イエスの言葉を信じる 2009年6月28日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 4章43節~54節
聖書の言葉
4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
ヨハネによる福音書 4章43節~54節
メッセージ
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特別伝道礼拝、講壇交換と、しばらくヨハネによる福音書から離れておりましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を学び続けていきたいと思います。
43節から45節までをお読みいたします。
二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスさまは、サマリアのシカルという町に二日間滞在された後、当初の目的地であったガリラヤへと行かれました。ガリラヤはイエスさまの故郷でありまして、イエスさまはガリラヤの町ナザレでヨセフの子としてお育ちになったのです(1:45)。その故郷へと帰るに際して、福音書記者ヨハネは、イエスさまの「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という言葉を紹介しています。このイエスさまの御言葉は四つの福音書すべてに記されている珍しい御言葉です(マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24)。例えば、マルコによる福音書の第6章1節から4節にはこう記されています。
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
これが、イエスさまが「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたもともとの脈絡であったと思います。故郷、親戚、家族と、その人の身近な人ほど、その人を預言者として敬うのは難しい。それゆえ、故郷の人々は、その人が預言者であることのしるしを見せてほしいと求めるようになるのです。このことは、ルカによる福音書の記述を見ると分かります。ルカは、イエスさまのナザレの会堂での説教を公生涯の始めに記していますが、人々の「この人はヨセフの子ではないか」という驚きの言葉を受けて、イエスさまはこう仰せになっています(ルカ4:23、24)。
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」
自分たちと生活を共にしてきた、よく知っている人物がイザヤ書の御言葉を朗読し、自分こそその預言を実現する者であると宣言なされた。それなら、そのしるしをカファルナウムでしたように見せてほしい。その癒しの御業の恩恵に同郷の自分たちこそあずかるべきであると人々は考えていたのです。その人々の心をイエスさまは見抜かれまして、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と仰せになったのです。
ここまでお話しすれば、今朝の御言葉でヨハネが記していることも自ずと明らかになると思います。44節に「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と記されているにも関わらず、続く45節の前半には、「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と記されている。これは一体どういうことであろうか。矛盾しているのではないだろうか。そのようにも思えるわけです。けれども、ヨハネは、ガリラヤの人たちがイエスさまを歓迎した理由を、45節の後半にこう記しています。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」。このようにガリラヤの人たちがイエスさまを歓迎したのは預言者としてではありませんでした。病の癒しなどの不思議な業を行う者として、イエスさまを歓迎したのです。自分たちに利益をもたらす者として、自分たちに利益をもたらす限りにおいて、ガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎したのです。そして、それはイエスさまを預言者として敬うとは別のことなのです。いやむしろ、彼らは預言者であるイエスさまを信じないからこそしるしを求めたのです。預言者とは、神の霊である聖霊を注がれて、神の言葉を預かり語る者であります。ですから、預言者を敬うということは、何よりその語る言葉そのものを重んじるということです。預言者かどうか、自分たちが判断するからそのしるしを見せてみろというのは、預言者を最も軽んじる行為であると言えるのです。そのような故郷ガリラヤにおいて、イエスさまは王の役人の息子を癒すことにより、御自分が求めておられる信仰がどのような信仰であるかをお示しになるのです。イエスさまにふさわしい信仰とはどのような信仰なのか。そのことを今朝は御一緒に御言葉から学びたいと思います。
46節から50節までをお読みいたします。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
