まことの礼拝 2009年5月24日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 4章16節~26節
聖書の言葉
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネによる福音書 4章16節~26節
メッセージ
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ヨハネによる福音書第4章に記されております、イエスさまとサマリアの女との対話を学んでおります。前回は、1節から15節までをお話ししましたので、今朝は16節から26節までを御一緒に学びたいと思います。
前回学びましたイエスさまとサマリアの女との対話の主題、テーマは「神の賜物」である「生きた水」についてでありました。これは、10節のイエスさまの御言葉に導かれてのことでありました。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
この御言葉に導かれて、イエスさまは神の賜物である生きた水について教えてこられました。イエスさまは、御自分が与える生きた水とは神の言葉と神の霊であり、それによって神さまとの永遠の交わりに至ることを教えられたのです。サマリアの女は、生きた水を文字通りの肉体の渇きを癒す水を指すと理解しておりますけども、イエスさまに「生きた水をください」と願い求める者となったのでありました。ここまでが前回お話ししたことでありますけども、続く今朝の御言葉では、神の賜物である生きた水についての話が中断されまして、「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか」というもう一つのテーマが取り上げられます。その発端として、イエスさまは、サマリアの女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのです。なぜ、イエスさまは、サマリアの女に夫を呼んで来なさいと言われたのでしょうか。この唐突なイエスさまの発言に、当惑する方もおられるかも知れません。ある人は、イエスさまが夫を呼んでくるように言ったのは、この女の魂がどれほど渇いているかを悟らせるためであったと言っております。イエスさまは、13節で、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とお語りなりました。それを受けて女は、「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と言ったのです。このやりとりからも分かりますように、女は、イエスさまの与えようとしている水が何であるのかを理解しておりません。依然として、彼女は喉を潤す文字通りの水のことを考えているわけです。そのような女に、イエスさまは、「あなたの夫を呼んで来なさい」と命じることによって、女の心、女の魂がどれほど渇いているかを明らかとされるのです。
イエスさまから「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は「わたしには夫はいません」と答えました。こう言われたら、私たちなら「この女は結婚していなかったのかしら」と推測すると思うのですが、イエスさまは、この女が隠しておきたいことをあからさまに言い当てるのです。
イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。」
この女にはかつて5人の夫がおり、今は夫とも呼べない男と生活を共にしておりました。それゆえ、周りの人々からは、身持ちが悪い、ふしだらな女と呼ばれ、さげす蔑まれていたようです。それゆえ女は、人との交わりを避けて、誰もいないであろう暑い正午ごろ、わざわざ水を汲みに来たのでありました。五人の夫がいた。これは同時に五人の夫がいたというよりも、結婚と離縁を繰り返して、これまで合計で五人の夫がいたということでありましょう。そして、今は結婚関係にない、世間に公にできない関係の男と生活を共にしている。ここに私たちは、この女の癒されない心の渇きを見ることができます。このひと男こそ、わたしの心を満たしてくれるのではないか、そのように期待して結婚するも、その期待は裏切られて離縁することとなる。しかし、それでも伴侶を求めずには生きて行かれない女の姿を私たちはこのところに見ることができるのです。そのような女の心は、どれほど渇いていたことでありましょうか。イエスさまは、その渇きをご存じのうえでこの女に話しかけられたのです。
