喜びで満たされている 2009年5月03日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 3章22節~30節
聖書の言葉
3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネによる福音書 3章22節~30節
メッセージ
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私たちは3回に渡って、エルサレムでのイエスさまとニコデモの対話を学んできましたが、今朝の御言葉にはその後のことが記されています。22節から24節までをお読みいたします。
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこには水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
ここに、イエスさまが弟子たちとユダヤ地方に滞在し、洗礼を授けておられたこと。さらには、ヨハネもその近くのアイノンで洗礼を授けていたことが記されています。聖書の巻末にある聖書地図でアイノンの場所を確認しておきたいと思います。「6 新約時代のパレスチナ」をお開きください。その地図の真ん中より少し上、ヨルダン川の西側に「アイノン」という地名があります。ここが今朝のお話の舞台となっているわけです。それでは、ヨハネによる福音書に戻ります。アイノンとは、「泉」という意味ですので、文字通り水が豊かなところであったのでしょう。そこで、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた。すると、イエスさまが弟子たちを連れて、アイノンに近いユダヤ地方に滞在され、同じように洗礼を授けはじめたというのであります。イエスさまが洗礼を授けておられた。これはヨハネによる福音書だけが記していることであります。第4章1節、2節にも「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子たちをつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、-洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである-」と記されています。ここでは、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」と但し書きが記されておりますけども、そうであっても、イエスさまが弟子たちに洗礼を授けることをよしとされていたと言うことができます。わたしは正直申しまして、イエスさまが十字架と復活の前に、洗礼を授けておられた、あるいはイエスさまが弟子たちに洗礼を授けることをよしとされたとはどうも信じ難いのです。マタイによる福音書によりますと十字架の死から三日目に復活されたイエスさまは、弟子たちに現れ、こう仰せになりました。マタイによる福音書の第28章18節から20節までをお読みいたします。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このようにマタイによる福音書によれば、イエスさまは十字架の死と復活の後に、弟子たちに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることを命じられています。
また、ルカによる福音書とその続編である使徒言行録によれば、十字架の死から復活されたイエスさまが天へ上げられてはじめて、約束の聖霊が与えられ、弟子たちが力強い復活の証人となる。そして、その弟子たちの手によって、イエス・キリストの名による洗礼が授けられるのです。使徒言行録の第2章37節から39節にこう記されています。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
このように、ルカによる福音書の続編である使徒言行録を見ても、イエス・キリストの名によって罪のゆるしをもたらす洗礼、聖霊を与える洗礼は、栄光の体へと復活されたイエスさまが神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けたことの結果として起こる出来事なのです。
ヨハネによる福音書においてもそうでありますが、イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが証しするところによれば、聖霊によって洗礼をお授けになるお方でありました(マルコ1:8、マタイ3:11、ルカ3:16、ヨハネ1:33)。そして、イエスさまが聖霊によって洗礼を授けられるのは、十字架の死から復活された後のことであるのです。このことは、ヨハネによる福音書においても同じであります。ヨハネによる福音書第7章37節から39節にこう記されています。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。
