世の救い主
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 4章39節~42節
4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」ヨハネによる福音書 4章39節~42節
先程は、ヨハネによる福音書第4章39節から42節までをお読みしましたが、このところは内容からすれば28節から30節の続きと言えます。28節から30節にこう記されておりました。
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしがおこな行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
30節に「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」とありますけども、今朝の御言葉である39節には、「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしのおこな行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」と記されています。ここで「証言した」と訳されている言葉は、「証しした」とも訳すことができます。シカルという町の多くのサマリア人は、女の証しの言葉によってイエスさまを信じたのです。つまり、彼らは信じていないで、イエスさまのもとへやって来たのではなくて、女の証しの言葉によって信じた者としてイエスさまのもとへやって来たのです。あるいは、こうも言うことができます。彼らは、イエスさまをさらに深く信じるために、イエスさまのもとへとやって来たと。それゆえ、彼らは、イエスさまに「自分たちのところにとどまるように頼んだ」のです。そして、イエスさまは、その求めに応じて「二日間そこに滞在された」のでありました。ここで「とどまる」とか「滞在する」と訳されている言葉は、もとのギリシア語を見ますと同じメノーという言葉であります。ですから、このところは、「イエスは二日間そこにとどまった」と訳してもよいのです。
以前に、第1章35節以下をお話ししたときにも、このメノーというギリシア語についてお話ししたことがあります。第1章39節にこう記されておりました。
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。
サマリアの女は人々に「さあ、見に来てください」と呼びかけましたけども、ここでは、イエスさまが「来なさい。そうすれば見るであろう」と二人の弟子を招いておられます。そして、このイエスさまの招きに応えて、二人の弟子はついて行って、イエスさまがどこに泊まっているのかを見て、その日はイエスさまのもとへ泊まったのです。そのようにして彼らは、洗礼者ヨハネの弟子からイエスさまの弟子となったのです。ここで「泊まった」と訳されている言葉が、今朝の御言葉で「とどまる」とか「滞在する」と訳されているメノーという言葉です。彼らはイエスさまがどこにとどまっているのかを見た。それは単に地上の住みかのことだけを言っているのではありません。彼らはイエスさまが誰にとどまっているかを信仰のまなこをもって見たのです。イエスさまは、第14章11節で、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と仰せになりましたが、弟子たちはイエスさまが父なる神の内にとどまっておられることを、イエスさまのもとに泊まることによって知ったのです。そのようにして彼らもイエスさまのうちにとどまる者となったのです。イエスさまは第15章3節、4節でこう仰せになりました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。
ここで「つながっている」と訳されている言葉は「とどまる」とも「滞在する」とも「泊まる」とも訳されているメノーという言葉です。ですから、弟子たちがイエスさまのもとに泊まったのは、彼らがイエスさまとつながったことをも意味しているのです。イエスさまのもとに泊まることによって、彼らはイエスさまとの有機的な、命の交わりに生きる者となった。そして、これと同じことが、イエスさまがサマリアの人々のところに滞在されたという今朝の御言葉においても言えるのであります。
サマリアの人々が、イエスさまに自分たちのところにとどまるように頼んだ。そしてイエスさまもその求めに応じて二日間滞在してくださった。これは当時の常識からすれば、考えられない驚くべきことでありました。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである」とありましたように、ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあったからです。多くの研究者の指摘するところによりますと、9節の「交際しない」という訳されている言葉のもともとの意味は「一つの器を共に用いなさい」という意味でありました。ユダヤ人はサマリア人と一つの器を共に用いることはしなかった。つまり、ユダヤ人がサマリア人と交際しなかったのは、その根底に宗教的な汚れの問題があったのです。サマリア人については、もう何度かお話ししましたので繰り返しませんが、ユダヤ人は彼らを異邦人同然と見なしておりました。ユダヤ人にとりまして、異邦人はまこと真の神を知らない汚れた民でありますから、それゆえサマリア人とも一つの器を共に用いることはなかったのです。けれども、イエスさまは、くむ物を持っていないにも関わらず、サマリアの女に水を飲ませてほしいと言われました。さらには、サマリア人の町シカルに二日間滞在され、食卓の交わりを持ち、福音をお語りになったのです。もしかしたら、もう一度、永遠の命に至る水の話と霊と真理からなるまことの礼拝について教えられたかも知れません。弟子たちはしぶしぶついて行ったと思いますけども、本当に驚いたと思います。初めは緊張していて何も話さなかったかも知れません。けれども、弟子たちも次第にうちとけていったと思います。サマリアの人々と食卓の交わりを持ち、親しく語り合った。その時、弟子たちは、イエスさまが「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われた御言葉の意味がよく分かったのではないかと思います。イエスさまが「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」と言われた、その喜びを味わっていたのではないかと思うのです。サマリアの多くの人々がイエスさまを信じている。そのようなことは、弟子たちには予想できなかったことです。弟子たちの目からすれば、サマリアの地は何の実りも期待できない不毛の地でありました。けれども、イエスさまの目には、色づいて刈り入れを待っている多くの人々が見えていたのです。
