見よ、神の小羊 2009年2月15日(日曜 朝の礼拝)

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見よ、神の小羊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章29節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネによる福音書 1章29節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 先週は、特別伝道礼拝として、ホセア書の御言葉に聴きましたけども、今朝から再びヨハネによる福音書を御一緒に読み進めていきたいと思います。先程は、第1章29節から34節までをお読みいただきましたが、この所は洗礼者ヨハネの証しの第2日目であります。29節に「その翌日」とあり、35節にも「その翌日」とありますように、福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネの活動を3日に渡って記しているのです。これは洗礼者ヨハネの証しが文字通り3日間だけのことであったというよりも、福音書記者ヨハネが3日間に凝縮して記していると考えることができます。といいますのも、福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネの証しからカナの婚礼におけるイエスさまの最初の奇跡までを七日間の出来事として記しているからです。先程も見ましたように、29節に「その翌日」とあり、35節にも「その翌日」とあります。またさらに、43節に「その翌日」とあり、第2章1節に「三日目に」と記されているのです。ですから、第1章19節から28節までが第一の日であり、29節から34節までが第二の日であり、35節から42節までが第三の日と第四の日であり、43節から51節までが第五の日であり、第2章1節から11節までが、第五の日から三日目ですから、第七の日にあたるのです。このように、福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネの証しからカナの婚礼におけるイエスさまの最初の奇跡までを、七日間の出来事として記しているのです。福音書記者ヨハネは、この福音書を「初めに言があった」と創世記の冒頭を思い起こさせる言葉で記しておりましたけども、ここでは、世界が造られた七日間を思い起こさせようとしているのではないかと思います。創世記に、神さまが七日に渡ってこの世界をお造りになられたことが記されておりますけども、福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネの証しからカナの婚礼におけるイエスさまの最初の奇跡までを、天地創造の七日間に匹敵する出来事として記しているのです(厳密には六日間)。「言が肉となった」というイエス・キリストの出来事は、天地創造に匹敵する新しい創造であると言えるのです。

 これまで何度か申し上げてきたことですが、ヨハネによる福音書には、「洗礼者ヨハネ」という呼び名は出てきません。わたしは福音書を記した使徒ヨハネと区別するために、洗礼者ヨハネという呼び名を便宜上用いますけども、この福音書において、ヨハネの働きは、もっぱらイエスさまについて証しをすることであります。しかし、今朝の御言葉を読んで気が付くことは、このところは、共観福音書に記されているイエスさまがヨハネから洗礼を受けられたことを前提としているということです。おそらく福音書記者ヨハネも、読者がそのことを知っていることを前提として、この所を記しているのだと思います。ですから、今朝の御言葉を詳しく見ていく前に、その前提である共観福音書の記事を御一緒に読んでおきたいと思います。最も早く記されたと考えられるマルコによる福音書の第1章9節から11節までをお読みします。

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 このマルコによる福音書の記述を念頭に置きながら、今朝の御言葉を御一緒に見ていきたいと思います。

