目を上げて畑を見よ 2009年5月31日(日曜 朝の礼拝)

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目を上げて畑を見よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章25節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」ヨハネによる福音書 4章25節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、霊と真理からなるまことの礼拝については、お話ししましたけども、サマリアの女は、そのまことの礼拝が、将来に実現すること。キリストと呼ばれるメシアが来られる世の終わりに実現することと理解したようです。ですから、イエスさまの「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」という御言葉を受けて、サマリアの女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。この方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と答えたわけです。ここでサマリアの女は、「キリストと呼ばれるメシア」と言っておりますが、これはユダヤ人のものの言い方であります。前回も申しましたように、サマリア人は、旧約聖書の最初の5つの書物、いわゆるモーセ五書だけをサマリア語に翻訳して正典としておりました。ですから、サマリアの女が、ユダヤ人のように、ダビデの子孫からお生まれになる王としてのメシアを待ち望んでいたというわけではないのです。サマリア人が待ち望んでいたのは、申命記第18章に約束されていたモーセのような預言者でありました。サマリア人は、それを「ターヘーブ」、「回復する者」と呼んで待ち望んでいたのです。申命記の第18章18節で、主はモーセにこう仰せになりました。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」。この申命記の御言葉を念頭において、サマリアの女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と語っているのです。そして、驚くべきことに、イエスさまは、「それは、あなたと話しているこのわたしである」と告げるのです。それゆえ、イエスさまは、サマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と終末にもたらされる祝福を現在のこととしてお語りになることができたのです。

 8節に、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありましたが、その弟子たちが帰ってくることによって、イエスさまとサマリアの女の対話は中断されます。27節をお読みいたします。

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何かご用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」という者はいなかった。

 当時、律法の教師であるラビは、公の場で女性と会話をすることはありませんでした。たとえ、道端で自分の妻と会っても、知らん顔をする。それほど、律法の教師であるラビは、女性との接触を避けるべきだと考えられていたのです。その根底には、当時の男尊女卑の思想があったと言えます。けれども、イエスさまは、そのようにはお考えにはなりませんでした。男と女といった性別の違いを越えて、一人の人間として、一つの人格としてサマリアの女に向き合い、御自身をメシアとしてお示しになられたのです。帰って来た弟子たちは、イエスさまが女の人と、しかもサマリアの女の人と話しておられるのを見て驚きましたけども、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話をしておられるのですか」と言う者はいませんでした。この所は、少し分かりづらいところだと思いますが、もとの言葉をみますと「この人」と訳されているのは、「彼女」となっています。ですから、弟子たちは先生であるイエスさまに、「何か御用ですか」とか、「何を話しておられるのですか」と聞くものはいなかったということであります。ある人は、このところに弟子たちのイエスさまへの尊敬と信頼を見ることができると言っております。律法の教師であるイエスさまが、女と二人っきりで話をしている。そのような光景はあらぬ疑いやうわさを引き起こしかねないものでありました。けれども、弟子たちはイエスさまを尊敬し信頼していたので、誰も「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と尋ねなかったと言うのです。ついでのようでありますが、ここで「何か御用ですか」と訳されている言葉は、もとの言葉を直訳すると「何を求めておられるのですか」となります。23節の終わりに「なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」とありましたけども、同じ「求める」という言葉がここで用いられているのです。弟子たちは、イエスさまに「何を求めておられるのですか」とは尋ねませんでしたけども、この福音書を読んできた私たちは、イエスさまが「霊と真理をもって礼拝する者を求めて」サマリアの女に話しかけられたということが分かるのです。

 28節から30節までをお読みいたします。

 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしがおこな行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

