何を求めているのか 2009年2月22日(日曜 朝の礼拝)

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何を求めているのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章35節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。ヨハネによる福音書 1章35節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネからカナの婚礼におけるイエスさまの最初の奇跡までを七日間の出来事として記していると申しました。今朝の御言葉、第1章35節から42節までに、第三の日と第四の日の二日に渡る出来事が記されておりますけども、35節から39節までに第三の日の出来事が記されており、40節から42節までが第四の日の出来事が記されています。39節の後半に、「そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」とありますが、この記述から40節から42節までは、その翌日、つまり第四の日の出来事であることが分かるのです。そして、その1日の移り変わりに、大きな変化が起こったことを福音書記者ヨハネは記しているのです。その大きな変化とは、ヨハネの弟子たちがイエスさまの弟子たちとなったということであります。今朝の御言葉に「最初の弟子たち」と小見出しが付けられておりますけども、これは「イエスさまの最初の弟子たち」ということであります。ヨハネによる福音書は、イエスさまの最初の弟子たちが、もともとは洗礼者ヨハネの弟子たちであったと記すのです。これは、共観福音書には記されていないことであります。ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書とは異なった視点で記されていることは、前に申し上げましたが、そのことは、最初の弟子たちの召命においても言うことができるのです。今朝は、第三の日の出来事を中心にお話しをし、第四の日の出来事については、次週にお話ししたいと思います。

 35節から37節までをお読みします。

 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

 洗礼者ヨハネと一緒にいた二人の弟子が誰であったのか。そのうちの一人については、40節にこう記されています。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」。よって、二人のうちの一人がアンデレであったことが分かります。しかし、もう一人については何も記されてはおりません。けれども、多くの学者たちは、このもう一人の弟子を、「主の愛しておられた弟子」、つまり、この福音書を記したゼベタイの子ヨハネではないかと考えております。また、わたしもそのように思います。洗礼者ヨハネは、二人の弟子、アンデレとヨハネと一緒にいたのでありました。そして、洗礼者ヨハネは、歩いておられるイエスさまを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と証しをしたのです。「神の小羊」。これは前回も申し上げましたように、メシア称号の一つであります。ユダヤの黙示思想において、この世の悪に勝利する救い主が「神の小羊」と呼ばれていたのです。ですから、このとき、ヨハネは、イエスさまを指差して、「あの方こそ、救い主、メシアである」と証ししたのです。「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉は、「見よ、あの方こそ、救い主、メシアである」と言い換えられるのです。それゆえ、このヨハネの言葉を聞いた二人の弟子は、イエスさまに従ったのです。ここで「イエスに従った」とありますが、これはただイエスさまの後をついて行ったというだけではなくて、弟子として従ったという意味を持っております。ヨハネに従っていた二人の弟子が、ここですでにイエスさまに従う弟子となったのです。こう聴いて、少し節操がないのではないかと思う方もおられるかも知れません。ヨハネの弟子であったのに、そんなに簡単にイエスさまに従ってもよいのだろうか。こう思う方もおられると思います。けれども、私たちは、そのことを誰よりも望んでいたのが、洗礼者ヨハネであったことを見落としてはなりません。洗礼者ヨハネ自身が、イエスさまを指差して「あの方こそ、神の小羊。あの方こそ、従うべきお方」と弟子たちを促したのです。そして、その洗礼者ヨハネの証しを受けて、二人の弟子たちはイエスさまの弟子となったのです。二人の弟子たちがイエスさまに従ったのは、洗礼者ヨハネに見切りを付けたとか、そんなことではありません。むしろ、洗礼者ヨハネを先生として重んじているからこそ、そのヨハネの証しを受け入れて、イエスさまに従ったのであります。そして、このことを誰よりも洗礼者ヨハネが喜んでいたのです。二人の弟子たちが、自分のもとを離れて、イエスさまに従って行く姿を見ながら、洗礼者ヨハネは喜びに溢れていたのです。

 38節、39節をお読みします。

 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ -『先生』という意味- どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

