永遠の命を得るために 2009年4月19日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の命を得るために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書 3章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 受難週、イースターと、しばらくヨハネによる福音書から離れておりましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を学び続けていきたいと思います。

 先程は、第3章1節から15節までをお読みしていただきましたが、前回は1節から8節までお話ししましたので、今朝は9節から15節までを中心にしてお話ししたいと思います。

 第3章は、イエスさまとニコデモの対話が記されておりますが、その主題、テーマは、神の国を入るということでありました。神の国とは、もう少し丁寧に言うならば、神の王国であり、神の王的支配のことであります。神の王的支配が及ぶところ、そこが神の王国、神の国であるのです。ファリサイ派に属し、最高法院の議員でもあったニコデモは、イエスさまが為された様々なしるしに、神の国を見たというのでありますけども、イエスさまは、あなたはまだ神の国を見ていない。なぜなら、あなたは霊によって新しく生まれていないからだと言われたのです。神の国に入る道筋、それは上から生まれること、神の霊によって生まれることでありました。イエスさまは、その神の霊のお働きを、風に譬えてニコデモに教えられたのです。そのイエスさまの教えを受けて、9節でニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ったのです。前回も申し上げたことですが、このニコデモの言葉は、彼がファリサイ派に属していたことと関係があると思われます。ファリサイ派は、神の掟である律法を守るのに熱心な人々でありました。彼らは、神の国に入るには何より律法を守らねばならないと考えていたのです。しかし、イエスさまは、「神の国に入るには、神の霊によって生まれねばならない」と教えられたのです。「生まれる」ということは、これは受け身のことであります。「神の国に入るにはどうすればよいのか」と日々問うていたニコデモにとって、イエスさまの御言葉はおよそ受け入れ難いものでありました。しかし、イエスさまは、そのようなニコデモに対して「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われるのです。神の霊によって生まれるということ、それは何も新しい教えではありません。旧約聖書のエゼキエル書第36章26節に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と記されているように、神の霊によって新しくされることは預言されていたのです。イスラエルの教師であるニコデモもこのエゼキエル書の預言を知っていたはずであります。けれども、彼はその預言をイエスさまと結びつけることができなかったのです。そのことは、このときニコデモが、まだイエスさまを約束のメシア、救い主として信じていなかったことを教えています。といいますのも、当時のユダヤ人たちは、メシアの出現によって、神の霊が働かれると信じていたからです。ニコデモにとって、イエスさまは「神のもとから来られた教師」でありましても、「神のもとから来られたメシア、救い主」ではなかったのです。しかし、そのようなニコデモに、イエスさまは、神の救いのご計画を打ち明けられるのです。11節から15節までをお読みいたします。

 「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 「はっきり言っておく」。これはイエスさまが神の子としての権威をもって語られる、決まった言い回しであります。元の言葉を直訳しますと、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」となります。新改訳聖書は、「まことに、まことに、あなたに告げます」と訳しておりますが、こちらの訳の方が、原文に近いと言えます。いずれにしましても、ここでイエスさまは、聞き過ごすしはならない重大な発言をなされているわけです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」。この11節を読んで、あれっと思った方もおられるかも知れません。それは、ここで突然「わたしたち」、「あなたがた」という複数形が出てくるからです。イエスさまとニコデモとの対話、「わたし」と「あなた」の対話が、ここでは「わたしたち」と「あなたがた」の対話となっているのです。このことを理解する一つの解釈は、ここに、この福音書が執筆された時代のヨハネの共同体とユダヤ人社会がひょっこり顔を出しているという解釈です。イエスさまの御言葉のうちに、ヨハネが福音書を記した時代、紀元90年頃のキリストの教会とユダヤ人会堂との対話が二重写しになっているのです。そのように解釈しますと、続く12節の意味がよく分かってくるのではないかと思います。イエスさまは12節で、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と言われました。この「地上のこと」とは、これまでの文脈からすれば、神の霊によって生まれることであります。神の霊によって生まれる。これは天上の神の主権によるものでありますけども、出来事としてはこの地上で起こるわけでありますから、地上のことと言えます。そして、ヨハネがこの福音書を記したとき、キリストの教会には神の霊によって新しく生まれた者たちが集い、礼拝をささげていたわけです。けれども、そのことをユダヤ人たちは信じることができませんでした。そうであるならば、どうして天上のこと、神さまのお心の内にあることを信じることができるだろうかとイエスさまは言われたのです。しかし、イエスさまは、そこで話しを打ち切られたのかと言えば、そうではありませんでした。天から降って来た者として、さらには神さまから権威と威光を与えられた「人の子」として、天上のことを教えてくださるのです。それが、14節、15節に記されていることであります。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 モーセが荒れ野で蛇を上げたことについては、旧約聖書の民数記第21章4節以下にこう記されています。

 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力も失せてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