 この女は、もともとはヤコブの井戸に水を汲みにやって来たのでありますが、ここでは、その水がめを置いたまま町に行きました。それほど、女は急いでイエスさまのことを人々に伝えようとしたと読むことができますし、また戻ってくることの意思表示として置いていったとも読むことができます。しかし、ある人は、女が水がめをそこに置いていったのは、この女がイエスさまから決して渇かない水をいただいたことの象徴であると言うのです。イエスさまは14節で、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と仰せになりました。イエスさまを信じることによって、彼女の内に永遠の命に至る水がわき出てて、彼女の渇きは潤された。そのことの象徴として、女は水がめをそこに置いたまま町へ行ったと記されていると言うのです。女が水がめを置いていったことを象徴として捉えるかどうかは別としても、この女の心の奥底に、永遠の命に至る水がわき出たことは確かなことだと思います。それゆえ、彼女は、まだ、イエスさまがおられる内に、急いで町に行き、人々にイエスさまのことを宣べ伝えたのです。「さあ、見にきてください。わたしがおこな行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」。女はこのように言うわけですが、これはイエスさまとお会いする前とえらい違いであります。イエスさまにお会いする前、この女は町の人たちとの交わりを避けておりました。ですから、彼女は、朝や夕方ではなくて、暑さの厳しい誰もいないであろう正午ごろに、ヤコブの井戸に水を汲みに来ていたのです。その彼女が、イエスさまに出会って自分の方から町に行き、人々に語りかけているのです。そもそも、なぜ、この女は、人々との交わりを避けていたのか。それは彼女が、過去に五人の夫がおり、今は夫と呼べない男と連れ添っている、いわゆる身持ちが悪い女であったからです。女はそのことを恥じて、そのことに触れられることを恐れて、人々との交わりから遠ざかっていた。けれども、イエスさまに出会ってから、そのことを「わたしがおこな行ったこと」と堂々と語ることができるようになったのです。この女は、イエスさまに出会って、人の目から、人の評価から自由な者とされた。イエスさまに、民族の壁を越えて、性別の壁を越えて、罪人であるありのままの自分を受け入れていただいたとき、彼女は自らの口で、触れられたくなかった過去を語りだすようになる。イエスさまをメシアとして人々に紹介するために、忘れてしまいたい自らの過去を喜んで語るものとなるのです。このことは、私たち一人一人においても言えることだと思います。イエスさまを信じるまでの経緯を証しをするということがあります。ある教会では、礼拝の中で、信徒の方にイエスさまを信じるまでの経緯、イエスさまがどのように自分に出会ってくださったのかを証しすることがあります。また、月報などで文書として証しを書いてもらうことがあります。毎月発行されている、教会でも購読している東部中会の教育機関誌『まじわり』にも、二人の方の信仰の証しが掲載されています。そのような証しを聞き、読むとき、そこで語られ、記されていることは、しばしばその人が体験した、誰にも言いたくないような辛い過去のことであります。ある人は、このような言葉で、御自分の救いの証しをなされました。「これから、わたしが話すことは、わたしが一番話したくないことです」そう言って語り始められる。なぜ、そのことを話さざるを得ないのか。それは一番話したくない辛い体験を通して、イエスさまが出会ってくださったからです。だから、そのことを語らざるを得ないのです。この女もそうでありました。彼女は、町の人々に「この方がメシアかも知れません」と伝えたいがために、自分が一番語りたくない「わたしが行ったこと」を口にするのです。もちろん、町の人々は、この女がどのような女であったかを知っていたと思います。それを見ず知らずの旅人が言い当てたと聞けば、これは人々の関心を引いたかもしれません。けれども、何より人々の関心を引いたのは、この女の代わりようであったと思います。人々との交わりを避けていた女が、自分から人々に語りかけ、自らの過去を口にするようになる。この女の変わりように、人々は驚いた。そして、「さあ、見に来てください」という女の招きによって、人々は町を出て、イエスさまのもとへ向かったのです。

 31節から34節までをお読みいたします。

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

 弟子たちが、「先生、食事をどうぞ」と勧めると、イエスさまは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と仰せになりました。これを受けて弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」といぶかるわけですが、イエスさまは、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と仰せになるのです。食べ物。これは私たちの命を支えるもの、私たちを生かすエネルギー源であります。イエスさまは、わたしの命をささえるもの、わたしを生かす力の源は、「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われたのです。誤解のないように言っておきますけども、ここでイエスさまは食事を必要としていないと言われているのではありません。弟子たちの「ラビ、食事をどうぞ」という言葉をきっかけとして、自分を本当に生かしているものが何であるかを食べ物に重ねて教えられたのです。イエスさまが言われる「食べ物」は、「生き甲斐」と言い換えることができると思います。「生き甲斐」という言葉の意味を辞書で調べますと、「生きるはりあい。生きていてよかったと思えるようなこと」とありました。食べることが生き甲斐だという人もいるかも知れませんが、多くの人は、三度の食事が取ることができても、その人生の目的というものが分からなければ、生き甲斐を感じることはできないと思います。なぜ、自分はこの地上に生まれて、今生きているのか。それが分からないと、その人生は手応えのない、生き甲斐のない人生となってしまうと思うのです。しかし、イエスさまは、それをはっきりと弁えておられた。イエスさまは、自分の生き甲斐、自分の命を本当に生かす道は、御自分をお遣わしになった方の御心を行い、成し遂げることであることをご存じであられたのです。

 続けてイエスさまはこう仰せになりました。35節、36節をお読みいたします。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」

