神の愛 2009年2月08日(日曜 朝の礼拝)

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神の愛

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ホセア書 11章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
11:2 わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。
11:3 エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。
11:4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
11:5 彼らはエジプトの地に帰ることもできず/アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
11:6 剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち/たくらみのゆえに滅ぼす。
11:7 わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。
11:8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。
11:9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
11:10 獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき/その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。
11:11 彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。ホセア書 11章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、初めての方をお招きしての礼拝であります。その礼拝の御言葉としてお読みいただきましたのが、旧約聖書にあるホセア書の第11章であります。今朝はなるべくテキストに則してお話ししたいと考えていますが、はじめに、ホセア書がいつ、どこで記されたのかを見ておきたいと思います。ホセア書の第1章1節にこう記されております。

 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。

 この書物は、ホセアによって記されたゆえに、ホセア書と言われます。しかし、それはホセアという人の意志に基づいて語られたものではなく、聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものなのです。主の言葉が臨んだとありますように、ホセアは主の言葉をお預かりした者、預言者として語っているのです。ホセアが活動した時代が、統治していた王の名前によって示されていますが、これは西暦で言えば、紀元前8世紀にあたります。また、ホセアはおもに北王国イスラエルに対して預言しました。聖書の巻末に、聖書地図がありますが、その「5南北王国時代」を開いていただくと、北王国イスラエルがどこにあるのかを確認することができます。このようにホセアは、紀元前8世紀の北王国イスラエルを舞台として、活躍した預言者であったのです。

 前置きはこの辺にしまして、さっそく今朝の御言葉、第11章の御言葉を見ていきたいと思います。

 このところは、小見出しにもありますように、「神の愛」について記されています。 1節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とありますように、親子の愛になぞらえて神さまの愛が語られています。「イスラエル」とは、神の民の名称であり、特にここでは北王国イスラエルを指しております。国を一つの人格として、ホセアはこの所を記しているわけです。「エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とありますが、これはエジプトにおける奴隷状態からの解放の出来事、いわゆる出エジプトを指しています。そのエジプトから導き出される前のイスラエルの民を、ホセアは「まだ幼かったイスラエル」と呼んでいるのです。その幼い、よちよち歩きもまだできない。赤子のようなイスラエルを、神さまは愛されたというのであります。そして、わが子とするために、エジプトで奴隷とされていたイスラエルを、モーセを通して導き出されたのです。わが子であったから導き出されたのではありません。わが子とするために導き出されたのです。神さまはイスラエルを御自分の長子とされ、シナイ山において契約を結び、律法を与えられたのでありました。そして、40年に渡って荒れ野を導き、乳と蜜の流れる地カナンを賜物としてお与えになられたのです。 しかし、そこで思わぬことが起きるのです。 2節をお読みします。

 わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。

 荒れ野から乳と蜜の流れる地カナンヘと入ると、イスラエルは、主なる神のもとを去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたくようになりました。バアルとは、その土地で信じられていた神で、農耕の神でありました。それは偶像と言い換えられているように、空しい偽りの神であります。聖書において、生けるまことの神は、天地万物を創造し、イスラエルをエジプトの地から導き上った主なる神お一人であります。そのことを、イスラエルの民は、エジプトからの脱出の出来事を通して、また荒れ野の40年間の歩みを通して知らされたはずでありました。けれども、彼らはいざ約束の地カナンに入ると、主なる神から離れ去り、その土地の人々が信じていた偽りの神バアルに犠牲をささげるようになったというのです。主なる神が、イスラエルをエジプトから導き出されて、御自分の子とするために結ばれた契約の中心は、十戒でありますけども、そこにはこう記されています(序文、第一戒、第二戒)。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造つてはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形をも造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。

 このように、イスラエルは禁じられていたにも関わらず、主なる神から去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいていたのです。これは、明らかに契約違反であり、裏切りであり、罪でありました。 しかし、主なる神は、成長したイスラエルの姿に、かつてのまだ幼かったイスラエルの姿を重ねて見つめられるのです。親が中学生、高校生、さらに社会人となった子供の姿の中に、まだ幼かった頃の面影を見出すように、主なる神は自分のもとから去っていき、罪を重ねるイスラエルの姿に、かつての幼かった頃の面影を見出すのです。 3節、4節をお読みします。

 エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。

 エフライムとは、イスラエルの国の中心をなす民族の名前でありますが、イスラエルの別名と考えていただければよいと思います。「エフライムの腕を支えて/歩くこと教えたのは、わたしだ」。この言葉は、文字通り父親が、幼い子供の手をとって歩かせている姿を想像させるものでありますが、イスラエルの歩んだ歴史的な文脈に則して解釈しますと、「荒れ野の旅を導き、どのように生きるべきかを律法を通して教えたのは、わたしだ」と読むことができます。また、「わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった」とありますが、この癒しは、けがや病気の癒しに限られず、「あらゆる危機からの救い」を意味していると読むことができます。そして、このことは、イスラエルが約束の地カナンに入り、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたくようになってからも変わることはなかったのです。イスラエルの民は、けがや病の癒しを、さらには危機からの救いを、偽りの神であるバアルに願い求めた。そして、癒しや救いが与えられると、バアルに犠牲をささげ感謝を表したのです。けれども、主なる神は、「彼らを癒したのは、わたしだ」と言われるのであります。このことは、私たち日本人にも言えることではないかと思います。私たち日本人も病の癒しやさまざまな危機からの救いを求めて、様々な神々のもとへとお願いに行くのであります。そして、その願いが叶うと、御利益があるとありがたがるのです。けれども、そのような私たち日本人にも、主なる神は「しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった」と言われるのです。

 主なる神は、荒れ野において、イスラエルの民をどのようにして導いたのか。主なる神は、その全能の御力をもつて、脅すようにして、イスラエルを導いたのではありません。主なる神は、人間の綱、愛のきずなで彼らを導かれたのです。神さまと人を結びつけるきずな、それは愛であるというのです。神さまがまず、イスラエルの民を愛されて、契約を結び、わが子とされた。そして、愛をもって、彼らを乳と蜜の流れる地カナンヘと導かれたのです。「彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた」。ここでは、イスラエルが子牛に例えられ、主なる神がその主人に例えられています。軛は奴隷であることの象徴でありますから、その軛を取り去ることによって、ここでも主なる神が奴隷の家エジプトからイスラエルの民を導き出されたことが暗示されていると読むことができます。そして、主なる神は、そのイスラエルのために、身をかがめて食べ物を与えられるのです。私たちは、ここに人に愛をもって仕えてくださる神の御姿を見ることができるのです。

 5節から7節までをお読みします。

 彼らはエジプトの地に帰ることもできず/アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち/たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かつて叫んでも/助け起こされることは決してない。

 このところは、これまでとは少し様子が違いまして、主なる神に背き続けるイスラエルヘの裁きの言葉が記されています。しかし、私たちは、この裁きが、神の愛の裏返しであることを忘れてはなりません。主なる神は熱情の神、ねたむ神でありまして、イスラエルを愛するがゆえに刑罰を与え、御自分のもとに立ち帰ることを求められるのです。また、神の裁き、神の刑罰は、主なる神とイスラエルの間に結ばれた契約によるものと言えます。4節で、「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き」とありますが、この「愛のきずな」とは、具体的に言えば、「契約」を指しています。「愛のきずなが契約である」と聞きますと、どこかピンと来ないかも知れませんが、このことは結婚のことを考えればお分かりいただけると思います。人間関係における最も親密な愛の交わりは、夫と妻との結婚関係でありますが、その結婚も一つの契約であることを思い起こすならば、愛のきずなの具体的な現れが契約であることがお分かりいただけると思うのです。契約とは、最も深い愛の交わりを実現するための手段であると言えるのです。神さまは、エジプトから呼び出したイスラエルと、シナイ山で契約を結び、わが子とされた。イスラエルを御自分の宝の民とされた。イスラエルは、一方的な恵みによって神さまから愛され、大いなる祝福を受け継ぐ民とされたのです。しかし、その契約には、イスラエルが、神さまを裏切ったとき、その罪に対する呪いも宣言されておりました。そして、ホセアが預言した時代、まさにイスラエルは主なる神のもとから去って行き、偽りの空しい神々に犠牲をささげていたのです。先程、主なる神とイスラエルとの関係を、結婚関係に例えましたけども、イスラエルの民は、言わば主なる神という夫に愛されていながら、他の夫と不倫の関係を続けていたのです。もし結婚関係にある伴侶が、不倫の関係を持ち続けているとしたら、私たちはどうするでしょうか.そのような人と、結婚生活を続けていくことができるでしょうか。主なる神が置かれている状況は、まさしくそういう状況であったのです。主なる神は、御自分に立ち帰ることを拒み続けるイスラエルをどのように罰せられるのか。それは、当時の大国、アッシリア帝国を通してであります。約束の地カナンに入る前に改めて結ばれた契約の書、申命記の第28章にこう記されておりましたと申命記の第28章49節から51節までをお読みいたします。