「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。このイエスさまの御言葉は、教会の歴史においてさまざまな解釈がなされてきました。代表的な解釈の一つは、この5人の夫は、5人の偶像を指すという解釈であります。いくら何でも文字通り5人の夫がいたとは考えづらい、そこで、この「五人の夫」はサマリア人がかつて拝んでいた5人の偶像を指していると解釈するのです。前回、簡単にサマリア人についてお話ししましたけども、もう一度説明しておきたいと思います。9節の後半に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とありましたが、もともとは、ユダヤ人とサマリア人は、同じ族長ヤコブの子孫でありました。紀元前1200年頃、ヤコブの12人の息子を先祖とするイスラエル12部族は、ヨシュアに導かれて約束の地カナンへと入ります。そして、士師の時代を経て、紀元前1000年頃、ダビデを王とするイスラエル統一王国を建国いたします。けれども、それもつかの間、ソロモン王の死後、紀元前928年に、北王国イスラエルと南王国ユダの2つに分裂するのです。その北王国イスラエルの首都がサマリアでありました。紀元前722年アッシリア帝国によってサマリアは陥落し、北王国イスラエルは滅ぼされます。そのとき、アッシリア帝国が取った政策は、イスラエルの指導者たちを他の国に移住させ、その代わりに他の民族をサマリアに住まわせるという政策でありました。そうすると、残されたイスラエル人と連れてこられた他の民族が結婚を通して交じり合うということが起こるわけです。さらには、イスラエルの宗教の中にさまざまな異教の要素が入り込んでくるわけであります。そのことを詳しく記しているのが、旧約聖書の列王記下の第17章であります。24節から33節までをお読みいたします。
アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった。彼らはそこに住み始めたころ、主を畏れ敬う者ではなかったので、主は彼らの中に獅子を送り込まれ、獅子は彼らの何人かを殺した。彼らはアッシリアの王にこう告げた。「あなたがサマリアの町々に移り住ませた諸国の民は、この地の神の掟を知りません。彼らがこの地の神の掟を知らないので、神は彼らの中に獅子を送り込み、獅子は彼らを殺しています。」アッシリアの王は命じた。「お前たちが連れ去った祭司の一人をそこに行かせよ。その祭司が行って住み、その地の神の掟を教えさせよ。」こうしてサマリアから連れ去られた祭司が一人戻って来てベテルに住み、どのように主を畏れ敬わなければならないかを教えた。しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのようにおこなった。バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司を立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。
24節を見ますと、アッシリアの王がサマリアに連れて来て住まわせたのは、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの5つの民族でありました。そして、この5つの民族は、イスラエルの神である主を畏れ敬うと共に、移される前の土地で拝んでいたそれぞれの神々にも仕えていたのです。このことから、かつてサマリア人は5人の偶像に仕えていた民族であると言えるわけです。30節以下を見ますと、一つの民族が2つの神に仕えていたとも記されておりますので、正確には数が合いませんけども、イエスさまが、サマリアの女に「あなたには五人の夫がいた」と言われたとき、それはこの女個人の過去を指すだけではなくて、サマリア人全体が共有していた過去、かつてサマリア人が5人の偶像に仕えていたという過去を指しているとも解釈できるのです。第3章に出てきたユダヤ人の議員で、ファリサイ派に属するニコデモが、ユダヤ人全体を代表していたように、このサマリアの女も、サマリア人全体を代表してイエスさまの前に立っている。そのように読むことができるのであります。
ヨハネによる福音書に戻ります。
見知らぬ男から自分の過去を言い当てられて、女は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と申しました。「わたしがどのような人間であるかを知っておられるあなたは、神さまから遣わされた預言者に違いない」と女は言うのです。そして、女はユダヤ人とサマリア人との対立の原因ともなっていた礼拝の場所について尋ねるのです。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。
サマリア人は、旧約聖書の最初の5つの書物、いわゆるモーセ五書だけをサマリア語に翻訳して正典としておりました。そして、申命記第11章29節の「あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバルやま山に呪いを置きなさい」という御言葉を根拠に、ゲリジム山で礼拝をささげていたのです。イエスさまとサマリアの女が対話をしていたヤコブの井戸のほとりからは、ゲリジム山がよく見えたのでしょう。女は、その山を仰ぎながら、「わたしたちサマリア人は、ゲリジム山で礼拝しているけども、あなたたちユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っている。いったいどちらが正しいのでしょうか。預言者であるあなたなら知っているでしょう」と問うのです。神を礼拝する場所を巡って、ユダヤ人とサマリア人の間に憎しみが生まれていた。ここにも歴史的な背景があります。先程、北王国イスラエルが紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされたと申しましたけども、それからおよそ150年後の紀元前587年に、バビロン帝国によってエルサレムは陥落し、南王国ユダは滅ぼされます。ほどなくして、ペルシア帝国の台頭により、ユダヤ人たちはバビロン捕囚から解放され、エルサレムへの帰って来るわけですが、彼らがまず取りかかったのは神殿の再建でありました。そして、実はその時、サマリア人も神殿再建を手伝わせてほしいと願い出たのです。けれども、ユダヤ人はサマリア人を異邦人同然と見なし、その願いを拒絶したのです。そのことがエズラ記の第4章1節から5節に記されています。
