今もなお働くイエス 2009年7月12日(日曜 朝の礼拝)
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今もなお働くイエス
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 5章9節~18節
聖書の言葉
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。ヨハネによる福音書 5章9節~18節
メッセージ
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先程は、ヨハネによる福音書の第5章1節から18節までをお読みいただきました。前回は、1節から9節前半までを学びましたので、今朝は9節後半から18節までを御一緒に学びたいと思います。
9節後半から13節までをお読みいたします。
その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。
イエスさまが、ベトザタの池で、38年も病気で苦しんでいる人を癒したのは、安息日でありました。ここから、イエスさまがベトザタの池で病人をいやすというお話しの中に、ユダヤ人との安息日論争が流れ込んできます。ユダヤでは、週の最後の日、今でいう土曜日を安息日と定め、あらゆる労働が禁じられておりました。モーセを通して与えられた十戒の中に次のような掟があります。出エジプト記の第20章8節から11節までをお読みいたします。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
ユダヤ人は、この掟に従って、安息日にはあらゆる労働を禁じておりました。そして、律法学者が定めた39の細則によれば、床を担ぐことは安息日に禁じられていた労働であったのです。床といっても、ござや粗末なマットレスのようなものであったと思います。その床を担いで歩いている男を見て、ユダヤ人たちは驚いたと思います。そして、その男を引き止めて、「今日は安息日だ。だから、床を担ぐことは、律法でゆるされていない」と責めたてたのです。そう言われてこの人は何と言ったのか。この人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。確かに、8節を見ると、「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」と書いてありますから、この人は事実をありのままに告げたとも言うこともできます。しかし、その言葉を聞いてユダヤ人たちは面白くなかったと思います。自分たちがモーセの掟に基づいてしてはならないと禁じていることを、するように命じるとは何事か、そのように思い、彼らは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねたわけです。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知りませんでした。聖書は、「イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」と記しておりますけども、この記述を読んで、わたしはどこか違和感を覚えるわけです。38年も患っていた病気を癒してくれた人の名前を聞かず、感謝の言葉を述べることもなく去らせることがあるのだろうか、そのような違和感を覚えるのです。その違和感は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」という男の答えを読んだときに、既にわたしの中で生じていたものでありました。ここで男は安息日規定を破った者としてユダヤ人たちから引き止められました。彼は言ってみれば現行犯なのです。そうであれば、「すみませんでした」と答えるべきであったのではないでしょうか。ここで、ユダヤ人たちは、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と彼の違反を指摘しているだけであって、だれが担ぐようにと言ったのかなどとは問うていないのです。しかし、この人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えたのでありました。これを皆さんはどうお読みになるでしょうか。有力な一つの読み方は、この人がユダヤ人から責められたとき、その責任を、自分をいやしてくださった方になすりつけたという読み方です。確かに、この人がここで答えたことは事実であります。実際に、イエスさまは男を癒し、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです。しかし、ユダヤ人から違反を責められているこの状況におけるこの人の言葉は、言い逃れの口実のように聞こえてならないわけです。そして、この人の言葉によって、ユダヤ人の関心は、この人から、この人に「床を担いで歩きなさい」と言った方へと移っていくのです。
14節から16節までをお読みいたします。
その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに告げた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
お話しの舞台は、エルサレム神殿へと移っております。38年間病気で苦しんでいたこの人も、今や神さまを礼拝する民の一員として神殿に詣でておりました。そして、その神殿でイエスさまの方から、彼を見つけ出して、こう言われたのです。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。このイエスさまの御言葉も意味深長な御言葉であります。「あなたは良くなったのだ」。このイエスさまの御言葉は、6節の「良くなりたいか」という言葉と対応しています。「あなたが欲したようにあなたはよくなった」という癒しの宣言とも言える御言葉です。問題は続く「もう、罪を犯してはいけない」という言葉をどのように理解するかということです。読み方によっては、ここでイエスさまは、この人が38年も病気であったのを、この人が犯した特定の罪と結びつけているかのように読むことができます。しかし、そうなると第9章のイエスさまの御言葉と矛盾するのではないかとという議論がなされるわけです。第9章1節から3節にはこう記されています。