私たちが用いております新共同訳聖書は、便宜上小見出しが付けられており、その下にカッコ書きで、その記事の並行個所が記されています。今朝の御言葉であれば「役人の息子をいやす」という小見出しがありまして、その下にカッコ書きでマタイ8章5~13節、ルカ7章1~10節と記されています。このように新共同訳聖書は、今朝の御言葉の並行個所として、マタイの第8章とルカの第7章に記されている「百人隊長のしもべをいやす」というお話しを挙げているのです。けれども、私は、これを並行個所としないで、今朝の御言葉をヨハネ独自のお話しとして読んだ方がよいのではないかと思っています。並行個所と言うには、あまりにも違うからです。たとえば、マタイとルカですと、イエスさまはカファルナウムにおられますが、ヨハネでは、イエスさまはカナにおられます。また、マタイとルカでは、イエスさまに願うのは百人隊長で明らかに異邦人ですが、ヨハネでは王の役人であり、これはユダヤ人であったと考えられます。病気にかかって死にそうなのも、マタイとルカでは、百人隊長の僕ですが、ヨハネでは王の役人の幼い息子です。このような違いから、今朝の御言葉はヨハネ独自のお話しとして読んだ方がよいと思うのです。また、何よりそのように区別して読むことによって、マタイとルカに記されている「百人隊長の僕をいやす」というお話しから読み込む危険から守られます。私は、ヨハネが伝えようとしていることを、そのまま読み解いていくことが大切であると思うのです。
さて、イエスさまは再びガリラヤのカナに行かれたわけですが、このイエスさまのもとにカファルナウムの王の役人がやって来ます。「王の役人」とありますけども、この王とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことであります。ですから、この王の役人はおそらくユダヤ人であったと考えられているのです。聖書の巻末にある聖書地図「6新約時代のパレスチナ」を見ると分かりますように、カナとカファルナウムはおよそ30キロメートルほど離れています。領主ヘロデに仕える役人、社会的地位のある高官が、カファルナウムから30キロメートルも離れたカナにいるイエスさまのもとへとわざわざやって来た。なぜなら、彼の息子が病気で死にかかっていたからです。
この役人はイエスさまに、自分と一緒にカファルナウムまで来て息子をいやしてくださるようにと願うわけですが、イエスさまの御言葉はいささか素っ気ないものでありました。48節、「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」。ここで、イエスさまは役人に言っているのですが、「あなた」ではなく「あなたがた」と言われたことに注意したいと思います。イエスさまは役人に「あなたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのではなくて、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。つまり、このイエスさまの御言葉は、この役人だけに留まらず、ガリラヤの人たちに対する御言葉として語られているのです。ちょうど第3章で、イエスさまがなさったしるしを見て信じたエルサレムの人たちの代表としてニコデモが登場してきたように、しるしや不思議な業のゆえにイエスさまを歓迎したガリラヤの人たちの代表として、この役人が登場しているのです。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。このガリラヤの人たちに対するイエスさまの御言葉は、サマリア人たちがイエスさまの言葉を聞いて信じたことを思い起こすとき、さらに強烈な印象を私たちに与えます。サマリア人たちがイエスさまの言葉を聞いて信じたにも関わらず、ガリラヤの人たちはしるしや不思議な業を見なければ信じようとはしない。ここに、そのようなイエスさまの嘆き、落胆ぶりが言い表されていると読むことができるのです。
神の独り子であるイエスさまが、永遠の命を与える世の救い主として、御自分の民のもとへ来てくださいました。けれども、ユダヤ人たちは、イエスさまを預言者としても受け入れず、しるしや不思議な業ばかりを求めておりました。では、彼らの願いどおり、しるしや不思議な業をイエスさまが行えば、彼らはイエスさまをメシア、世の救い主と信じるようになるのかと言えば、おそらくそうならないと思います。もしこの時、イエスさまが役人の願いどおり、カファルナウムまで下って行って、手を触れるなどして彼の息子を癒したとしても、この役人はイエスさまを奇跡を行う方とは信じても、メシア、世の救い主とは信じなかったと思います。この48節のイエスさまの発言はそのことを問題としているわけです。つまり、イエスさまは永遠の命を与える世の救い主として来られたのに、それを受け入れる側のユダヤ人たちは、イエスさまをどんな病をも癒すことのできる奇跡を行う方ぐらいにしか見ていないのです。このもどかしさが48節のイエスさまの御言葉の内に込められているのです。けれどもこの役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願い続けるわけです。この役人の心は、イエスさまがどのようなお方かというよりも、死にそうな息子を癒してもらいたいという思いで一杯なわけです。そこでイエスさまはどうなされたのか。イエスさまは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのです。先程私は、今朝の御言葉は、マタイとルカに記されている「百人隊長の僕をいやす」というお話しとは別のものとして読んだ方がよいと申しました。その根拠としていくつかの相違点を挙げましたけども、最も違っているのはこの所であります。