ユダとベニヤミンの敵(サマリア人のこと)は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、ゼルバベルと家長たちのもとに来て言った。「建築を手伝わせてください。わたしたちも同じようにあなたがたの神を尋ね求める者です。アッシリアの王エサル・ハドンによってここに連れて来られたときから、わたしたちはこの神にいけにえをささげています。」しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った。「わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちではなく、わたしたちに託された仕事です。ペルシアの王キュロスがそう命じたのですから、わたしたちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折しようとした。
このように、ユダヤ人はサマリア人の申し出を断り、神殿から排除したわけです。そして、サマリア人の方も、神殿の再建を妨害するようになる。ユダヤ人がエルサレム神殿を完成してからは、それに対抗してサマリア人はゲリジム山に神殿を建設したのでありました。ユダヤ人とサマリア人の間にはしばしば武力衝突もあり、紀元前128年には、ユダヤの大祭司ヨハネ・ヒルカノスによってゲリジム山の神殿は破壊されたと言われています。イエスさまの時代、サマリア人は、ユダヤ人によって破壊された神殿跡で、礼拝していたのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
礼拝すべき場所はゲリジム山か、それともエルサレムか。そのような女と問いに対して、イエスさまはこう仰せになりました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」。
ここでイエスさまが教えておられることは、ゲリジム山か、それともエルサレムかといった場所にとらわれる礼拝ではなくて、どこにおいてもささげることのできる新しい礼拝の時代が御自分において到来したということです。イエスさまはここで、礼拝すべき場所はゲリジム山だとも、エルサレムだとも言われませんけども、イエスさまにおいて、新しい礼拝の時代が到来するまでは、ユダヤ人が言う通り、神を礼拝すべき場所はエルサレムでありました。エルサレムこそ、神さまがその名を置くと言われた都であります(詩編122編)。それゆえ、イエスさまは、あなたがたサマリア人は知らないものを礼拝しているが、わたしたちユダヤ人は知っているものを礼拝しているとお語りになるのです。さらにイエスさまは、「救いはユダヤ人から来るからだ」と仰せになるのです。これは神さまの救いのご計画によるものであります。神さまはまずユダヤ人に神の言葉をおゆだねになり、そのユダヤ人を通して、全世界の民を救おうとご計画されたのです。先程も申しましたように、サマリア人はモーセ五書だけを正典としておりました。けれども、ユダヤ人は、歴史書や預言書や諸書をも含めた私たちが今手にしております39巻からなる旧約聖書を正典としていたのです。それゆえ、サマリア人の神知識は限られた、偏ったものであったのです。神さまは、モーセ五書だけではなくて、歴史書や預言書や諸書をも含めた39巻からなる旧約聖書を通して、御自分について教えておられる。それゆえ、救いはユダヤ人から来る。救いをもたらす約束のメシアは、ユダヤ人からお生まれになるのです。
続けてイエスさまはこう仰せになりました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
このイエスさまの御言葉は、今朝の御言葉の急所であります。「まことの礼拝」。これは旧約聖書が予型してきたところを実現する本体としての礼拝と言えます。まことの礼拝、本当の礼拝は、霊と真理をもって神を父として崇める礼拝なのだ。そして、そのような礼拝者たちを何より父が求めておられるだとイエスさまは言われるのです。ここで、「神を礼拝する時が来る」と言われず、「父を礼拝する時が来る」と言われていることは注目すべきことであります。それは私たちが神さまを最も深い愛の交わりの中で礼拝することができるということです。先程、サマリアの女の5人の夫は、サマリア人が礼拝していた5人の偶像であると解釈されてきたと申しました。そうであるならば、今連れ添っている夫ではない男とは、一体だれなのでしょうか。