 では、ヨハネによる福音書に戻ります。

 わたしは、今、今朝の御言葉は、マルコによる福音書の記述を前提としていると申しましたけども、そのように考えることのできる根拠をお話ししたいと思います。たとえば、32節で、ヨハネは「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とありますが、これはマルコによる福音書の記述を思い起こさせる言葉です。マルコによる福音書では、イエスさま御自身が、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になった」のでありますが、ヨハネによる福音書では、洗礼者ヨハネがそれを見るのです。また、34節で「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と洗礼者ヨハネは言っておりますが、これは、イエスさまに対する天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を背景としていると考えることができます。洗礼者ヨハネがこの天からの声を聴いたのかどうかは分かりませんけども、天からの「あなたは私の愛する子」という声に対応するように、地において、洗礼者ヨハネは、「この方こそ神の子であると証しした」のでありました。このように、今朝の御言葉は、イエスさまがヨハネから洗礼を受けられたことを読者が知っていることを前提としていると考えられるのです。また、それだけではなく、今朝の御言葉は、イエスさまがすでにヨハネから洗礼を受けたことをも前提としていると考えることができます。わたしが今朝の説教を準備するにあたって不思議でならなかった一つのことは、洗礼者ヨハネが自分の方へ近寄ってきたイエスさまを見て、なぜ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言うことができたかということでありました。31節に「わたしはこの方を知らなかった」とあり、また33節にも「わたしはこの方を知らなかった」とあります。ヨハネが知らなかった方を、どうして知ることができたかと言えば、それは「霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」からであったのです。そうであれば、29節で、ヨハネが自分の方へ近付いてくるイエスさまを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶことができたのは、このとき、すでにイエスさまがヨハネから洗礼を受けられていたからであることが分かるのです。わたしは、はじめ、この第二の日にイエスさまがヨハネから洗礼を受けられたと考えておりました。それは共観福音書の記述を思い起こさせる言葉がこの所に多く記されているからです。けれども、そうであれば、近付いて来られるイエスさまに対して、ヨハネは「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶことはできなかったはずです。ヨハネは、天から霊が鳩のように降り、この方に留まるのを見るまでは、この方を知らなかったのですから、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶことはできなかったはずであります。しかし、イエスさまが第一の日にヨハネから洗礼を受けたのなら、話しは別です。28節に、「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」とありますけども、イエスさまは、この時、すでにヨハネから洗礼を受けていたと考えられるのです。

 ヨハネの証しの第一の日は、エルサレムのユダヤ人、最高法院から遣わされた者たちからの尋問でありましたけども、そこでヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と申しました。これは、生まれついての人間の知恵や能力では知ることのできないお方、ただ聖霊の示しによって知りうることのできるお方という意味であります。そして、このことは洗礼者ヨハネにおいても同じであったのです。ヨハネも31節、33節で繰り返し言っておりますように、この方を知らなかった。ヨハネは、「自分の後から自分よりも優れた、自分よりも先におられたお方が来られる」ことは知っておりましたけども、それが誰であるかは知らなかったのです。このように、ヨハネによる福音書の描くイエスさまは、まさに神秘的な、秘められたお方であるのです。イエスさまが救い主であられることはただ聖霊の示しによって知ることのできるお方なのであります。そして、まさにヨハネは、その聖霊の示しによって、イエスさまこそ「わたしの後から来られる方である」ことを知ったのです。ここで、福音書記者ヨハネが何を言いたいかと申しますと、永遠の神の御子は、見分けがつかないほどに私たちと同じ人となってくださったということであります。この点は、マタイによる福音書の記述と大きく異なるところであります。マタイによる福音書を見ますと、洗礼者ヨハネは、自分から洗礼を受けようとするイエスさまを思いとどまらせようとしてこう言うのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。マタイによる福音書の描く洗礼者ヨハネは、イエスさまに洗礼を授ける前に、この方こそ、わたしより優れておられるお方であると見抜くのです。そして、「むしろ、わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきである」と言うのであります。けれども、ヨハネによる福音書の描く洗礼者ヨハネは、この方をまったく知らない。知らないで、洗礼を授けて、その後で、聖霊の示しによって、この方が「わたしよりも優れたお方、わたしより先におられたお方」であることを知るのです。福音書記者ヨハネは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記しましたけども、神の永遠の御子は、見分けがつかないほどに、私たち人間と同じ卑しい姿になってくださったのです。そして、悔い改めを必要とする罪人の一人として、イエスさまはヨハネから水の洗礼をお受けになられたのです。聖書の教えるところによれば、イエス・キリストには生まれながらの罪はなく、その生涯においても何一つ罪を犯しませんでした。そのお方が、なぜ、罪人たちにまみれて、罪人たちと一緒に、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられたのか。このことはまことに不思議なことでありますけども、その答えが29節に記されております。