 二人の弟子たちは、洗礼者ヨハネの証しを受けて、イエスさまに従ったのでありますが、ここで主導権、イニシアチブをとっておられるのは、イエスさまであります。イエスさまが振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めておられるのか」と声をかけてくださったのです。「何を求めているのか」。これが、ヨハネによる福音書が記す、イエスさまの発せられた最初の言葉であります。マルコによる福音書は、イエスさまの最初の御言葉として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を記しておりますけども、ヨハネによる福音書は、イエスさまの最初の御言葉として、「何を求めているのか」という言葉を記しているのです。「何を求めているのか」。これは、今朝、私たち一人一人に問われていることでもあります。自分がはじめてキリスト教会の礼拝に出席したことを思い起こす方もおられるでしょう。自分は何を求めて、教会を訪れたのか。わたし自身のことを申し上げて、恐縮でありますが、わたしがはじめて礼拝に出席したのは、二十歳のころでありました。そのとき、ある方に「どうして、教会に来たの?」と不思議そうに尋ねられて当惑したことを今も覚えております。何を求めて、キリスト教会の礼拝に出席したのか。また、この問いは、過去だけに向けられているものではありません。現在の私たち、今朝ここに集っている私たちに問われている問いでもあるのです。あなたは、何を求めて、今朝このところに来たのか。このように礼拝をささげている私たち一人一人にも、主イエスは、「何を求めているのか」と問うておられるのです。

