良くなりたいか 2009年7月05日(日曜 朝の礼拝)

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良くなりたいか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。ヨハネによる福音書 5章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からヨハネによる福音書の第5章に入ります。このところには、小見出しにありますように、「ベトザタの池で病人をいやす」というお話しが記されておりますが、今朝は1節から9節前半までを御一緒に学びたいと思います。

 1節から3節までをお読みいたします。

 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。

 前回私たちは、イエスさまが「ユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるし」について学びましたけども、今朝の御言葉では、再びイエスさまがエルサレムへと上られたことが記されています。それは「ユダヤ人の祭りがあった」からです。この「ユダヤ人の祭り」が何の祭りであったかは分かりませんが、こう記すことによって福音書記者ヨハネは、イエスさまがエルサレムへと上られた理由を説明し、沢山の人がエルサレムに集まっている情景を読者に思い描かせようとしています。

 2節に、「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」とあります。今朝の週報に、参考資料として「ベトザタの池の復元図」を印刷して挟んでおきました。これを見ていただければ、ベトザタの池がどのようなものであったかよくお分かりいただけると思います。このように復元図を描き、また模型を造ることができるのは19世紀の後半(1888年)に、エルサレム神殿の北方にある聖アンナ修道院の構内で、遺跡が発掘されたからです。考古学の恩恵にあずかって、私たちはベトザタの池がどのような池であったかを目の当たりにすることができるのです。資料の中に聖書辞典の文章を一部切り取って貼っておきましたが、ベトザタの池はもともとはヘロデ大王によって、巡礼者の沐浴のために造られたものでありました。その回廊にいつしか、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが集まるようになっていたのです。回廊とは、屋根のついた廊下のことでありますから、おそらく始めは、雨露をしのげるという実用的な理由から病気の人や体に障害を持った人が集まってきたのだと思います。そして、迷信とも言えるある言い伝えが広まることによって、ますます多くの病気の人や体に障害を持つ人が集まるようになったと考えられるのです。その「迷信とも言えるある言い伝え」とは、ヨハネによる福音書の最後のページに記されている「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」の言葉です。ヨハネによる福音書の最後のページ、212頁をお開きください。そこに「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」とあり、第5章3節後半から4節として、次のように記されています。「彼は、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。この言葉は、もともと本文にはなかったが、写本を作っていく過程において、書き加えられたものと考えられています。いずれにせよ、このような迷信とも言える言い伝えによって、病気の人や体に障害をもった人が大勢集まっていたのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の171頁です。

 ついでのようでありますが、かつての口語訳聖書ではこの家の名前は「ベテスダ」となっておりました。これは翻訳すると「憐れみの家」となります。私たちが今用いております新共同訳聖書では「ベトザタ」となっていますが、こちらは翻訳すると「オリーブの家」となります。この池の名前も写本によっていくつかあるのですが、元々は新共同訳聖書が記しておりますように、ベトザタ、オリーブの家であったと考えられています。しかし、そこに多くの病人が集まるようになり、いつしかベテスダ、憐れみの家と呼ばれるようになったと考えられているのです。イエスさまがベトザタの池を訪れたとき、おそらくこの池は当初の目的であった巡礼者の沐浴の場というよりも、病気の人や体に障害を持つ人が集まるさながら病院のようになっていたのではないかと思うのです。

 5節、6節をお読みいたします。

 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

 ここでイエスさまは、38年も病気で苦しんでいる男に目を注がれます。イエスさまは、その男の人が横たわっているのを見、もう長いこと病気であることを知って、「良くなりたいか」と尋ねられるのです。「良くなりたいか」。このイエスさまの御言葉は、もとの言葉を直訳すると、「あなたは健やかになることを欲しているか」となります。長い間病気である人に、イエスさまは良くなることをあなたは欲しているか、どうかの意志を問うているのです。「良くなりたいか」。このイエスさまの御言葉は、私たちに色々なことを考えさせる御言葉であります。私たちなら、長い間病気である人に、「あなたは良くなりたいですか」とは決して尋ねないと思うのです。それは、尋ねるまでもないことのように思えますし、何より残酷な質問のように思えるからです。なぜ、残酷な質問のように思うのかと言えば、私たちはその人を癒すことができないからです。長い間病気である人に、「あなたは良くなりたいですか」と尋ねて、「はい、良くなりたいです」と答えられても、私たちにはその人を癒すことができません。けれども、イエスさまは違います。イエスさまは、どんな病気にかかっている人でも癒すことができるのです。しかし、長い間病気であるこの人は、自分に話しかけてきた男が、どんな病気でもいやすことのできるお方であることを知りませんので、こう答えるのです。7節。「病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。』」

 この病人の言葉は、先程の「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」を念頭において読むときよく分かります。この人も「主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていてもいやされる」ことを信じて、水が動くのを待っていたのです。この人は38年も病気で苦しんでいたわけでありますが、おそらく、良くなるためにあらゆる手段を尽くしてきたと思います。しかし、良くならなかった。そこで彼はベトザタの池の言い伝えに希望を見出して、水が動くのを待っていた。そして水が動くたびに、体を引きずるようにして何度も水の中に入ろうと試みたのです。水が動いたとき、真っ先に水に入る者が本当に癒されたのかどうかは分かりません。しかし、この言い伝えが、この回廊に横たわっていた病気の人や体に障害を持った人の心の支えになっていたことは確かだと思います。まるっきり癒されないよりも癒される希望がある。そのことが彼らの心を支えていたと思うのです。