ここに、はっきりと「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」と記されています。これはマタイによる福音書やルカによる福音書と同じように、イエスさまが復活し天へと上げられることによって、信じる者たち聖霊がに与えられるということです。
また、第14章から第16章には、最後の晩餐の席での告別説教が記されていますが、そこでイエスさまは、別の弁護者、真理の霊を遣わすことを何度も告げております。第16章7節でイエスさまはこう仰せになっています。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。
このようにヨハネによる福音書において、イエスさまが天の父の元へと帰ってから、聖霊は遣わされるわけです。
そのことを象徴的に表しているのが、復活されたイエスさまが弟子たちに息を吹きかけられた場面です。第20章21節から23節をお読みいたします。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
このように、ヨハネによる福音書においても、復活し、天へと上げられつつあるイエスさまによって弟子たちは聖霊を受けるのです。
聖霊によって洗礼を授けるイエスさまが、弟子たちに聖霊をお与えになるのは、十字架の死から復活された後のことである。これが、マタイによる福音書においても、ルカによる福音書においても、ヨハネによる福音書においても共通に教えられていることであります。さらに、マルコによる福音書に後から付け加えられたと考えられている「結び二」においてもやはり同じことが言えます。そうであれば、今朝の御言葉で、イエスさまが授けていた洗礼は、「聖霊による洗礼」ではないことは確かであると言えるのです。
今朝の御言葉、「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」。この御言葉を史実として解釈するならば、これは洗礼者ヨハネが投獄される前の、イエスさまが公生涯を始める前の出来事であったと解釈することができます。マタイによる福音書、ルカによる福音書を見ますと、洗礼者ヨハネが領主ヘロデに捕らえられてから、イエスさまの救い主としての公の生涯、いわゆる公生涯が始まります(マタイ4:12~17)。しかし、今朝のヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネがまだ投獄される前のこと、洗礼者ヨハネとイエスさまが並行して活動していた頃のことが記されていると解釈するのです。イエスさまが、公生涯を始められる前に、ユダヤ地方で洗礼を授けていたという伝承があって、福音書記者がそれをここに用いていると考えられるのです。わたしはそのような伝承があったことを否定することはできないと思いますけども、しかし、先程確認しましたように、この洗礼は、聖霊による洗礼ではなかったはずであります。イエスの名による洗礼であっても、それによって聖霊が与えられるという洗礼ではなかったはずです。
また、この22節の他の解釈としまして、イエスさまが洗礼を授けていたというのは、洗礼者ヨハネとイエスさまを対比するための、福音書記者の創作であるとする解釈があります。イエスさまが、公生涯を始める前に、ユダヤで洗礼を授けていたという記述は伝承によるものではなく、福音書記者の創作であると言うのです。これはいささか行き過ぎで受け入れ難いのですが、福音書記者が、洗礼者ヨハネの洗礼とイエスさまの洗礼を対比させたいと考えているという点では、そうだと思います。
わたしの解釈を申し上げさせていただくと、この所には、この福音書が記された時代のキリストの教会と洗礼者ヨハネの教団の現状が反映されているのだと思います。わたしは、イエスさまが公生涯の前に洗礼を授けていたという伝承があったことを否定するつもりはありませんけども、何よりこの所に、ヨハネによる福音書が記された時代のキリスト教会と洗礼者ヨハネの教団が共に洗礼活動をしていたという現実が二重写しされていることを見落としてはいけないと思います。前々回に、第3章11節の「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」という御言葉についてお話ししたときに、ここに、福音書記者ヨハネの共同体とそれを取り巻くユダヤ人会堂がひょっこり顔を出していると申しました。それと同じことが、今朝の御言葉においても言えると思います。そして、そのことは、第4章2節の「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」という但し書きによっても暗示されていると思います。なぜなら、ヨハネによる福音書が記された紀元90年ごろにおいて、キリストの弟子たちは、主イエスのご命令に従って洗礼を授けていたからであります。