 ヤコブの井戸の周りには、どうやら麦畑が広がっていたようであります。しかしどうやら、まだ収穫の季節ではなかったようです。当時のユダヤの暦では、麦の種を蒔いてから収穫するまで四か月かかったと言われています。けれども、イエスさまは、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われるのです。メシアであるイエスさまがこの地上に来られることによって、種を蒔いたらすぐに刈り入れることができる。種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶことのできる、そのような祝福の時が到来したということです。もちろん、ここで言われていることは、文字通りの麦畑のことではありません。そのことは、イエスさまが共観福音書でお語りになっている「種を蒔く人のたとえ」や「毒麦のたとえ」を思い起こすならばよく分かります。今、それを開いて読んでいる暇はありませんが、結論だけを申し上げると、「種を蒔く」とは神の言葉の宣教を意味しており、「刈り入れる」とは信仰の実を結んだ者を神の国へ入れることを意味していると言えます。旧約聖書において「刈り入れ」とは、終末の裁きの象徴であります。その終末の裁きである刈り入れが、神の言葉、イエス・キリストの福音を伝える種蒔きに続いて即座に起こるというのです。なぜ、そのようなことをイエスさまは言うことがができるのか。それはイエスさまこそが、モーセのような預言者、いや、モーセ以上の預言者であるからです。26節で、イエスさまは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われました。このところの原文を見ますとはじめに「エゴエイミー」、「わたしはある」と記されています。「わたしはある」。これは、出エジプト記の第3章の燃える柴の箇所で、神さまがモーセにお示しになったお名前であります。ですから、多くの研究者は、この26節でイエスさまは、サマリアの女が期待していた以上のことを告げておられる。御自分が主なる神御自身であることを告げておられると解説しております。神のその方とも言える神の独り子が、モーセのような預言者として来てくださった。それゆえに、このイエス・キリストを信じる者は、死後の裁きを待たずして、即座に神の国に入ることができるのです。イエス・キリストを信じる者は、この地上において永遠の命に至る実を刈り取ることができるのです。それゆえ、イエスさまの目には、すでに色づいて刈り入れを待っている神の畑が見えているのであります。そして、現にサマリアの女に導かれて人々がイエスさまのもとへと向かっていたのです。わたしもときどき、この会堂を埋め尽くす多くの人たちと礼拝をささげている光景を思い描くことがあります。しかし他方、がっくと人数が減ってしまって、これから教会はどうなるのだろうかと不安を覚えるような光景を思い描くこともあるのです。これは一体どういうことでしょうか。それは結局は、信仰によらないで、わたし自身の希望的観測によって思い描いているだけであるということでありましょう。しかし、イエスさまは今朝、私たちに「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と仰せになるのです。私たちの目には、刈り入れが期待できないように見えるかも知れません。しかし、イエスさまは、色づいて刈り入れを待っている沢山の人たちを見ておられるのです。信仰の眼をもって、その光景を見なさいと私たちを招いておられるのです。

 さらにイエスさまは、こう仰せになりました。37節、38節をお読みします。「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 「一人の人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」。これは元々、苦労して種を蒔いても、収穫の喜びに与ることができないという否定的なことわざでありました。けれども、イエスさまは、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」という言葉に続けているのですから、このことわざを肯定的に用いていることが分かります。種蒔きに続いてすぐ、刈り入れが行われるのですから、これはどうしても別の人が行うことになります。それゆえ、自分で労苦しなかったものを刈り入れるということが起こるのです。イエスさまは、「あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」と仰せになりました。さて、ここでイエスさまがいつのことを言っているのかが問題となるわけですが、ここではおそらく、ヨハネによる福音書が記された時代の教会に対して、すでに語り直されているのだと思います。ヨハネの教会についての一つの推測は、その群れの中にサマリア人でイエスさまを信じた人々がいたということであります。現に、使徒言行録の第8章を見ますと、フィリポがサマリアにおいて、福音を告げ知らせた結果、多くの信じる者が起こされた。それを聞いたペトロとヨハネが確かめに行き、彼らが祈るとサマリア人のうえにも聖霊が降ったというお話しが記されています。サマリアにおける伝道ということを考えるならば、それを刈り取ったのは、ペトロやヨハネであったと言えるかも知れません。しかし、その前にフィリポが福音を告げ知らせていた。さらに遡れば、主イエスがサマリアの人々に福音を告げ知らせていたのです。一人の人が種を蒔き、別の人が刈り入れることになる。これは、私たち一人一人が、イエスさまを信じて洗礼を受ける、あるいは信仰告白をするまでに、多くの人々の祈りに支えられ、導かれてきたことを考えるならば、すぐに分かることであります。私たちは他の人々の労苦に与って、永遠の命に至る実を刈り取ることができたのです。そのために労苦してくださったのは、何と言ってもイエス・キリストであります。イエスさまは、私たちを罪から救うために、十字架において律法違反の刑罰としての呪いの死を死んでくださいました。イエスさまは、十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです(ヨハネ19:30)。そのようにして、イエスさまは、御自分を遣わされた方の御心を行い、完成してくださったのです。そのようなお方が今度は私たちを遣わされるのです。詩編の第126編に、「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」という御言葉がありますが、そのように本来、種蒔きは苦しいものであります。けれども、御言葉を蒔くという神の畑においてはそうではないのです。その御言葉は、イエス・キリストの福音でありますから、喜びの知らせでありますから、種蒔き自体が喜びなのです。その種は生きて働く神の言葉であるがゆえに、必ず実を結ぶのです。たとえ自分たちがそれを刈り入れることがなくても、他の主にある兄弟姉妹が必ずその実りを刈り入れるのです。そのことを信じて、喜びに溢れて種を蒔き刈り入れに励んでゆきたいと願います。

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