カナの婚礼 2009年3月15日(日曜 朝の礼拝)
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カナの婚礼
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 2章1節~11節
聖書の言葉
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。ヨハネによる福音書 2章1節~11節
メッセージ
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今朝から、ヨハネによる福音書の第2章に入ります。1節に「三日目に」とありますが、これはフィリポとナタナエルがイエスさまの弟子となった日から三日目ということであります。何度も申しておりますように、福音書記者ヨハネは、第1章19節から第2章11節までを7日に渡る出来事として記しております。そして、今朝の御言葉には、その第7日目の出来事が記されているのです。このことを覚えつつ、今朝の御言葉を御一緒に見ていきたいと思います。
1節、2節をお読みします。
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
今朝のお話の舞台は、ガリラヤのカナであります。巻末の聖書地図の「6 新約時代のパレスチナ」を見ますと、ガリラヤ湖の西側にカナと記されています。そして、そのカナの南にナザレと記されているのです。カナは、イエスさまの故郷ナザレから北に14キロメートルほどのところにありました。このカナで婚礼が開かれたのです。イエスさまと弟子たちは、ヨルダン川の向こう側のベタニアから二日の道のりをかけて、故郷ナザレへと帰り、ナザレからカナへと向かったのかも知れません。詳しいことは分かりませんけども、福音書記者ヨハネは、カナの婚礼にいたのが、まずイエスの母であったことを記しています。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書をすでに読んでいる私たちは、イエスの母の名前がマリアであることを知っているわけですが、ヨハネによる福音書は、マリアという名前を記さず、「イエスの母」と書くだけであります。以前にも申しましたように、福音書記者ヨハネは、読者が共観福音書の知識を持っていることを前提として書いておりますので、何かの意図があって名前を記さず「イエスの母」と記しているのだと思います。そのことについては、いつしかお話しすることになると思いますが、ともかく、カナでの婚礼にイエスさまの母マリアがいたのです。母であるマリアと子であるイエスさまが招かれていたというのですから、カナでの婚礼は、マリアの親族にあたる人の婚礼であったのかも知れません。それで、母マリアは、カナで婚礼が始まる前から、そこにいた。そこにいて、料理やお酒を出すなど裏方のお手伝いをしていたと考えられるのです。3節から5節までをお読みします。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあると言うのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
当時の婚礼は、7日に渡って盛大に祝われたと言われています。7日に渡って、招待した客をもてなすのですから、これは事前に相当の準備が必要となります。食材を大量に用意しなければなりませんし、お祝いにつきもののぶどう酒も大量に用意しておかなければなりません。しかしこともあろうに、この時ぶどう酒が足りなくなってしまったのです。このことから、もしかしたらイエスさまと弟子たちが婚礼に出席したのは、7日間の中頃であったかも知れません。いずれにせよ、婚礼の祝いの宴において、ぶどう酒がなくなったということは、危機的状況であります。それは花婿にとって大失態になりますし、婚礼の終わりを意味します。ぶどう酒がなくなる。それは喜びのときの終わりを意味するのです。母マリアは、親族の結婚式であり、裏方で奉仕しておりましたので、ぶどう酒がなくなったことを即座にイエスさまに告げました。母マリアがイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と告げたのは、イエスさまなら何とかしてくれるのではないかと期待したからだと思います。しかし、この母の言葉に対して、イエスさまは、こうお答えになりました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。なんとも素っ気ない、また謎めいた言葉であります。イエスさまは、母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけられました。これは当時の女性に対する丁寧な呼びかけでありますけども、自分の母に対して用いているところにどこか違和感があります。イエスさまは、「お母さん」と呼びかけずに、「婦人よ」と呼びかけられました。明らかに、イエスさまは母と距離をおいております。ある人はここから、イエスさまのメシア、救い主としての自意識を読み取ることができると申しております。