界があります。例えば、イエスさまはここで「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もできない」と仰せになりました。この言葉は、イエスさまが神と等しい者と主張することにより、神から独立した権威を持つと主張していると考えていたユダヤ人の誤解を取り除く言葉となっています。イエスさまは、子は自分からは何もできない、子は自分勝手に何かしようとすることはない。むしろ、子は父のなさることを見て、同じ仕方で、同じ働きをする。そのようにして、わたしは父と一つとなって働いているのだと言うのです。このことは、御父と御子の独特な関係であるわけです。先程も申しましたように、イエスさまは、「アーメン、アーメン」と神の御子の権威をもって御父と御子の関係を教えてくださっているのですから、私たちもここでイエスさまが教えてくださっていることを「アーメン、その通りです」と信仰をもって受け入れるべきなのです。一番良いのは、暗記してしまうことだと思います。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」。三位一体の神の御父と御子との関係はこういうものだとアーメンと受け入れる。これが大切なことだと思うのです。
御父のなさることはなんでもその通りにしたいという御子の従順と御自分のなさることはすべて御子に示されるという御父の愛によって、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という御父と御子の一体性が成り立ている。そして、その働きこそが、ベトザタの池で38年も病気で苦しんでいる人を癒すことであったのです。20節の後半に、「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」とありますけども、「これらのこと」の一つには、ベトザタの池で38年も病気で苦しんでいる人を癒したことが含まれているのです。そのことは、より「大きな業」が何であるかを考察するとき、明かとなっていきます。
21節から23節までをお読みいたします。
すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
ここに、より「大きな業」が何であるかが記されています。それは、死者を復活させ命を与えることと裁きを行うことです。命を与えることと裁きを行うこと、この2つがより大きな業であります。命を与えることと、裁きを行うこと、この2つは神さまだけがなすことのできるお働きと信じられておりました。命を与えになるのは神さまだけ。世界を正しくお裁きになるのは神さまだけ。このように考えられていたのです。神さまこそ、すべての命の源であり、すべての人の裁き主である。これが旧約聖書の教えるところであり、ユダヤ人たちが信じていたことでありました。けれども、イエスさまは「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」と言われるのです。死者の復活、これは旧約聖書が預言するところの希望の約束でありました。例えば、イザヤ書の第25章7節、8節にこう記されています。
主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
また、同じイザヤ書第26章19節にこう記されています。
あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
このように死者を復活させ命を与られるのは、神さまだけがなさる御業であると信じられていました。けれども、御父がなさることはなんでもそのとおりにする御子も、与えたいと思う者に命を与えることになるとイエスさまは仰せになるのです。そして、そのことの先駆けが、ベトザタの池の病人の癒しであったわけです。ここで注目したいことは、「子も、与えたいと思う者に命を与える」と、子の選びの主権、自由が語られているということです。ベトザタの池で癒された人はまさにそうでした。彼はイエスさまから一方的に声をかけられ、癒されたのです。もちろん、このベトザタの池の病人は、まだ死んではおりませんでした。けれども、彼が38年間も病気で苦しんでいたこと、神殿礼拝からも閉め出され、心にかけてくれる人が誰もいなかったことを考えますならば、この人は生きながら死んでいたも同然であったと言えます。しかし、イエスさまはその男を力ある御言葉によって起き上がらせ、良くなったことのしるしとして床を担ぐようにお命じになりました。8節の「起き上がりなさい」と訳されているイエスさまの御言葉は、「よみがえりなさい」とも訳すことのできる言葉です。そうであるならば、不治の病で横たわっていた男の癒しは、御子イエスが、死者を復活させて命を与えることの先駆けであったのです。
また、ベトザタの池の病人の癒しは、御父が裁きを一切御子イエスに任せられたことの先駆けであったとも言えます。これも前回お話ししたことですが、福音書において病の癒しは単なる医療行為ではなくて、罪の赦しと密接に結びついています。ですから、14節の「あなたは良くなったのだ」というイエスさまの御言葉は、病が完治されたことの宣言であるばかりでなく、罪の赦しの宣言でもあったのです。それゆえ、ベトザタの池の病人の癒しは、その人を罪から解き放ち、罪を赦すという主イエスの裁きの先駆けであったのです。
命を与えることと裁きを行うこと。この2つは、実は当時のユダヤ人たちが神さまが安息日にもなされている御業であると考えておりました。ユダヤ人たちも、安息日であるからといって、神さまがすべての御業を休まれるとは考えませんでした。ユダヤ人たちも、命を与えることと裁きを行うことの2つに関しては、神さまは休むことなく働き続けておられると考えていたのです。そして、イエスさまは、まさにその2つの御業について「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われたのです。ただ一緒に働くというよりも、22節に「父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とあるように、御父はその主導権を御子に委ねてしまっているのです。そして、そのことが起こるのが、20節の後半に記されている「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」ときなのです。「大きな業」については、「死者を復活させて命を与えることと裁きを行うこと」であることを確認しました。また、ベトザタの池の病人の癒しがその先駆けであったことも確認しました。けれども、その「大きな業」を御子ができるようになるためには、まず御父が御子にお示しにならなければならないのです。なぜなら、19節にありましたように、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」からです。
では、御父が死者を復活させて命をお与えになることを御子にお示しになるのはいつでしょうか。さらには、御父が裁きを行うのを御子にお示しになるのはいつでしょうか。それは、十字架の死と復活においてであったのです。
「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」。このような御父と御子の関係において、御子イエスが死者を復活させて命を与える働きをするために、自らが死者の中から復活させられねばならなかったのです。また、裁きを行うために、自らが十字架の上で御父から裁かれねばならなかったのです。
ヨハネによる福音書第3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という有名な御言葉がありましたけども、それでは、御子が十字架にかけられたとき、御父は御子を愛していなかったのかと言えば、決してそうではないのです。20節にありますように、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子にお示しになる」のです。
イエスさまは永遠の神の御子だから、苦労もせずに、命を与える権能と裁きを行う権能を与えられた。そのように考えるならば、大間違いです。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。イエスさまは、死者を復活させて命を与えるために、まず御自分が死者の中から復活させられねばならなかったのです。イエスさまは、裁きを行うために、まず御自分が十字架の上で裁かれねばならなかったのです。そのようにして、イエスさまは御父から示されたより「大きな業」を御自分の業となされたのです。そのようにして御父は、すべての人が御子をも敬うようになされたのです。罪の赦しも、永遠の命も、直接御父から与えられるのではなくて、御父によって権能をゆだねられた御子イエス・キリストによって与えられます。それゆえ、私たちは御父を礼拝すると共に、御子イエス・キリストをも礼拝しているのです。そして、それが御父を敬う唯一の道なのです。