 ベトザタの池の回廊に横たわっていた人たち、彼らは言うなれば、ユダヤ人社会から閉め出されてしまった人たちです。1節に、「ユダヤ人の祭りがあったので」とありましたけども、その祭りからも閉め出されてしまった人たち、礼拝という神さまとの交わりからも閉め出されてしまった人たちなのです。そのような人たちが、うそか本当かも分からない言い伝えに望みをつないで生きていたのです。しかし、そのような人々を神の御子であるイエス・キリストは訪ねてくださったのです。そして、38年も病気で苦しんでいた人を癒すことにより、どこに本当の望みがあるのかを教えてくださったのです。

 イエスさまの「良くなりたいか」との問いに、この人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです」と答えました。これによって、この病人は何を伝えようとしているのでしょう。それは、誰も自分のことを気に留めてくれないことへの嘆きであり、さらにはイエスさまに水が動くとき、自分を池に中に入れて欲しいとの願いであったと思います。私は先程、この池は元々はベトザタ、オリーブの家であったが、病気の人や体に障害を持っている人が多く集まることによってベテスダ、憐れみの家と呼ばれるようになったのだろうと申しました。けれども、その実体は、お互いに心を配り合うことのできない。なんとも寒々しい所であったのです。水が動くとき、真っ先に水に入る者だけが癒されるのですから、人々は緊張して水面を見ていなくてはなりません。そして、もし動いたならば、誰よりも先に池の中に入らなくてはならないのです。いわば、周りの人がすべて競争相手です。人のことなど考えている余裕などありません。皆が自分のことだけで精一杯なのです。そのような世界に生きているこの病人にとって、イエスさまが「良くなりたいか」と声をかけてくださったことは願ってもないチャンスであったのです。この病人は自分の不遇を嘆くことにより、イエスさまに水が動いたときには、自分を水の中に入れてもらおうとするわけです。しかし、イエスさまはこの病人にこう言われるのです。8節から9節前半までをお読みいたします。

 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。

 38年も病気で苦しんでいた人に、イエスさまが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われると、その人は即座に良くなり、床を担いで歩き出しました。ここでは、この病人の信仰についてはひと言も触れられていません。ここで強調されているのは、イエスさまの御言葉の力であります。イエスさまこそが、どんな病気をもいやすことのできる癒し主であるということです。出エジプト記の第15章26節に、「わたしはあなたをいやす主である」と記されていますが、イエス・キリストこそ、私たちをいやす主なのです。

 こう聴きますと、わたしはイエスさまを信じているけども、わたしの病は癒されていないではないかと思われるかも知れません。確かに、私たちの現実から言えば、イエスさまを信じていても、なお病を患っていると言えます。しかし、私たちが信仰の眼で見るとき、その病はイエス・キリストによって担われ、すでに癒されていると言えるのです。マタイによる福音書は第8章に、イエスさまが多くの病人をいやされたことが記されておりますが、ここでその所を開いて読んでみたいと思います。新約聖書の13頁です。

 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 ここでマタイが実現したと言っているイザヤ書の預言は、第53章に記されている苦難の僕の歌であります。なぜ、イエスさまは病人を癒すことができたのか。それはイエスさまが彼らの病を担って、ついには十字架の死を死んでくださるお方だからです。確かに、イエス・キリストを信じていても、病を患い、病のために苦しむということはあります。けれども、その病は、イエスさまがすでに担ってくださった病であるのです。そのことを知るとき、イエス・キリストにあって、どんな病をも癒されていることを信じることができるのです。これも信仰です。イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストにあってどんな病も癒されるということを信じることを含み持つのです。病を患いながらも、イエス・キリストの命に生かされていることを信じるのです。そのことを信じて、感謝しつつお医者さんの治療を受け、薬を飲むのです。そのとき、私たちは病を患いながらも、自分だけにとらわれることから解放されます。他者に心を開いて、他者に心を配って生きることができるようになるのです。自分の利益が誰かの損失のうえにしか成り立たないような世界から解き放たれて、イエス・キリストにあって、すべての人と利益を共有できる豊かな命の世界に生きることができるのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の171頁です。

 7節で病人は、イエスさまにこう申しておりました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです」。このベトザタの池の世界は、ユダヤ教の掟の世界をそのまま映し出していると言えます。ユダヤ人たちは、律法を守ることによって命を得ることができると考え、教えておりました。その彼らの教えによれば、律法を守ることのできない病気の人や体に障害を持っている人は、始めから神さまの救いにあずかれないのです。ユダヤ人によれば、彼らは神さまの救いの外にいるのです。その人たちが互いに争いながら、何とかして救われようともがいている。それがベトザタの池に映し出された掟の世界です。しかし、今朝の御言葉は神の救いとは、そのようなものでは決してないことを私たちに教えているのです。神の御子であるイエス・キリストは、自らベトザタの池を訪れてくださり、一方的な恵みによって38年も病気で苦しんでいた人を力ある御言葉により癒してくださいました。このことは、神の救いが、イエス・キリストにあって無償で提供されていることを教えているのです。資格は問いません。誰にでも提供されているのです。イエス・キリストにある救い、イエス・キリストにある命は、無尽蔵に豊かなものであるのです。誰かが得たら、誰かが得ることができない。そういうものではないのです。その豊かなイエス・キリストの命に、病を得ている者も、得ていない者も、いま共に生かされているのです。そのことを私たちは今朝互いに確認したいと思うのです。

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