ヨハネによる福音書において、今朝の第2章はガリラヤ宣教の初めでありまして、いわばここから共観福音書における公生涯が始まっていると読むことができます。ヨルダン川のベタニアから弟子たちを連れて帰って来られたイエスさまは、もはやマリアの子に留まるお方ではありません。その辺がまだマリアにはよく分からず、彼女は母としてイエスさまに語りかけるのです。母であるわたしが困っているのだから、どうにかしてほしいと願うわけであります。けれども、イエスさまは、そのような母と子という関係に縛られるのをここで拒否なされる。それゆえに、イエスさまは「お母さん」とは呼びかけず、「婦人よ」と呼びかけるのです。そればかりか「わたしとどんなかかわりがあるのです」とその願いを退けられるのです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」。これはヘブライ的表現で、願いごとを断るときの決まった言い回しであります(列王記下3:13)。これは、母マリアとイエスさまがどんなかかわりがあるかと言われているのではなくて、ぶどう酒が足りなくなったということと、イエスさまとにどんなかかわりがあるかという意味であります。これだけ読むと少し冷たい感じがしますけども、次の「わたしの時はまだ来ていません」という御言葉と一続きに読むならば、イエスさまが御自分のよしとされるときに、行動してくださることが分かるのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。このイエスさまの御言葉は、「母の願いであるから、どうにかするということはしませんけども、わたしはわたしの意志で、その時が来たら行うつもりです」という意味であるのです。それゆえ、母マリアは、裏方を取り仕切る者として、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。マリアは、母であってもイエスさまに行動を強いることはできず、ただできることは、イエスさまが行動されるのを準備をして待つことであることを学んだのであります。そして、いよいよイエスさまが事を起こされる時が来るのです。6節から10節までをお読みします。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
ここに、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」とありますが、ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしませんでした(マルコ7:3)。その手を洗うための水がめが6つ置いてあったのです。「いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」とありますが、聖書の巻末にある「度量衡と通貨」の表によれば、1メトレテスは約39リットルにあたります。ですから、「二メトレテスないし三メトレテス入りのもの」と言えば、「80リットルから120リットル入りのもの」であったことになります。とても大きな水がめであったわけですね。イエスさまは、その水がめに水をいっぱい入れなさいと言われたのです。そして、召し使いたちは、母マリアに言われていたように、イエスさまの御言葉に従い、かめの縁まで水を満たしたのです。なぜ、イエスさまはわざわざかめの縁まで水を入れさせたのだろうかと不思議に思うのですが、ある人は、これによって、イエスさまが水しかお用いにならなかったことを示すためであると申しております。「縁まで水を満たした」とありますけども、実際のところ縁から少し溢れていたと思うのですね。そうしますと、かめの中にはまさしく水しか入っていなかったことになるわけです。イエスさまは、そのかめの水をくんで、宴会の世話役のところへ持って行くように命じます。そして、世話役が味見をしますと、驚くほどに美味しいぶどう酒となっていたのです。世話役が花婿に言った言葉は、このぶどう酒がどれほど美味しいものであったかを見事に証言しています。しかし、ぶどう酒の味を絶賛した世話役は、このぶどう酒がどこから来たのかを知りませんでした。花婿も、世話役の言葉を聞いて何のことだか分からず、キョトンとしていたと思います。婚礼に出席していた者たちはぶどう酒が足りなくなっていたことさえ気づかなかったと思います。このぶどう酒が水であったことを知っていたのは、召し使いたちとすべてを見ていた弟子たちだけでありました。召し使いたちは、イエスさまの御言葉に従って、かめの縁まで水を満たし、それをくんで世話役のところへ運んで行ったのですから、ぶどう酒が清めの儀式に用いる水であったことを知っておりました。また、弟子たちもイエスさまと行動を共にしておりましたから、すべてのことを見ておりました。しかし、11節を見ますと、イエスさまを信じたのは、弟子たちだけであったのです。11節にこう記されています。
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