それは、サマリア人が知らないでゲリジム山で礼拝しているお方であると言えるのです。サマリア人は、モーセ五書のみを正典とし、ゲリジム山で礼拝をささげておりました。けれども、神さまとの間に親しい交わりを得ることができなかった。神さまから罪のゆるしに基づく平安と復活という希望をいただくことはできなかった。ゲリジム山で神を礼拝しながら、その魂は飢え渇いていた。まことの神を礼拝することにその魂は渇いていたのです(詩編42:3)。それでは、エルサレムの神殿に行けばよいのかと言えば、それは赦されないことであった。ユダヤ人はサマリア人を異端者と見なし、エルサレム神殿から排除していたからです。そうであれば、ゲリジム山で礼拝するしかないではないか。けれども、イエスさまは言われるのです。「婦人よ、わたしを信じなさい。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。まことの礼拝、それは霊と真理をもって神を父として畏れ敬う礼拝であります。なぜ、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならないのか。それは神は霊であるからです。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。このようにイエスさまが言われる「霊」とは、私たち人間の霊ではなくて、御自分が与えようとしておられる神の霊、聖霊のことであります。神は霊である。だから、神を礼拝するものは、その神と同じ神の霊をもって礼拝しなければならない。こうイエスさまは教えておられるのです。このことは、エゼキエル書第36章に記されている預言の成就でもあります。25節から28節までをお読みいたします。
わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
「お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」。この祝福を神さまはイエス・キリストを通して聖霊をお与えになることによって実現してくださる。礼拝こそ、「あなたはわたしの民となりわたしはあなたの神となる」という祝福が実現する場であります(黙21:3)。その祝福のときが、わたしにおいて今来ている。だから、わたしを信じなさい。そうイエスさまは仰せになるのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
「霊と真理からなる礼拝」の「霊」が神の霊、聖霊を意味することは分かりました。それでは、「真理」とは何でしょうか。これについては大きく2つの解釈があります。一つは、「神の言葉」を指すという解釈です。第17章17節で、イエスさまが「あなたの御言葉は真理です」と祈っておりますことから、真理は神の言葉であると解釈するのです。そして、もう一つの解釈は、この「真理」とは「イエス・キリスト」御自身であるという解釈であります。第1章17節の「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」との御言葉から、真理はイエス・キリストを指すと解釈するのです。お気づきのように、これは同じことであります。なぜなら、イエス・キリストは神の言葉を話される方であられるからです。「霊と真理からなる礼拝」の「霊」が神の霊であり、「真理」が神の言葉であると聞くとき、私たちはここに、イエスさまがお与えくださりる「生きた水」が、神の霊と神の言葉を意味していたことを思い起こさずにはおれません。私たちは、イエス・キリストから、生きた水である神の霊と神の言葉をいただいて、霊と真理をもって神を父として礼拝する者とされているのです。神さまが私たちを聖霊によって新しく生んでくださり、神の子としてくださった。それゆえ、私たちは神さまを「アッバ、父よ」と呼び、親しく礼拝することができるのです。そして、それはひとえに神さまの御意志によることなのです。神さまが霊と真理をもって礼拝する者たちを求めておられる。私たちに先立って神さまの方が渇いておられる。まことの礼拝者たちを求めて神さまの方が渇いておられるのです(ヨハネ19:28)。それゆえ神さまは、愛する御子をこの地上にお遣わしになり、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。神さまの礼拝への熱心が、霊と真理からなるまことの礼拝を実現してくださったのです。「霊と真理からなる礼拝」。それは一言で言えば、「聖霊においてイエス・キリストを通してささげられる礼拝」のことであります。「聖霊においてイエス・キリストを通してささげられる礼拝」、それが「霊と真理からなる礼拝」なのです。そのまことの礼拝を、私たちはこの羽生の地においておささげすることができるのです。エルサレムへ行く必要はありません。主イエスの名によって集まる私たちを、神さまの方から訪れてくださるのです(マタイ18:20)。聖霊と御言葉によって、神さまが私たちをまことの礼拝者へと造り変えてくださるのです。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。このイエスさまの御言葉は、今私たちのうえに実現しているのです。