 「何を求めているのか」。この問いに対して、二人の弟子は直接答えず、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と問い返しました。「ラビ」。これは「先生という意味」と説明されておりますように、ユダヤ人が学識ある教師を呼ぶ際の敬称でありました。彼らは、洗礼者ヨハネの、「あの方こそ、神の小羊、救い主である」との証しを聞いて、イエスさまに従ったのでありますが、ここで彼らはイエスさまを、偉大な教師、ラビと呼びかけるのです。このことは、彼らがまだ、イエスさまを救い主、メシアであると信じていなかったことを表しています。この時の二人の弟子の気持ちは、自分が初めて教会を訪れたことを思い起こすならばよく分かると思います。おそらく、初めて教会を訪れる人の中で、はじめから、イエスさまを救い主と信じて来る人はいないと思います。イエス・キリストを偉大な宗教家の一人、偉大な思想家の一人とは考えていても、初めから、イエスさまを救い主と信じて、教会を訪れる人はいないわけです。そのように、二人の弟子たちも、イエスさまと最初に出会ったとき、イエスさまのことを、偉大な先生、ラビと呼んだのであります。そして、彼らは、「どこに泊まっておられるのですか」と問うたのです。これは、彼らがイエスさまとのさらなる交わりを求めている意思表示であります。イエスさまの住んでいる場所を知りたいというだけではなくて、そこに自分も行っておじゃましたい、膝と膝を交えて、親しく教えを乞いたいという意味です。すると、イエスさまは、「来なさい。そうすれば分かる」と仰いました。ここで「分かる」と訳されている言葉は、「見る」とも訳すことのできる言葉です。そして、彼らはついて行って、どこにイエスさまが泊まっておられるかを「見た」のです。「泊まっておられるかを見た」。この「見た」は、「来なさい。そうすれば分かる」の「分かる」と元の言葉では同じ言葉であります。弟子たちが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と問うと、イエスさまは、「来なさい。そうすれば見るであろう」と言われました。そして、彼らはついて行って、どこにイエスさまが泊まっておられるかを見たのです。そしてその日、イエスさまのもとに泊まったのであります。少しお話しをして、自分の家へ帰って行ったというのではなくて、イエスさまのもとに泊まったのです。「午後四時ごろのことであった」とありますけども、これは、日没の二時間前にあたると言われています。ですから、もう日が暮れそうであったから、イエスさまのもとに泊まったと、その理由が記されているとも考えることができます。あるいは、ここに時間が記されていることは、この福音書記者ヨハネ、つまりイエスに従った弟子の一人であるヨハネにとって、忘れがたい決定的な出来事であったと考えられるのです。ここで、第三の日の出来事の記述が終わり、40節から42節までに、第四の日の出来事が記されているのでありますが、イエスさまのもとに泊まった一晩を通して、大きな変化が起こったことが分かります。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人、アンデレは、兄弟シモンを見出して、「わたしたちはメシア -『油を注がれた者』という意味- に出会った」と証ししたのです。イエスさまがどこに泊まっておられるのかをまだ見ず、イエスさまのもとに泊まる前、アンデレは、イエスさまを、偉大な教師、ラビと考えておりました。けれども、イエスさまがどこに泊まっておられるのかを見、イエスさまのもとに泊まった今、アンデレはイエスさまをメシア、救い主と呼び、兄弟シモンに証しをする者となったのです。洗礼者ヨハネの言葉を用いるならば、二人の弟子も、イエスさまを指差して、「見よ、神の小羊」と証しするものと変えられたのであります。ラビと呼んでいた方を、メシアとして宣べ伝える、この変わりよう。これが今朝の御言葉に記されている大いなる変化であります。なぜ、イエスさまを「ラビ」と呼んでいた二人の弟子が、イエスさまを「メシア」と呼び、証しする者と変えられたのか。私たちは、二人の弟子たちがイエスさまのもとに泊まったとき、イエスさまからいろいろなお話しを聞いてそのような確信を与えられたのだろうと想像するのでありますけども、その晩、イエスさまと二人の弟子たちがどのような会話をされたかについては、福音書記者ヨハネは一切記しておりません。むしろ、福音書記者ヨハネが、その答えとして記しているのは、弟子たちが、イエスさまがどこに泊まっておられるのかを見た。そしてその日は、イエスさまのもとに泊まったという事実であります。イエスさまがどこに泊まっておられるのかを見て、そしてイエスさまのもとに泊まった。それゆえに、イエスさまをラビと呼んでいた弟子たちが、イエスさまをメシアであると告白し、証しする者と変えられたのです。ここで鍵となる言葉は、「泊まる」と訳されている言葉です。ここで「泊まる」と訳されている言葉は、「留まる」とも「つながる」とも訳される言葉であります。ですから、岩波書店の翻訳聖書を見ますと、「泊まる」という言葉ではなくて、「留まる」という言葉が訳語として用いられています。弟子たちは、「ラビ、どこに留まっておられますか」と問い、彼らはついて行って、イエスさまがどこに留まっているのかを見て、その日はイエスさまのもとに留まったのです。ヨハネによる福音書の一つの特徴は、一つの言葉に二つの意味を持たせて記すということであります。一つの言葉に、表面上の意味とその裏側にある深い意味を持たせるという文学的技法を福音書記者ヨハネは好んで用いているのです。ここでもそうでありまして、ヨハネは、弟子たちの「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」という言葉の裏側に、「ラビ、あなたはだれのうちに留まっているのですか」というもう一つの深い意味を持たせているのであります。イエスさまは第14章10節で、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」と仰っています。この最後のところに「わたしのうちにおられる父が」とありますが、これは「わたしのうちに留まっている父」とも訳すことができます。ここに、今朝の御言葉で「泊まる」と訳されている言葉が用いられているのです。ですから、福音書記者ヨハネが、二人の弟子たちがイエスさまがどこに泊まっておられるかを見たと言うとき、それはただ場所のことだけを言っているのではなくて、イエスさまが父なる神のもとに留まっておられるのを見たということを言っているのであります。また、弟子たちがイエスさまのもとに泊まったというとき、それはただ宿を共にしたというだけではなくて、弟子たちがイエスさまとの霊的な交わり、人格的な交わりに生きる者となったということを表しているのです。ここで思い起こすべきは、第15章に記されている「ぶどうの木のたとえ」であります。そこでイエスさまは、御自分をぶどうの木に例えて、弟子たちにこう仰せになりました。第15章の4節、5節をお読みします。

