新しく生まれる 2009年3月29日(日曜 朝の礼拝)

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新しく生まれる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 2章23節~3章8節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ヨハネによる福音書 2章23節~3章8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、「神殿から商人を追い出す」というお話しを学びましたが、イエスさまがエルサレムへと上って行かれたのは、過越祭を祝うためでありました。過越祭は、その昔、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放したことを祝う祭りであります。過越祭はユダヤ人にとって最大のお祭りであり、1週間に渡って祝われておりました。その祭りの間、イエスさまはエルサレムにおられ、数々のしるしをなされたのでありました。23節にこう記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」。細かいことを言うようですが、ここでの「しるし」はもとの言葉では複数形で記されています。それゆえ、イエスさまがエルサレムにおられた間、数々のしるしをなされたことが分かるのです。この時のしるしがどのようなものであったのかは記されておりませんが、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書から推測しますと、イエスさまは病人を癒すなどの奇跡をなされたのだと思います。そして、その数々のしるしを見て多くの人がイエスの名を信じたのでありました。しかし、イエスさまは、そのような彼らを信用されませんでした。24節に、「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」とありますが、このところを新改訳聖書は、「イエスは御自身を彼らにお任せにならなかった」と訳しています。「信用する」とは、言い換えれば自分を相手に任せてしまうことです。しかし、イエスさまは彼らを信用されず、彼らに自分を任せてしまうようなことはしませんでした。イエスさまのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じたにも関わらず、イエスさまは彼らを信じなかった。彼らに御自分を任せるということはなさらなかったのです。しるしを見て信じる信仰、いわゆる奇跡信仰は、信用できないとイエスさまは判断されたのであります。なぜ、イエスさまは彼らを信用されず、御自分を任せることをしなかったのか。その理由が24節後半から25節にこう記されています。「それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。

 旧約聖書が繰り返し教えていることは、人をお造りになられた神さまだけが、人の心をご存じであるということです。そして、福音書記者ヨハネは、イエスさまもすべての人のことを知っておられたと記すのです。人間とはこういうものだと誰かに証ししてもらう必要がないほどに、イエスさまは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのです。私たち人間は、人間の心の中に何があるのかを知りません。心理学は、私たち人間には無意識の領域というものがあり、それが私たちに大きな影響を及ぼしていると教えていますが、私たちは他人はもちろん、自分の心の中にさえ何があるかを知っているわけではないのです。けれども、イエスさまは人間の心の中に何があるかを知っておられた。それはイエスさまが人の心をお造りになられた神その方であるからです。プロローグの言葉で言えば、万物をお造りになられた言、ロゴスであられるからであります。イエスさまは、しるしを見て御自分を信じた人々の心がどれほど変わりやすく、当てにならないものであるかを知っておられた。やがて彼らが、御自分を「十字架につけよ」と叫ぶ日が来ることを知っておられたのであります。

 イエスさまがこの地上を歩まれたとき、そこでは様々なしるしが行われました。病人が癒される。足の不自由な人が歩き出す。目の見えない人が見えるようになる。このような神の国の到来を指し示すしるし、奇跡を現在の教会においても行うことができればどれほどよいかと時々わたしは思うのです。おそらく、皆さんもそのように考えることがあると思います。そうすれば、もっと多くの人が教会に集まるのに。そうすればもっとイエスさまを信じる人が起こされるのに。そのように思うわけです。けれども、当のイエスさまはどうであられたのかというと、しるしを見て信じる人々を信用されなかったのです。これは、しるしがあれば、信じる人が起こされると安易に考えてしまう私たちへの警告であると思うのです。信仰とはそんな簡単なことではないということであります。それでは、イエスさまに信用していただける信仰とは、どのような信仰なのでありましょうか。その問を胸に抱きつつ、第3章1節以下を見ていきたいと思います。

 小見出しに「イエスとニコデモ」とありますように、ここにはイエスさまとニコデモの対話が記されています。1節によれば、ニコデモはファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員でありました。ファリサイ派とは、神の掟を厳格に守ろうと努力していた真面目な人たちの集まりです。イエスさまの時代、ファリサイ派は6000人ほどおり、会堂を通して、ユダヤ人社会に大きな影響を与えておりました。ニコデモはこのファリサイ派に属していたのです。また当時、ユダヤは大祭司を議長とする71人からなる最高法院によって統治されておりました。ニコデモはその最高法院の議員でもあったのです。そのようにニコデモは、宗教的にも政治的にも影響力を持つ、社会的地位の高い人物であったわけです。そのためでしょうか。ニコデモはイエスさまのもとを夜に訪ねました。人目をはばかるようにして、ニコデモは夜にイエスさまのもとを訪れたのです。そして、イエスさまにこう言うのです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。