 かつてモーセが、罪を犯した民の命を救うために、青銅の蛇を上げたように、イエスさまは、すべての人を救うために御自分も上げられなけれねばならないと言われたのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」。この「ねばらない」は、神さまのご計画の必然を表す「ねばらない」であります。7節に、「あなたがたは新たに生まれねばならない」とありましたが、この「ねばらならない」と同じ「ねばならない」が、14節にも用いられているのです。「あなたがたは新たに生まれねばならない」。このことがイエスさまがすでにお話しされた地上のことであるとすれば、「人の子は上げられねばならない」は、天上のこと、神の永遠の救いのご計画のことであると言えるのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」。こうイエスさまが語られるとき、それは何より「十字架に上げられる」ことを意味しています。ヨハネによる福音書において、イエスさまが「上げられる」と言うとき、「十字架にあげられる」という意味と、「天にあげられる」という意味とが重ねられているのですが、ここでは、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように」とありますので、何よりイエスさまが「十字架にあげられる」ことが言われているわけです。神さまは、かつてイスラエルの民が、青銅の蛇を仰ぐことによって命を得たように、信仰をもって十字架につけられたイエス・キリストを仰ぐ者に、永遠の命をお与えになることをよしとされたのです。しかし、それはただ物理的に見上げるということではありません。イスラエルの民が高く掲げられた青銅の蛇を仰いだのは、主がモーセに告げられた御言葉を信じたからでありました。イスラエルの民は、主がモーセに語られた「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との御言葉を信じて、信仰をもって青銅の蛇を仰ぎ、命を得たのです。そのように、十字架に上げられたキリストをただ見上げるだけでは、永遠の命を得ることはできません。15節に「信じる者が皆」とありますように、信仰をもって十字架に上げられたイエス・キリストを仰がなくてはならないのです。「十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぐ者は、イエス・キリストにあって永遠の命を得る」という神の御言葉を信じて、十字架に上げられたイエス・キリストを仰がなくてはならないのです。15節に、「人の子によって」とありますが、これは、むしろ「人の子にあって」と訳すべき言葉であります。神さまの永遠のご計画は、十字架に上げられたイエス・キリスト、さらには復活して、天へと上げられたイエス・キリストにあって、御自分を信じる者たちが、永遠の命を得ることであるのです。永遠の命、それはいつまでも続く命というよりも、むしろ、命の源である神さまとの永遠の交わりに生きることを意味しています。旧約聖書の創世記の教えるところによれば、最初の人アダムは、神さまに罪を犯し、神との交わりを失い、死すべきものとなりました。人は、神さまとの交わりを失ったとき、肉体的にも、霊的にも死すべきものとなったのです。けれども、神さまは、その独り子を十字架に上げることによって、永遠の命への道を切り開いてくださったのです。イエス・キリストが、このわたしの罪のために十字架についてくださった。このことを信じて十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぐとき、私たちは、復活し、天へと上げられたイエス・キリストにあって永遠の命に生かされるのです。イエス・キリストにあって、神の子とされ、父なる神との永遠の愛の交わりに生かされるのです。そして、そのとき、私たちのうえに神の霊から生まれるという出来事が起こるのです。イエスさまは、ニコデモに、地上のこととして「あなたがたは新たに生まれねばならない」とお語りになりました。そして続けて、天上のこととして「人の子は上げられねばならない」とお語りになりました。けれども、神さまの救いのご計画の順序から言えば、イエス・キリストが十字架に上げられ、さらには復活し、天へと上げられて初めて、聖霊によって生まれるということが起こるわけです。このことは、「神の国に入るには、霊から生まれねばならない」と言われた霊が、十字架に上げられ、さらには復活し、天へと上げられたイエス・キリストの霊であることを教えています。「あなたがたは新たに生まれねばならない」という言葉と、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない」という言葉は、密接に結びついているのです。つまり、イエス・キリストの十字架、復活、昇天、着座があって初めて、聖霊の派遣があり、新しく生まれるということが起こるのです。地上のことと天上のことは別々のことではなくて、むしろ、天上のことの連続線上に地上のことが起こるのです。けれども、繰り返しになりますけども、それは信じる者たちにだけ起こるのです。ここまで、わたしの話を聞いておられて、皆さんの中に一つの疑問が湧き起こって来たかも知れません。それは現代の生きる私たちが、十字架に上げられたキリストを見ることは不可能ではないかという疑問です。確かに、私たちはこの肉の目をもって十字架にあげられたキリストを見ることはできません。けれども、聖霊によって心のうちに十字架に上げられたキリストをはっきりと思い描くことはできるのです。そして、そのことは何よりイエス・キリストの福音を聞くことによって起こるのです。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第3章1節から6節までにこう記しています。

 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わせたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・。あなたがたに霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められたと」言われている通りです。

 このパウロの言葉は、ガラテヤの信徒たちが、イエス・キリストの福音を聞いて、信じたときに、聖霊を受けたことを明確に語っています。そして、パウロに取りまして、福音を語ることは、十字架につけられたイエス・キリストをはっきりと描き出すことであったのです。私たちは、実際にイエスさまが十字架につけられているお姿を見ることはできません。けれども、福音の説教を通して、私たちはその心に、十字架につけられたイエス・キリストのお姿をはっきりと思い描くことができるのです。そして、そのイエス・キリストを救い主と信じ仰ぐならば、その人は、聖霊によって新しく生まれた者であると言えるのです。この聖霊による新しい誕生について、パウロはその前の第2章19節、20節で次のように述べています。

 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きている生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

 このパウロの言葉に、十字架に上げられた主イエスの霊によって生まれるということがどのようなことであるかがよく言い表されていると思います。霊によって生まれるということ、それは十字架に上げられたイエス・キリストに自分を見出すことです。何の罪もないイエスさまが、罪人であるわたしの身代わりに呪いの死を死んでくださった。そのことを信じるとき、私たちは天に上げられたイエス・キリストの命にあずかることができるのです。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです」と言えるほどの新しい命に生きることができるのです。

 イエスさまが「神の国に入るには、霊によって生まれねばならない」と言われたその霊が、十字架に上げられ、さらには復活し天へと上げられる御自身の霊、イエス・キリストの霊であったことを、よく想い巡らしていただきたいと思います。

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