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
ここで、イエスさまは、この人が生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになることによって、個人の病と特定の罪を結びつけることを否定されました。そればかりか、その病を通しても現れる神の御業があるのだ、その病を通してしか現れない神の栄光があるのだと教えられたのです。それなのに、今朝の御言葉の第5章では、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と、まるでこの人の病がこの人の特定の罪と結びついているようなものの言い方をしている。これは矛盾するのではないか、こう議論する人たちがいるのです。わたしは、イエスさまが「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と言われることによって、彼の病を彼の特定の罪に由来するとは決して言われてはいないと思うのですが、事柄を正しく捉えていただくために、聖書が教える罪と病の関係について整理しておきたいと思います。
聖書の教えるところによりますと、神さまが力ある御言葉により、六つの日に渡ってお造りになった世界は、はなはだ良い世界でありました。そこには、罪も、死もありませんでした。ですから、当然死の力の現れである病もなかったのです。罪や死や病がこの世界に場所を持つようになったのは、始めの人類であるアダムが「決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪の木の実を食べて罪を犯したことに由来します。使徒パウロが、ローマの信徒への手紙第5章12節でこう述べている通りです。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ですから、神さまのお造りになった良き世界に、なぜ、死や病があるのかと言えば、それはアダムの最初の罪の結果であると言えるのです。なぜ、神が造られた良き世界に、死や病があるのかと言った普遍的な問いに対しては、聖書は、始めの人類であるアダムが神の掟に背き、すべての人がアダムにあって罪を犯しているからであると教えています。けれども、それは普遍的な問いへの答えでありまして、なぜ、「この人は生まれついて目が見えないか」と言った各個人への問いに対しては、聖書はその病や障害の原因をその人の罪や両親の罪と結びつけることをせず、神の栄光が現れるためであると答えているのです。すべての人の病と罪を担って苦難の死を遂げてくださるイエスさまがそのように仰せになられたゆえに、それは慰めに満ちた真実となったのです。
さて、わたしは、先程も申しましたように、イエスさまが「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と言われることによって、彼の病が彼の特定の罪に由来するとは決して言っていないと思うのですが、そのことは、マルコによる福音書の第2章に記されている「中風の人をいやす」というお話しと重ねて読むときに明らかになると思います。少し長いですがお読みいたします。
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んできた。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
この「イエスさまが中風の人をいやす」というお話しは、いくつかの点で今朝の御言葉と共通するところがあります。最も著しい共通点は、「起きて上がりなさい、床を担いで歩きなさい」というイエスさまの御言葉にあります。そして、今問題としております「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」という御言葉についても、ここでマルコが伝えているのと同じことをヨハネも記していると思うのです。イエスさまは、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。それを聴いて律法学者たちが、「この男は神を冒涜している。神の他に罪を赦すことができようか」とあれこれ考え始めたので、中風の人に対する罪の赦しが確実であることのしるしとして、その病を癒されたのです。ここで教えられていることは、イエスさまの癒しは単なる医療行為ではなくて、罪の赦しと密接に結びついているということです。そのことを念頭において、ヨハネによる福音書の「あはたは良くなったのだ」というイエスさまの御言葉を読むならば、これはただ病が癒されたことだけではなくて、罪が赦されたことの宣言であるとも読むことができるのです。よって、「もう罪を犯してはいけない」というイエスさまの御言葉は、罪赦された者に対する激励の言葉として読むことができます。これは、教会に宛てて記された手紙の中で、私たちがしばしば目にするのと同じ主旨の言葉であると思います。例えば、テサロニケの信徒への手紙一第4章1節から8節までにこう記されています。
さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活をするように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
ここで、パウロが言っていることを、イエスさまは、ひと言で「もう、罪を犯してはいけない」と言われている。そのように読むことができるのです。