 第2章23節に、「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とありましたが、ニコデモは、その代表者としてここに登場いたします。イエスさまがなされたしるしこそ、イエスさまが神のもとから来られた教師であることの証拠である。神さまがイエスさまと共におられることの証拠であると言うのです。ニコデモはイエスさまがなされたしるし、病人の癒しなどの奇跡に、いわば神の国の到来を見たと言うのです。わたしはこのニコデモの言葉を読んで、イエスさまのしるしが意味するところをよく捉えていると思うのです。しかし、イエスさまは、このような奇跡信仰に満足することなく、ニコデモを更なる信仰へと導かれるのです。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

 ニコデモは、あなたのなさるしるしに自分は神の国の到来を見たと言うのでありますけども、イエスさまそのニコデモに「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と答えられたのです。ニコデモは、イエスさまのしるしにおいて神の国を見たというのですけども、イエスさまは、あなたは神の国をまだ見ていない。なぜなら、あなたは新しく生まれていないからだ、と答えられたのです。神の国、これは神の支配とも訳される言葉であります。神の支配を見るのに、いつもしるしと呼ばれる不思議な業が起こらなければならないのであれば、これは現在においてもしるしが求められてしかるべきであります。けれども、すでにイエス・キリストを信じ、この世界に、とくにキリストの教会に神の恵みの御支配を見ているわたしたち自身のことを考えてみるとどうでしょうか。私たちは、教会で、イエス・キリストの名のもとに病人の癒しなどの不思議な業が行われているのを見たから、イエス・キリストを信じたのでしょうか。そうではないわけですね。もし、そうであれば、それはイエスさまから信用されない奇跡信仰に留まっていることになってしまうのです。ニコデモは、しるしによってイエスさまが何者であるかを判断し、そのしるしによって神の御支配を見たと申しました。しかし、イエスさまは、そのような心のあり方では、神の国を見ることはできない。新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと仰せになるのです。この3節の御言葉は、イエスさまが御自分の権威をもって宣言される厳粛な御言葉であります。以前にも申しましたけども、「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、もとの言葉を直訳すると、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」となります。文語訳聖書は、「まことに、まことに、汝らに告ぐ」と訳しておりました。それを新共同訳聖書は、「はっきり言っておく」と訳しているわけです。「はっきり言っておく」。これはイエスさまが神の子としての権威をもって語るときの決まった言い回しなのであります。

 イエスさまはニコデモに、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。この「人」の中には、ニコデモも含まれています。また、イエスさまのしるしを見て、信じた多くの人が含まれているのです。さらには、イエスさまが知っておられるすべての人が含まれているのです。ここに集う私たちにも、イエスさまは今朝、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われているのです。

 このイエスさまの御言葉を聞いて、ニコデモはこう申しました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。

 ニコデモは、イエスさまの「新たに生まれる」という言葉を受けて、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問い返しました。言うまでもなく、そのようなことは年を取っていようが、若かろうが不可能であります。そして、そのようなことをイエスさまが求められたのではないことは明かであります。そのことは、ここで「新たに生まれねばならない」の「新たに」と訳されている言葉が「上から」とも訳せる言葉であることを知るときに、いよいよ明らかになります。イエスさまは、「人は、上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのです。「上から生まれる」とはどのようなことでしょうか。イエスさまは、さらに5節でこう仰せになっております。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。

 ここでは、「上から新たに生まれる」ということが「水と霊とによって生まれる」と言い換えられております。水と霊とによって生まれる。これはイエス・キリストの御名によってなされる洗礼を背景としていると考えられます。テトスへの手紙第3章4節から7節までをお読みしたいと思います。

 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

 ここには、初代教会の洗礼に対する考え方がよく表れています。洗礼を受けるとは、聖霊によって新しく生まれ、新たに造りかえられたことを表す水のしるしなのです。イエスさまが、「人は水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたとき、聖霊によって新しく生まれたことを示す水の洗い、イエス・キリストの御名による洗礼を念頭においていたと考えることができるのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 イエスさまが、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われたとき、そこで強調されていることは何より、霊から生まれるということであります。そのことは8節ではもやは水に触れられず、霊から生まれることのみについて語られていることからも明かです。この霊とは、神の霊、聖霊のことです。神の国に入るには、人は聖霊によって生まれなければならない。7節に、「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」とありますけども、この「ねばならない」は、神さまのご計画を表す、神的必然の「ねばならない」であります。霊から生まれること、それが神さまが定められた神の国に入るための道筋であるということです。なぜ、人は聖霊によって生まれなければ神の国に入ることはできないのでしょうか。おそらく、このような疑問を、ニコデモは抱いたと思います。ですから、ニコデモは9節で、「どうして、そんなことがありえましょうか」と思わず言ってしまったわけです。ニコデモはファリサイ派の一員でありました。ファリサイ派は、神の掟を厳格に守ることによって、神の国を来たらせようとした人々です。この時代、ユダヤの国はローマ帝国の占領下に置かれておりました。神の民イスラエルは、まことの神を知らない異邦人によって、こともあろうに支配されていたのです。そのような中にあって、ユダヤ人は神の支配、神の国の到来を待ち望んでいたのです。そのような中にあって沸き起こってくる一つの疑問は、なぜ、神の国は到来しないのであろうかということです。その問いに対するファリサイ派の出した答えは、神の民である我々が神の掟を守っていないからだということであったのです。それで、自分たちだけでも神の掟を厳格に守ろうとしたのであります。そのようなファリサイ派の一員であったニコデモにとって、神の国に入る道筋は何より、神の掟を守ることでありました。これがニコデモにとっての大前提であったわけです。けれども、イエスさまはそうではない。神の国に入るために必要なことは、上から生まれること、霊から生まれることだと教えられたのです。なぜ、イエスさまはそのように言われるのでしょうか。それはイエスさまがすべての人のことをご存じのお方であり、人の心の中に何があるかをよく知っておられたからです。すべての人のことを知っており、人の心の中に何があるかをよく知っておられたイエスさまが見ていたものは何か。それを教えてくれるのが、旧約聖書のエレミヤ書第17章9節と10節の御言葉であります。