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 ここで、「つながっている」と訳されている言葉は、今朝の御言葉で「泊まる」と訳されているのと同じ言葉であります。先程、岩波書店から出ている翻訳聖書は、「泊まる」を「留まる」と訳していると申しましたが、この第15章の「つながる」も同じ「留まる」という言葉で訳出しています。「わたしのうちに留まりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたのうちに留まる」。このように訳しているのです。そうであれば、「二人の弟子たちがイエスさまのもとに泊まった」という言葉は、文字通りの意味ばかりではなくて、弟子たちがイエスさまと人格的に結び合わされた。枝がぶどうの木とつながるように、生命的な交わりにおいて、イエスさまにとどまる者となったということを意味しているのです。ですから、今朝の御言葉は、イエスさまのもとに泊まることのできた弟子たちは何と幸いであったろうということだけでは終わりません。むしろ、ここに私たちがイエスさまを救い主と告白する道筋が記されているのです。イエスさまを偉大な宗教家の一人としてしか見ていなかった者が、自分の口で「わたしたちはメシアに出会った」と証しするまでの道筋が記されているのであります。今すでに、イエスさまをメシア、救い主と告白する者たちにとっては、ここに、自分自身の歩んできた道筋が記されているのです。

 イエスさまは、自分のあと後について来る弟子たちに「何を求めているのか」と問われました。私たちは、何を求めて教会を訪れたのでしょうか。そのことは、人それぞれに違うと思いますけども、共通している一つのことは、自分の必要を満たしてもらえるのではないかと期待して教会を訪れたということです。誤解を恐れずに言えば、それぞれに何らかの御利益を求めて教会を訪れたのです。御利益を求めて、教会に来たと聞けば、そんなのは不純だと思うかも知れません。けれども、はじめて教会を訪れる人が求めているものは、正直なところ自分の利益なのです。神の栄光を現すために、礼拝をささげるという新来会者はまずいないのであります。けれども、イエスさまは、そのことを否定なされない。自分の利益を満たそうとして、わたしのあとに従うことは不純だなどといって、その人を追い出そうとはされないのです。むしろ、イエスさまの方から「何を求めているのか」とやさしく尋ねてくださる。イエスさまを救い主と信じて洗礼を受けた今、自分が何を求めて教会を訪ねたのかよく思い出せないことがあると思います。あるいは、小さな頃から両親に教会に連れて来られていた契約の子が、自発的に礼拝に参加するようになったとき、自分が何を求めていたのか思い出せないことがあると思います。それは、実は、私たち自身が本当のところで自分が何を求めているのかが分からなかったからだと思います。イエスさまは、「何を求めているのか」という言葉に続けて、「来なさい。そうすれば分かる」と仰いました。これは、「何を求めているのかが、わたしに従ってくれば分かる」とも読むことができます。私たちは、今朝も日曜日を主の日として礼拝をささげております。その私たちに、主イエスが「何を求めているのか」と問われるとき、私たちは何と答えるでしょうか。おそらく、私たちはこう答えるのではないでしょうか。「イエスさま。わたしたちは、あなた御自身を求めます」と。未信者の方が最初に教会を訪れたとき、また契約の子が自発的に礼拝を守るようになったとき、それは、悩みや困難からの解放を求めてのことであったかも知れません。あるいは、病の癒しや、自分の願いの実現のためであったかも知れません。それはそれでよいのです。けれども、イエスさまのうちに父なる神が留まっていると信じ、イエスさまもとにつながって生きている今となっては、その一つ一つの利益よりも、神そのもの、イエスさまそのものを求めるようになるのです。なぜなら、この方のうちに、すべての答えとすべての救いがあるからであります。

 私たちは、なぜ、週ごとに礼拝をささげているのでしょうか。いろいろなことが言えるでしょう。聖書を学ぶため。自分の信仰の成長のため。そのようにも言えると思います。しかし、もっと根本的に言えば、生ける神の臨在に触れるためであります。礼拝を通して、神の臨在に触れる。語られる説教を通して、生ける神の言葉を聞くために、私たちは礼拝に集っているのです。私たちに「何を求めているのか」と問い、「来なさい。そうすれば分かる」と仰るイエスさまが、私たちが本当に求めるべきものを教えてくださる。「あなたたちが求めるべきもの、それは神の小羊であるわたしである」と、イエスさまは仰せになるのです。

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