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 ヨハネは、自分に近づいて来られるイエスさまを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と申しました。ここでイエスさまが「神の小羊」と呼ばれています。また、36節でも、ヨハネはイエスさまを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言ったと記されています。「神の小羊」、これはメシア称号の一つであったと考えられています。当時のユダヤの黙示思想において、世の悪を滅ぼす勝利の小羊がメシアとして描かれていたのです。「神の小羊」とは、来たるべき救い主、メシアをあらわす称号の一つであったのです。ヨハネは、29節でも、36節でもイエスさまを「神の小羊」と呼んでいるのですけども、しかし、29節には、36節にはない「世の罪を取り除く」という言葉が記されています。そして、ここに罪のないお方が、罪人の一人としてヨハネから洗礼をお受けになった理由が言い表されているのです。「神の小羊」、これは先程も申しましたように、この世の悪に勝利する救い主、メシアを表す称号であります。しかし、その「神の小羊」という言葉の前に「世の罪を取り除く」という言葉が付くとき、その「神の小羊」は、むしろ罪を贖ういけにえとしての「神の小羊」であります。小羊は、当時の人々が罪を贖うために犠牲としてささげる代表的な動物でありました。当時、イスラエルの神殿においては、朝に夕に、一日に二度、小羊を献げておりました。神さまはそのような掟を与えることによって、聖なる神と罪に汚れたイスラエルの交わりは、罪の贖い無くして成り立たないことを教えられたわけです。また、罪を贖ういけにえを献げる際の手順については、レビ記に詳しく記されているのですが、動物をいけにえとして献げる前に、罪を犯した人がその動物の頭のうえに手を置いて、それから動物をいけにえとして献げるのです。これは何を意味するかと言いますと、その仕草によって、その動物が自分の身代わりであることを示すのです。あるいは、自分の罪をその動物に転嫁することを表しているとも言えます。いずれにせよ、当時のユダヤの人々は、動物に手を置き、その動物をいけにえとして献げることにより、罪の赦しを得ていたのです。そのような動物犠牲が献げられているユダヤの世界にあって、ヨハネは、イエスさまこそ、世の罪を取り除く神の小羊であると言うのです。罪のないイエスさまが、罪人の一人として、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるということは、そういうことであります。イエスさまは、罪人の一人として、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けることにより、自ら進んで、世の罪をその身に担われたのです。世の悪に勝利する小羊は、世の罪を担って屠られねばならない小羊なのであります。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。この言葉は、日ごとの献げ物ばかりではなく、過越祭において献げられる小羊を連想させるものであります。その昔、主なる神は、モーセを遣わし、エジプトの王ファラオに、イスラエルの民を去らせ、自分に仕えさせるように再三迫りました。しかし、エジプトの王ファラオは心を堅くなにし、イスラエルを去らせなかったため、主なる神は、ある夜、エジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つことにしたのです。ただし前もって主なる神は、小羊をほふり、その血を家の入り口である鴨居と二本の柱に塗ってある家は過ぎ越されると決めておりました。それを知らされていたイスラエルの初子は滅ぼされず、エジプトの初子だけが撃たれ、ついにイスラエルは奴隷の国エジプトから脱出することができたのであります。ヨハネが自分の方へ近づいて来られるイエスさまを見て、過越の祭りに屠られる小羊を重ねて見ていたとするのは、読み込みすぎると思われるかも知れません。けれども、この福音書を記したヨハネが、この洗礼者ヨハネの言葉に、過越の小羊を重ねていたことは確かであると思います。なぜなら、ヨハネによる福音書において、イエスさまが十字架につけられ、死んでしまわれるのは、まさに過越の小羊が屠られるその時であるからです。ヨハネによる福音書は、過越の祭りの小羊が屠られる時に、イエス・キリストが十字架につけられ、死んでしまわれたことを記すのです。それゆえ、私たちがここに、日ごとの献げ物ばかりでなく、過越の小羊を重ねて見ることは、正しいことなのであります。また「世の罪を取り除く神の小羊」を、圧倒的な力によって、世の罪をぬぐい去るような小羊ではなくて、世の罪を担い、その刑罰を代わりに受けることによって取り除く小羊と理解するのは、何よりここにイザヤ書第53章が預言しているところの主の僕の姿を見るからです。イザヤ書の第53章6節、7節にこう記されています。