さて、それでは、「さもないともっと悪いことが起こるかもしれない」というイエスさまの御言葉は、どのように読んだらよいのでしょうか。イエスさまの御言葉を、この人の病の原因をこの人の特定の罪に結びつけて読む人は、「もっと悪いこと」をさらに大きな病と解釈しますが、わたしは、この「もっと悪いこと」を、イエスさまの恵みにあずかりながら、イエスさまとの関係を自ら捨ててしまうことであると解釈したいと思います(ルカ11:24~26参照)。イエスさまの恵みにあずかりながら、イエスさまとの関係を自ら捨ててしまうこと。それが「もっと悪いこと」なのです。この人に関して言えば、イエスさまに38年も患っていた病を癒され、神殿礼拝にも参加することができるようになったにも関わらず、イエスさまとの関係を捨ててしまうこと。これこそ、イエスさまが警告された「もっと悪いこと」であります。そして、現に、この人は立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせるのです。この人は、自分を病から癒してくださった人がイエスさまだと分かったとき、ひれ伏して感謝をささげたのではないのです。わたしも一緒に連れて行ってくださいと願いでたわけでもないのです。この人は自分を癒したのはイエスさまであることを知ったときどうしたか。この人はイエスさまに感謝の言葉も言わずに立ち去ったのです。そして、自分を癒し、自分に「床を担げ」と言ったのがイエスであることをユダヤ人たちに知らせるのです。そのようにして、この人のうえに、イエスさまの恵みにあずかりながら、イエスさまとの関係を捨ててしまうというもっと悪いことが起こるのです。
今朝の御言葉から説教をするに当たって、わたしは正直に申しまして気が重かった。といいますのも、今朝の御言葉に、何だか得たいの知れない、おどろおどろしいものを感じたからです。それは、38年も患っていた病が癒された人の振る舞いです。なぜ、この人は、床を担いでいることをユダヤ人から咎められたとき、恩人であるはずのイエスさまに難がおよぶことを言ったのだろうか。さらには、なぜ、この人は、自分を癒してくれた方がイエスさまであることを知ったとき、感謝の言葉も言わずに、立ち去り、さらにはユダヤ人にそのことを告げたのだろうか。わたしは、ここに得たいの知れない、おどろおどろしいものを感じるのです。そして、これこそ、人間の内に巣くう罪なのだと思います。それは言い換えれば、神の恵みを恵みとして感謝することができず、当然と考えてしまう人間の心です。自分に不利益なことは、すべて人のせいにして、自分を正当化しようとする心です。この人は、自分を癒したのはイエスだとユダヤ人に伝えることによって、安息日の規定に違反したとの責めを免れることができたかも知れません。けれども、この人は、それによって自分の身にもっと悪いことを招いてしまったことに気づいていないのです。自分の発言が、イエスさまを安息日に癒しの業をなし、安息日の規定を破るように教えている人物として告発していることに気づいていないのです。そのユダヤ人たちが、イエスさまを迫害するようになることに気づいていないのです。彼は無知であって、悪気はなかったとも言えるかも知れません。けれども、それも罪なのです。
17節、18節をお読みいたします。
イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
ここでは、ユダヤ人たちからの「なぜ、あなたは安息日にいやしの業をしているのか」という質問があったことが前提とされています。ユダヤ人たちは、命に関わる場合以外は、安息日にいやしの業をすることを禁じておりました。今手当をしなければ死んでしまうという場合は医療行為をしてもよいけども、そうでなければ、安息日にしてはならないと禁じていたのです。イエスさまは38年も病であった人を安息日に癒されましたが、彼らの理屈から言えば、わざわざ安息日に癒す必要はないと言うわけです。しかし、福音書を読むとお気づきのように、イエスさまはわざと安息日に癒しの業をなされたふしがあります。いわば、イエスさまは確信犯であったと言えるのです。イエスさまからすれば、安息日ほど、癒しの業をするのにふさわしい日はないのです。なぜなら、病の癒しは罪からの解放を示していたからです。そして、安息日は、父なる神が贖い主としてお働きになられたことを覚える日でもあったからです。
先程は、出エジプト記の第20章に記されている十戒の安息日の掟を読みました。そこでは、安息日が、神さまが創造の御業を終えて、七日目に休まれたことを覚える日とされておりましたけども、申命記の第5章に記されている十戒の安息日の掟には、神さまがイスラエルの民を奴隷の家エジプトから贖いだした御業を覚える日とされているのです。申命記の第5章12節から15節までをお読みいたします。
安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。
この申命記の十戒の記述を読むとき、イエスさまの「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という御言葉の意味がよく分かるのではないかと思います。神さまは創造の御業においては休まれたと言うことができますけども、それを保ち、回復する御業においては、休みなく働き続けておられるのです。それゆえ、「わたしも働くのだ」と御子イエス・キリストは仰せになるのです。罪と死が力を振るうこの世界にあって、イエスさまは父なる神と共に、今もなお御言葉と聖霊において働き続けておられます。主の日の礼拝において、私たちを罪から解き放ち、御言葉の糧をもって養い続けてくださいます。私たちにまことの安息、永遠の安息を与えようと、今もなお、父なる神と主イエス・キリストは働いておられるのです。このように考えますと、安息日こそ、私たちが奉仕や伝道するのにふさわしい日であることが分かってきます。私たちはときどき礼拝後に会堂の掃除をしたり、敷地内の草刈りをしたりします。また、礼拝後に特別伝道礼拝のチラシを配りに行くこともあります。そのとき、わたしは、今日は安息日だから、他の日にした方が良いのかなぁと思うこともあるのです。けれども、今朝のイエスさまの御言葉によれば、安息日こそ、それにふさわしい日であるということが分かるのです。私たちもイエス・キリストにあって、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言うことができるのです。そのように私たちも、父なる神の御心を積極的に行う日として、安息日を聖別することが求められているのです。