 主は遠くの地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる。その民は尊大で、老人を顧みず、幼い子を憐れまず、家畜の産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにあなたは死に絶える。あなたのために穀物も新しいぶどう酒もオリーブ油も、牛の子も羊の子も、何一つ残さず、ついにあなたを滅ぼす。

 主なる神は、御自分に背き続けるイスラエルを罰するために、アッシリア帝国をお用いになるのです。6節の「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者たちを断ち/たくらみのゆえに滅ぼす」という言葉は、アッシリア帝国によって現実のものとなるのです。主なる神にかたくなに背き続けるイスラエル、バアルに犠牲をささげ、エジプトと同盟を結び難局を乗り切ろうとするイスラエルが、天に向かって叫んでも、主なる神がイスラエルを助け起こす義理など何一つないのです。けれども、8節、9節に、驚くべき神さまの胸の内が語られるのです。

 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ばすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもつて臨みはしない。

 ここに「アドマ」や「ツェボイム」とありますが、これはソドムやゴモラと共に、神によって滅ぼされた町でありました。創世記の第19章24節、25節に「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした」とありますが、この低地一帯に、アドマやツェボイムがあったと考えられるのです。また、アドマやツェボイムについては、申命記の第29章にも出てきます。申命記第29章21節から27節までをお読みします。

 後の世代、あなたたちの後に来る子孫も遠くの地から来る外国人も、主がこの国にくだされた災害と病を見て言うであろう。また、全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は蒔かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムの惨状と同じなので、国々の民はこぞって言うであろう。「なぜ主は、この国にこのようなことをなさったのか。どうしてこのように激しい怒りを燃やされたのか。」それに対して、人々は言うであろう。「彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出されたとき結ばれた契約を、彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたことのない神々にひれ伏したからである。主の怒りはそれゆえ、この国に向かつて燃え、この書に記されている呪いがことごとく臨んだのである。主は激しい怒りと大いなる憤りをもつて彼らを大地から抜き取り、他国に投げ捨てられ今日のようにされた。

 ここに記されているのは、イスラエルが主なる神との契約を捨て、他の神々に仕えるときに臨む呪いについてです。主なる神との契約を捨て、他の神々に仕えるならば、あなたたちはアドマやツェボイムのように滅ぼされる。そのように主なる神は、契約を結ぶにあたって、前もって警告されていたのです。ですから、イスラエルが主なる神との契約を捨て、バアルや偶像に仕えている今、主なる神は、イスラエルをアドマやツェボイムのように、滅ぼしたとしても主なる神には何の不義もなかった。むしろ、主なる神とイスラエルとの間に結ばれた契約によれば、それが当然であったのです。けれども、主なる神は、それができないと言うのです。主なる神は、「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と言うのであります。なぜ、主なる神は、イスラエルを滅ぼすことができないのか。その理由として、主なる神は、「なぜなら、わたしは神であり、人間ではないからだ」と仰せになるのです。私たち人間同士が契約を結ぶとき、相手が契約に対して不誠実であるならば、その契約は無効なものと考えます。相手が契約に誠実ではないのだから、こちらも契約に誠実である必要はないと考える。今一度結婚の例えを用いるならば、配偶者が、誰かと不倫の関係を持つならば、その結婚関係を解消しても当然であると考えるのです。けれども、主なる神は、それができない。ここにあるのは、罪人を求めてやまない主なる神の熱情であります。その主なる神の熱情が、罪人を救うために、独り子イエス・キリストをこの地上に遣わされるのです。

 新約聖書のマタイによる福音書は、 1節の「エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」という預言は、幼子であるイエス・キリストにおいて実現したと語っています。マタイによる福音書の第2章13節から15節までをお読みします。

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトを去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 福音書記者マタイは、幼子であるイエスさまが、ヘロデ大王の手を逃れて、エジプトヘ降ったのは、ホセア書に記されている「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という主の預言が実現するためであったと記しています。このことは、イエス・キリストこそ、永遠の神の御子であることを。よってイエス・キリストを信じる者たちこそ、神の民イスラエルであることを教えています。罪人を求めてやまない神の愛は、イエス・キリストにおいて、特にイエス・キリストの十字架において、鮮やかに示されました。主なる神は、「怒りをもって臨みはしない」と仰せになりましたけども、それは御子イエス・キリストに、御自分の怒りを注がれることをよしとされていたからです。イエス・キリストは、何の罪もないお方でありながら、全人類の罪に対する神の怒りを、十字架においてあますところなく受けてくださいました。そのようにして、神さまは、罪に汚れた私たちをも聖なる者としてくださるのです。私たちをも、神の子としてくださるのです。激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる神の愛は、イエス・キリストを通して、今も私たちに注がれているのであります。

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