 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。

 飛んで、11節、12節をお読みします。

 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりにかぞえられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 先程、いけにえとして献げる動物に手を置くことに言及して、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは、それと等しい意味を持つと申しましたけども、このイザヤ書第53章の主も僕の預言から考えるならば、そのことはさらに明かであると思います。主は人間の罪をすべて御自分の僕に負わされることを良しとされました。そして、主の僕も多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負ったのです。主の僕が、自らをなげうち死んで、罪人の一人に数えられる。その預言の成就は、イエス・キリストの十字架において見ることができるのでありますけども、しかし、その苦難の僕として歩みは、洗礼者ヨハネから罪人の一人として洗礼を受けたときから始まっていたのです。ですから、ヨハネは、自分の方へ近づいて来られるイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。ここにすべての人が目を注ぐべき、神の小羊がおられる。私たちが信仰の眼を開かれて、見るべき神の小羊がいるのであります。洗礼者ヨハネが、主イエスを指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語ったとき、ヨハネは、その世の罪の中に、「自分の罪」が含まれていることを忘れてはいなかったと思います。ですから、ヨハネは、すべての人に「見よ」と言わずにはおれなかったのです。あなたの罪を取り除いてくださる神の小羊がここにおられる。その方こそ、わたしより優れたお方、わたしより先におられ、永遠から神と共におられた神の子である。そのように伝えずにはおれなかった。そして、そのことを神さまからの使命としてヨハネは与えられていたのであります。

 ヨハネは、自分が水で洗礼を授けて来た理由を、「この方がイスラエルに現れるために」と述べております。ヨハネは、自分を遣わした神さまの「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」との御言葉を頼りとしながら、ヨルダン川において水で洗礼を授けてきたのです。ヨハネにとって、水で洗礼を授けることは、聖霊によって洗礼を授けるお方、すなわちメシアを見出すための手段でありました。ですから、洗礼者ヨハネが、霊が鳩のように天から降って、イエスさまのうえにとどまるのを見たとき、本当にうれしかったと思います。ルカによる福音書の第2章に、老人シメオンの話しが記されておりますが、そのシメオンと同じような喜びにヨハネは包まれたと思うのです。それは、自分の使命を果たし終えた。満足感を伴う喜びであります。洗礼者ヨハネは、来るべき救い主が現れるために、水で洗礼を授け、その方を見出し、この方こそ聖霊で洗礼を授けるお方であると証しすることができたのです。聖霊、神の霊が与えられるということ。これは、旧約において預言されていた終末の救いの出来事であります。そして、この聖霊を与えられることによってこそ、私たちの罪は取り除かれるのです。私たちの心に、神の霊、聖霊が溢れるほどに注がれてこそ、私たちは世の罪から解き放たれるのです。それゆえ、世の罪を取り除く神の小羊こそが、私たちに聖霊を注いでくださるお方なのです。そして、事実イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられたのち後に、弟子たちに聖霊を注いでくださいました。そして、そのようなお方であるがゆえに、イエス・キリストは神の子なのであります。

 ここで、わたしがお話ししていることも、生まれついての人間の知恵や能力では知ることのできない、いわば神秘であります。けれども、イエス・キリストの聖霊の導きによるならば、すべてのことは明白であります。私たちはそれぞれ、様々な牧師を通して、イエス・キリストの名による洗礼をただ一度受けたのでありますが、その洗礼を通して、聖霊を注いでくださったのは、同じ唯一の主イエス・キリストであります。ヨハネが「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と言っているように、私たちは、様々な牧師を通して洗礼を受けたとしても、同じ唯一の主イエス・キリストの聖霊を与えられたのです。そして、かつてヨハネがしたように、私たちも、この方こそ、世の罪を取り除く神の小羊、この方こそ、神の子であると証ししているのです。罪から既に解き放たれた者として、一人でも多くの方にこの良き知らせを知っていただきたいと願いつつ、主の日の礼拝をささげているのです。

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