このヨハネによる福音書が、どこで記されたのかを確定することはできませんが、一つの有力な説は、アジア州の中心地であったエフェソであります。使徒ヨハネが晩年、エフェソでこの福音書を記したと考えられているのです。そして、使徒言行録によれば、エフェソには、洗礼者ヨハネの洗礼しか知らない教団があったのであります。それゆえ、ヨハネによる福音書は、そのプロローグの中で、洗礼者ヨハネについて「彼は光ではなく、光について証しするために来た」と記したのです。そして、今朝の御言葉においても、福音書記者は洗礼者ヨハネの言葉を記すことにより、イエスこそキリスト、救い主であることを証ししているのです。今朝の御言葉は、洗礼者ヨハネの最後のキリスト証言であると言うことができます。福音書記者は、洗礼者ヨハネの最後のキリスト証言を、その弟子たちの訴えをきっかけにこう記すのです。25節、26節をお読みいたします。
ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間の論争が、具体的にはどのようなものであったかは分かりません。「清めのこと」であったとありますから、おそらく、「どうして、ユダヤ人にまであなたがたは洗礼を授けているのか」と言ったことではなかったかと思います。もともと洗礼は、まことの神を知らない異邦人が、イスラエルの宗教に改宗する際に授けられたものでありました。ですから、神の契約の民であるユダヤ人に、洗礼を受ける習慣はなかったのです。けれども、洗礼者ヨハネは、ユダヤ人にも洗礼を求めた。ユダヤ人にも悔い改めのしるしとして洗礼を受けることを求めたのです。しかし、このヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との論争は、しだいにヨハネの洗礼とイエスの洗礼へと話題が移っていったようであります。「あなたたちの先生であるヨハネは洗礼を授けているが、最近、イエスという男も洗礼を授けているではないか。一体どこが違うのか。最近では、多くの人々があなたの先生ではなく、イエスのもとへ行っているがどうなのか」。このような論争があったことが、文脈全体から推測できるわけであります。そして、そのような論争を経て、弟子たちがヨハネのもとに来てこう言うわけです。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたがた証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ここには、先生であるヨハネへの不満が記されているとも読むことができますし、先生であるヨハネを心配する言葉が記されているとも読むことができます。ヨハネの弟子たちにとって、洗礼者ヨハネこそ、ラビ、わたしの偉大な方でありました。彼らにとって、イエスはヨハネと同じように洗礼活動を始めた新興勢力であり、いわば競争相手です。その競争相手を、先生はこともあろうに、メシアであると証ししている。その結果、みんながあの人の方へ行っているではありませんか。このままでは、私たちの教団は衰退してしまうではありませんか。こう不平と不安が入り交じった言葉をヨハネの弟子たちは述べているのです。けれども、ヨハネの答えは次のようなものでありました。27節から30節までをお読みいたします。
ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。これは「天から与えられた働きを越えて、人は働くことができない」ということであります。ヨハネは弟子たちの前で、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と証ししました。それは、そのことが神さまから与えられたヨハネの使命であったからです。天から与えられたヨハネの使命は、水で洗礼を授けることによって、来るべきメシア見出し、イエスこそ、世の罪を取り除く神の小羊と証しすることであったのです。そして、その証しを弟子たちも聞いていたわけです。そのヨハネの証しによって、アンデレをはじめとする何人かの弟子たちはすでにイエスさまの弟子となっていたわけであります。けれども、ここでヨハネに不平を言っている弟子たちは、その先生であるヨハネの証しを受け入れずに、ヨハネのもとに留まっていたのです。人々がヨハネのもとからイエスのもとへ集まっているのを見て、このままでは私たちの教団が衰退してしまうではないかと憂えている。なんとか盛り立てていかなければいけないと思っている。しかし、それはヨハネから言えば、天から与えられたところを越えて、受けようとしていることに他ならないのです。洗礼者ヨハネ、この人は神さまの御前に自分の役割をしっかりと弁えることができた人であります。その点では、私たちが模範とすべき人物です。私たちの教会にも、1人の教師、3人の長老、7人の執事が立てられております。これは、いわば天から与えられた、天上の主イエスから与えられた務めです。私たちの教会には、教会憲法があり、その一つである政治規準には、それぞれの職務が丁寧に記されております。その務めを、教師、長老、執事が天から与えられたものと弁えて誠実に励むとき、私たちはキリストの教会として造り上げられていくのです。教会役員だけではありません。教会員一人一人が神と教会の御前に誓約した六項目を天から与えられたものとして誠実に生きるときに、キリストの教会はいよいよキリストの教会らしくなっていく。主イエス・キリストを頭とする交わりを形づくっていくことができるのです。
ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と申しました。それは具体的にはどういうことかと言いますと、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ということであります。この「ねばならない」は、神さまのご計画の必然をあらわす「ねばならない」であります。7節でイエスさまは、ニコデモに「あなたがたは新たに生まれねばならない」と仰せになりました。また、14節で「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と仰せになりました。これと同じ「ねばならない」が、30節のヨハネの言葉にも用いられているのです。ただし、ギリシア語の原文を見ますと、この「ねばならない」は、「あの方は栄え」という言葉に掛かっているのです。この所を原文から直訳しますと「あの方は栄えねばならない、わたしは衰え」と、途中で切れてしまっているのです。ヨハネがここで言いたいこと、それはイエスさまが栄えること、イエスさまの御名によって多くの人に洗礼が授けられること、それが神さまのご計画であるということです。そのために、自分は、あの方こそメシアであると証ししてきた。その役目を終えようとしている今、衰えていくのが自分の定めであるとヨハネは言うのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。このヨハネの言葉は、何だかもの悲しい言葉のように聞こえますけども、そうではないのです。その直前に、「わたしは喜びで満たされている」とありますように、ヨハネは、大きな喜びに満たされて、「あの方は栄えねばならない。そのために、わたしは衰えねばならない」と語ったのです。どうして、喜びに満たされてこのような言葉が語れるのか。そのことを、ヨハネは、イエスさまを花婿に、そして自分をその花婿の介添え人に譬えて語っています。ここで「介添え人」と訳されている言葉は、もとの言葉ですと「友」という言葉であります。現在でも、結婚披露宴の司会を花婿の親しい友人がするということがありますけども、当時のユダヤにおいて、花婿の最も親しい友人が介添え人となったのです。ちなみに、「介添え人」とは付き添って世話をする人のことであります。当時、ユダヤでは結婚式の前夜に花婿は友人を伴い、花嫁を迎えるために彼女の父親の家に行ったそうであります。ある書物には、当時の様子がこう記されておりました(山本書店『イエス時代の日常生活Ⅰ』)。
当日の前夜、花婿は友人を伴い、花嫁を迎えるため彼女の父の家に行った。花婿はこの日のためにとくに立派な晴れ着をまとった。あるものは預言者イザヤの言葉によって、あるいはソロモン王をまねて冠を被った。「花婿の友人」の指揮のもとに行列が組まれた。かれは真の司会者として立ち働き、終始花婿のかたわらにあってすべてに気をくばり「ひじょうに楽しく」行動した。
このように、花婿の友人は、花婿と一緒に花嫁を彼女の父の家まで迎えにいきました。けれども、花嫁を迎えるのは友人ではなくて花婿であるわけです。そして、花婿の友人はこのことを自分のことのように喜ぶのです。その大きな喜びにヨハネは満たされている。それはなぜかと言えば、自分が証ししたイエスさまの方へ、みんなが行っているからです。花嫁がだれであるか、もうお分かりだと思います。ここでの花嫁は、イエスのもとに集い、洗礼を受ける一人一人であります。キリストの教会、それがイエス・キリストの花嫁です。だから、ヨハネは大いに喜ぶのです。喜びに喜ぶのであります。花婿の喜びの声を聞いて、その友人の心が喜びで満たされるように、イエスさまのもとにみんなが集まっていることを知って、喜びに溢れるのです。このヨハネの言葉は、いまだ自分のもとに留まり続けている弟子たちへの促しの言葉であったと思います。あなたたちも、わたしの証しを受け入れてイエスのもとへ言ってほしい。そのとき、あなたたちも花婿の友人として大きな喜びにあずかることができるはずだと。花婿の友人の大きな喜び、それは洗礼者ヨハネだけがあずかることのできる喜びではありません。なぜなら、主イエスは私たちをも「友」と呼んでくださるからです。第15章3節から5節までをお読みいたします。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
イエスさまは私たちのために命を捨てることによって、私たちの友となってくださいました。父から聞いたことをすべて知らせてくださることによって、友となってくださったのです。そうであるならば、イエスさまのもとに多くの人が集り、イエスさまの栄光がほめたたえられることを、私たちも大いなる喜びとすることができるのです。一人の姉妹が、神と教会の御前に自らの口で信仰を言い表すことができた。このことを、天におられるイエスさまと一緒に喜ぶことができるのです。