4節に「しかし、サマリアを通らねばならなかった」とありましたけども、この言葉は、南のユダヤから北のガリラヤに行くためには、しょうがなくサマリアを通らねばならなかったと読めます。けれども、このところはもっと積極的に読むこともできるのです。「サマリアを通ること、それが神さまのご計画であった」。このようにも訳すことができるのです。この4節で、「ねばならなかった」と訳されている言葉は、神さまのご計画の必然を表すデイというギリシア語です。サマリアの地を通ること。それは弟子たちにとってはガリラヤに行くためのやむを得ないことでしかありませんでした。けれども、イエスさまにとっては、種を蒔き刈り入れるという神さまのご計画によるものであったのです(ルカ19:5参照)。
イエスさまがシカルの町に二日間滞在されたことにより、更に多くの人々が、イエスさまの御言葉を聞いて信じました。41節に「イエスの言葉を聞いて信じた」とありますが、元の言葉を見ますと「聞いて」という言葉はありません。元の言葉を直訳しますと「彼の言葉によって信じた」と記されているのです。39節に「彼女の証しの言葉によって」とありましたが、それと並行する形で「彼の言葉によって」と記されているのです。イエスさまの言葉によって信じた「更に多くの人々」の中には、女の証しの言葉によって信じた「多くのサマリア人」が当然含まれていたと思われます。女の証しの言葉によって信じた人が、その張本人であるイエスさまの御言葉によって信じなくなったとは考えにくいことでありますから、イエスさまの御言葉によって、女の証しの言葉によって信じた人々を含めたさらに多くの人々が信じたのです。
先程、39節の「女の証しの言葉によって」と41節の「イエスの言葉によって」は、並行する形で記されていると申しました。しかし、それでは女の証しの言葉と、イエスさまの御言葉が同じ重さをもっているかと言えば、そうでありません。他人の証しを聞いてイエスさまを信じるのと、自分で直接イエスさまの御言葉を聞いて信じるのとでは、その信仰が変わってくるのは当然であります。他人からわたしはイエスさまとお会いしたという証しを聞くよりも、自分がイエスさまとお会いした方が、その信仰が生き生きとしてくるのは当然のことと言えます。ですから、彼らは女にこう言うのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。
サマリアの多くの人々は、初めは女の証しの言葉によってイエスさまを信じました。そして、イエスさまにとどまっていただき、今度は自分でイエスさまの御言葉を聞くことにより、この方が本当に世の救い主であることを知ったのです。そして、このことは、私たち一人一人に起こること、また起こったことなのです。私たちがイエスさまを世の救い主と信じることができたのは一体なぜでしょうか。それは私たちより先に、イエスさまを世の救い主と信じ、証しする人たちがいたからです。イエスさまは世の救い主であると証しするのは、何と言ってもキリスト教会においてなされる主の日の礼拝であります。わたしがイエス・キリストを信じる前から、すでにイエスさまと出会って、イエスさまについて証しをする人々がいたのです。そして、私たちは、それぞれに神さまが定めたふさわしい時に、教会へと導かれ共に礼拝をささげる中で、イエスさまへの信仰へと導かれていったのであります。けれども、そこまででしたら、今朝のサマリアの多くの人々が女の証しの言葉によって信じたのと同じであります。それではまだヨハネによる福音書が求めているところの信仰には到達していないのです。イエスさまの御言葉を自分で聞いて信じなければ、この方が本当に世の救い主であると知ることはできないのです。それでは、私たちはイエス・キリストの御言葉をどこで聞くことができるのでしょうか。それは礼拝における聖書の朗読とその解き明かしである説教においてであります。今、天におられ、父なる神の右に座したもうイエス・キリストは、聖書の朗読とその解き明かしである説教を通して、今、御自分の民に語りかけてくださるのです。それゆえ、「この方こそ本当に世の救い主である」と信じる者は、この礼拝において生まれるのです。聖霊のお働きによって、説教者が語る言葉をイエス・キリストの御言葉として信仰をもって受け入れるとき、その人は目には見えませんけども、確かにイエス・キリストとお会いしていると言えるのです。そして、今度は、まだイエスさまにお会いしていない人々に、自分の体験として、イエスさまについて証しをすることができるようになるのです。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。この人々の言葉を聞いて彼女はどう思ったでしょうか。寂しく思ったでしょうか。自分が必要とされなくなったようで寂しく思った。そのようにも考えることができます。けれども、そうではなかったと思うのです。むしろ、女は人々からこう言われてうれしかったと思います。多くの人々が自分と同じようにイエスさまの御言葉を聞いて、この方こそ世の救い主と言い表すことができた。そのことを、女はイエスさまと一緒に喜んだと思うのです。彼女はこの時、イエスさまと一緒に刈り入れの喜びにあずかっていたのではないかと思うのです。
「世の救い主」。これは、イエスさまがユダヤ人とサマリア人といった民族の違いを越えた救い主であることを言い表しております。確かに救いはユダヤ人から来るのでありますけども、その救いは、ユダヤ人を越えて全世界の民へと及ぶのです。イエス・キリストは、私たちの救い主でもあるのです。日本人、中国人、フィリピン人、ヴェトナム人、インドネシア人、そのような民族の違いを越えて、私たちを罪と死の支配から救ってくださったのです。それゆえに、私たちはこのように心を一つにして主を礼拝することができるのです。