水をぶどう酒に変えられた奇跡、これを福音書記者ヨハネは、「最初のしるし」と述べております。ヨハネによる福音書は、イエスさまの数あるしるしの中から7つのしるしを選んで伝えておりますけども、その「最初のしるし」がガリラヤのカナの婚礼で行われた水をぶどう酒に変えるという奇跡であったのです。このようにヨハネによる福音書は、イエスさまの奇跡を「しるし」と呼んでおります。それは、水をぶどう酒に変えられたという奇跡が、イエスさまがどのようなお方であるかを指し示しているものであるからです。イエスさまが水をぶどう酒に変えられた。そのこと事態、驚くべきことでありますけども、ただそこに留まっているだけでは、「イエスを信じた」という信仰へ到達しないわけです。現に召し使いたちは、それがどこからきたかを知っていながら、イエスさまを信じるには至りませんでした。福音書記者ヨハネは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と語りました。「その栄光」とは、もとの言葉では「彼の栄光」、つまりイエスさま御自身の栄光であります。水をぶどう酒に変える奇跡に、イエスさまの御栄光を見ることができるかどうか。そこが、イエスさまを信じる信仰へと至るかどうかの分かれ目となるのです。弟子たちはこの奇跡を単なる不思議な業としてではなく、イエスさまの御栄光を現すしるしとして見ることができました。それゆえ、弟子たちはイエスさまがメシアであることをさらに深く、確かなこととして信じることができたのです。
この時、弟子たちが思い起こしていたであろうとされるのは、旧約聖書のイザヤ書第25章6節から10節まで御言葉であります。
万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。
ここには、イザヤに示された主の救いの幻が記されております。共観福音書において、イエスさまも天の国を祝宴に譬えておりますが、ここでも終末の救いが祝宴に譬えて語られています。当時の多くの貧しい人々にとって、良い肉と古い酒を供される祝宴こそ、天の祝福のひな型でありました。イザヤは、そのとき主なる神御自身が、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒をすべての民に振る舞ってくださると預言していたのです。そして、その方こそ、わたしたちの神、わたしたちを救ってくださる主であると預言していたのであります。このイザヤの預言を念頭において、今朝の御言葉を読むならば、イエスさまが、飲みきれないほどの極上のぶどう酒を振る舞われたことの意味が分かってきます。イエスさまは、120リットル以上はいる水がめを6つとも一杯にさせ、飲みきれないほどの極上のぶどう酒を振る舞われました。それは「ぜいたくな奇跡」ではなくて、イエスさまこそが、イザヤが預言していた私たちの神であり、待ち望んでいた主であることを指し示しているのです。それゆえ、水をぶどう酒に変えるという奇跡は、イエスの栄光を現す「最初のしるし」なのです。
また、このイザヤ書の預言の言葉を念頭に置くとき、イエスさまが母マリアに言った言葉、「わたしの時はまだ来ていません」という言葉も深い意味を持っていることが分かります。ヨハネによる福音書において、イエスさまにての「わたしの時」とは、何よりイエスさまが十字架にあげられる時のことであります(7:30、17:1)。ですから、「わたしの時はまだ来ていません」。このイエスさまの言葉は、ぶどう酒がなくなったことに対処する時を指すと同時に、もう一つ、主イエスが十字架に上げられる時という深い意味を持っているのです。そして、その時にこそ、イザヤが預言していた天の祝福が実現するのです。死を永久に滅ぼしてくださるという命の勝利が、死から復活されたイエスさまによって宣言され、えり抜きのぶどう酒が聖餐式においてすべての民に振る舞われるのです。その先取りとして、イエスさまは、カナの婚礼において飲みきれないほどの極上のぶどう酒を振る舞ってくださったのであります。カナの婚礼の喜びを、主イエスの十字架が支えてくださっている。カナの婚礼だけではありません。私たちがあずかるすべての喜びの根底に、主イエスの十字架が立っているのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
この説教の初めに、福音書記者ヨハネが第1章19節から第2章11節までを7日に渡る出来事として記しており、今朝の御言葉はその7日目にあたると申しました。この7日間、一週間がどのような一週間であったかと言えば、ひとことで言って「イエスを証しする一週間であった」と言うことができます。これまで洗礼者ヨハネの証しがあり、アンデレやフィリポやナタナエルといった弟子たちの証しが記されておりました。そして、最後の7日目において、主イエス御自身の証しが記されているのです。イエスさまが、極上のぶどう酒を振る舞われるということにより、御自分こそが、イザヤが預言していた「えり抜きの酒を饗される救い主」であることを証しされたのです。このカナの婚礼における奇跡において、イエスさまについての証しが最高潮に達するのです。
イエスさまは、ガリラヤのカナにおいて、その栄光を現してくださいました。そして今も、主の日の礼拝において、御自身の栄光を現してくださるのです。今朝は残念ながら、聖餐の恵みにあずかりませんけども、私たちは主の日の礼拝において、イエスさまの御栄光を仰ぐことができるのです。そのようにして、イエスさまは今も信じる者たちを起こし、私たちの信仰を深め、確かなものとしてくださるのです。