 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである。

 人の心を探り、そのはらわたを究められる主イエスがすべての人をご覧になられるとき、誰一人として、神の国に入るのにふさわしい者はいなかったのです。ファリサイ派であり、ユダヤ人たちの議員であったニコデモさえも、聖霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのであります。そして、この聖霊による新しい誕生は、旧約聖書のエゼキエル書にすでに預言されていたことでありました。エゼキエル書の第36章25節、26節をお読みします。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れと偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

 すべての人の心はとらえ難く病んでいる。それゆえに、心そのものを聖霊によって新しくしていただかねばならないのです。その新しい誕生、聖霊による上からの誕生をエゼキエルはすでに預言していたのであります。そして、イエスさまは、そのエゼキエルの預言を成就するお方として、すなわち聖霊によって洗礼を授けるお方としてこの地上に来てくださったのです。

 イエスさまは「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。また、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。ここで教えられておりますことは、神の国に入るということは、人間の努力によるのではなく、神さまの一方的な主権によるということであります。子供が生まれてくるのは、その子供の意志によるのではなく、両親の意志によるものであるように、聖霊によって生まれる者も、ただ神さまの自由な御意志によって生まれてくるのです。イエスさまは、霊によって生まれるという、この神秘を分かりやすく、地上の現象を通して、つまり風に譬えて次のように教えられました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。

 誰も風を見ることはできず、どこから来てどこへ行くのかを知りませんけども、その音や、木を揺らすということによって、風が吹いていることが分かります。そのように、聖霊も見ることはできず、捉えることはできませんけども、人を造り変えることによって、力強く働いていることが分かるのです。神さまは自由な御意志によって、私たちに聖霊を注ぎ、イエスは主であるとの信仰を与え、洗礼を授けることによって、御自分の霊が確かにこの地上において力強く働いていることを今も証ししておられるのです。

 しるしを見て信じる信仰、これはたやすく御利益信仰へと変わってしまう、危うい信仰であります。そのような信仰が、神さまから、またイエスさまから信用されないのは当然であると言えるのです。けれども、とらえ難く病んでいる私たちの心、自己中心の罪に陥っている私たちの心から沸き起こってくるのは、そのような御利益信仰でしかないのです。そうであれば、誰もイエスさまから信用していただけない。そこで神さまは、イエス・キリストを通して聖霊を注ぐことにより、信頼に足る人間をお造りになられたのであります。信頼に足る人間とはどのような人間か。それは神の御前に自分の心が捉えがたく病んでいることを認めることのできる人間です。別の言葉で言えば、神の霊によって新しくされなければ救われないほど罪に汚れていることを自覚している人間であります。そのような心に生きるとき、逆接的ではありますが、その人は神の国に入るのにふさわし者とされているのです。

 聖霊によって生まれるというとき、その聖霊は、神を「アッバ父よ」と親しく呼びかける御子イエスの霊でもあります。人は霊によって生まれることにより、神さまを父として信頼する心を与えられるのです。そのとき、私たちは、どのような困難の中にあっても、父なる神の恵み深い御支配を仰ぐことができるのです。この地上において、神の国を見ることができる。この地上において、神の国に生きることができるのです。

 先程、「生まれる」という言葉から、救いは神の一方的な主権的な御業であると申しました。それでは、人は何もしなくても良いのかと言えばそうではないのです。イエスさまは霊から生まれることを、風に譬えてお語りになりましたけども、ここで「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳される言葉なのであります。また、「音」と訳されている言葉は「声」とも訳される言葉なのです。ですから、8節は、このようにも訳すことができます。「霊は思いのままに吹く。あなたはその声を聞いても、どれがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者は皆そのとおりである」。霊から生まれること、それは神さまの自由な御意志によることであり、捉えがたい神秘でありますけども、しかし、そこで私たちは、霊の声を聞き続けることが求められているのです。霊によって生まれるには霊の声、すなわち、イエス・キリストの御言葉に聞き続けなければならないのです。そうであれば、霊によって生まれるというこの奇跡は、何よりイエス・キリストの御言葉が語られる教会の礼拝において起こることが分かるのです。私たちは主の日の礼拝ごとに、イエス・キリストの御霊と御言葉によって、新しく生まれなければならないのです。

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