マタイとルカに記されている百人隊長は異邦人でありまして、「自分はあなたを屋根の下にお迎えする資格はないから、ただ一言、御言葉をください。私も権威のもとにある者ですから、あなたの御言葉の権威がどれほどのものであるかを知っています」と言うわけです。それを受けて、イエスさまは、「これほどの信仰はイスラエルでも見たことがない」と喜ばれるのです。このようにマタイとルカが記している百人隊長は、自分から「ひと言おしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」と願うわけですが、ヨハネが記す王の役人はそうではありません。この役人の願いは、イエスさまが自分と一緒にカファルナウムまで下って来て、息子を癒してくださることでありました。ひと言いただければ、いやされる。そんなことはこの役人は考えていないわけです。しかし、イエスさまはその役人に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉をお語りになったのです。言わば、この役人は望まずして、イエスさまの言われた言葉を信じるか、信じないかを決断する所に立たされたのです。そして驚くべきことに、この役人は、イエスさまの御言葉を信じて帰って行ったのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたガリラヤ人たちの代表とも言えるこの役人が、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というイエスさまの御言葉を信じて帰って行ったのです。このとき、この役人は、イエスさまによって見えるものから見えないものへの信仰へと引き上げられたと言えます。この役人は、イエスさまの言われた御言葉がその通りになると信じました。そのようにして、この役人は、イエスさまを神の御言葉を語る預言者として敬うことができたのです。旧約聖書のイザヤ書第55章に、「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されていますが、この役人は、そのような神の言葉として、イエスさまの言われた言葉を信じて帰って行ったのです。
51節から54節までをお読みいたします。
ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気がよくなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
イエスさまの言われた言葉を信じて帰って行った役人は、その途上で、迎えに来た僕たちと出会います。主人の息子の病気が良くなり、生きていることを彼らは告げに来たのです。役人が息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは「きのうの午後一時に熱が下がりました」と答えました。それは驚くべきことに、イエスさまが「あなたの息子は生きる」と言われたのとちょうど同じ時刻であったのです。このことは、イエスさまの御言葉がカナとカファルナウムというおよそ30キロメートルの距離を超えて、力強く働かれたことを教えています。創世記の初めに、神さまが「光あれ」と言われると、「光があった」と記されているように、イエスさまの御言葉は出来事となる、まさに神の言葉であったのです。イエスさまが「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と、役人の息子の熱が下がった時刻がぴったり一致していたことは、イエスさまの御言葉が、時間と空間を超越して実現する神の言葉そのものであることを教えているのです。すなわち、イエスさまが神の御子であることを教えているのであります。福音書記者ヨハネが、「彼もその家族もこぞって信じた」と語るとき、それはイエスさまを神の御言葉を語る神の御子として信じたということです。それゆえ、今朝の御言葉は、カナの婚礼に続く、二回目のしるしであると言われているのです。
今朝の御言葉に、「生きる」という言葉が三度も記されていることは私たちの目をひくことであります(50、51、53節)。そのことは、イエス・キリストこそが、私たちを本当に生かすことのできる、命の主であることを教えております。そして、そのお方が、今朝私たちにも、「あなたは生きる」「あなたの家族は生きる」と言ってくださるのです。私たちの罪のために十字架に死に、三日目に朽ちることのない栄光の体へとよみがえられた主イエス・キリストが、「あなたは生きる」「あなたの家族は生きる」と私たち一人一人に言ってくださるのです。
今日の説教題を「イエスの言葉を信じる」としましたが、多くの人々が将来に不安を覚える時代にあって、このことは本当に大切なことだと思うのです。キリスト者でありながら、世の人々と同じように不安に飲み込まれそうであるならば、やはり私たちは自分がイエスの言葉を信じる信仰者であることをはっきりと思い起こさなければならないと思うのです。私たちが復活の光の中で、「あなたは生きる」というイエスさまの御言葉を聞くとき、それは、病気が癒されること以上の意味を持っています。それは、「あなたは永遠の命に生きる」ということです。「死んでも生きる永遠の命にあなたは生かされている」「神の揺るぎない祝福の中にあなたは生かされている」ということであります。
イエス・キリストの御言葉は、時間と空間を超越する生きて働く神の言葉です。それゆえ、現代の日本に生きる私たちのうえにも力強く働かれるのです。そのイエスさまの御言葉を信じて、この新しい週も信仰を持って歩んでいきたいと願います。