神の子となる資格 2009年1月18日(日曜 朝の礼拝)
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神の子となる資格
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 1章6節~13節
聖書の言葉
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。ヨハネによる福音書 1章6節~13節
メッセージ
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今朝は、6節から13節までを中心にしてお話しをいたします。
前回お話ししたことでありますが、ヨハネは、1節から18節までの序文を記すのに、当時の教会で歌われていた讃美歌を一つの資料として用いております。そのことは、このところがあるリズムをもつ韻文によって記されていることから分かります。しかし、6節から8節までは、そのリズムを崩す散文で書かれているのです。よって、6節から8節までは、この福音書を記したヨハネが書き加えたものであろうと考えられているのです。つまり、洗礼者ヨハネについての記述を、福音書記者ヨハネがロゴス賛歌の中に組み入れたと考えられるのです。そもそも、ここで洗礼者ヨハネについて語られることは、どこか場違いなような気がいたします。しかし、ここで福音書記者ヨハネが洗礼者ヨハネについて記したのは、それなりの理由があってのことでありましょう。その1つは、19節以下の洗礼者ヨハネの証しに無理なく移っていくためであったと思います。また、これがさらに大きな理由と思われるのですが、当時、洗礼者ヨハネを光と信じる教団があり、キリスト教会とある緊張関係をもっていたと考えられているのです。2世紀の教父イエレナイオスによれば、ヨハネによる福音書が執筆されたのは、エフェソでありました。エフェソと聞いて思い起こされることは、そこには洗礼者ヨハネの弟子たちがいたということであります。使徒言行録の第18章、第19章を見ますと、エフェソにヨハネの洗礼しか知らない弟子たちの群れがあったことが記されております。そして、その代表的な人物が、雄弁家アポロであったわけです。このように、ヨハネによる福音書が記された当時、洗礼者ヨハネを光と信じる教団があったのであります。そのことを意識して、福音書記者ヨハネは、ここで洗礼者ヨハネについて記していると考えられるのです。では、6節から8節までの御言葉そのものを見ていきたいと思います。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
「神から遣わされた一人の人がいた。」ここで「いた」と訳されている言葉は、3節の「成った」と訳されている言葉と同じ言葉です。ですから、ここを「神から遣わされた一人の人が成った」と訳してもよいのであります。新改訳聖書は、「現れた」と訳しています。つまり、ここでの人、ヨハネには始まりがあるということです。これは、1節の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と対照をなしていると読むことができます。人となられる前のキリストが、言と呼ばれ天地が創造される前からおられたのに対して、ヨハネは成ったもの、造られたものであると言われているのです。また、言が神と同じ本質をもっていたのに対して、ヨハネは、はっきりと「一人の人」と記されているのです。このヨハネは、先程から申しているように、洗礼者ヨハネのことであります。わたしもこの福音書を記した使徒ヨハネと区別するために、洗礼者ヨハネと呼んできました。けれども、この福音書において、「洗礼者」という呼び名は一度も出てこないのです。それは、この福音書の本文に、使徒ヨハネの名が出てこないことと関係があると考えられます。使徒ヨハネの名が出てこない以上、わざわざ「洗礼者ヨハネ」と記す必要はなかったのだと思います。また、この福音書に「洗礼者」という呼び名が記されていないもう一つの理由として、そもそもこの福音書は、ヨハネの洗礼行為をクローズアップしていないということがあります。共観福音書において、洗礼者ヨハネの大切な働きは、イエスさまに洗礼を授けることでありますけども、ヨハネによる福音書は、イエスさまに洗礼を授けた場面を記さず、暗示するに留めているのです。ヨハネによる福音書における洗礼者ヨハネの働きは、イエスさまに洗礼を授けることよりも、むしろイエスさまについて証しをすることであるのです。光であるイエス・キリストについて証しをするために、神さまはヨハネを遣わされたのです。それは、すべての人がヨハネの証しを受け入れ、イエス・キリストを信じるためでありました。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」とありますが、ここに、イエス・キリストとヨハネの違いがはっきりと言い表されております。洗礼者ヨハネを光として仰いでいた教団を意識しながら、「彼は光ではなく、光ついて証しをするために来た」と福音書記者ヨハネは記しているのです。
ここでの「光」は、4節の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」を受けての「光」であります。それは神の救いの啓示の光です。ある神学者がこのところについて興味深いことを申しておりました。「光である啓示は証しを必要とするのである」と。「人間は光に照らされれば、その光を理解できるかと言えば、そうではない。その光について証しをしてもらわなければ、光を信じることができない。だから、神さまはヨハネを遣わされたのだ」と言うのであります。証しするとは、自分が知っていることを、まだ知らない人たちに対して、証言するということです。そうであれば、この「光について証しをするために来た」という言葉は、ヨハネだけではなくて、私たちにも当てはまることが分かるのです。なぜ、私たちは、主の日ごとに、この所に集まり、礼拝をささげているのか。それは、光について証しをするためであります。すべての人が私たちを通して、イエス・キリストを信じるようになるために、私たちは神さまから招かれて、このように礼拝をささげているのです。それゆえ、洗礼者ヨハネは、教会の歴史の先頭に立って、まことの光について証しをしていると言えるのです。
9節から11節までをお読みします。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
ここでの「光」は、洗礼者ヨハネによって証しされる光でありますから、肉となった言であるイエス・キリストのことでありましょう。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありますけども、それに先立って、ここですでにイエス・キリストについて語られているのです。ここで、イエス・キリストは、「まことの光」と呼ばれていますが、これは「神の救いの啓示そのもの」という意味であります。神の救いの啓示は、一部の限られた人たちだけを照らしているのではなくて、すべての人を照らしているのです。そのことは、啓示の書である聖書のことを考えてみれば分かりやすいと思います。神の救いの啓示は、何よりイエス・キリストを証しする書物である聖書においてあらわされています。そして、今、その聖書を誰もが手にして読むことができるわけです。また、キリスト教会の礼拝において、聖書が解き明かされているわけですが、誰でも礼拝に招かれているわけであります。そのようにして、世に来た光は、今もすべての人を照らしていると言えるのです。けれども、世は言を認めませんでした。世は言によって成ったにも関わらず、言を知らなかったのです。そればかりか、言は、自分の民にも受け入れられなかったのです。この「自分の民」とは、神の契約の民であるイスラエル、ユダヤ人のことです。神さまは、当時の聖書である旧約聖書を通して、イスラエルに、救い主・キリストをお与えになると預言してこられました。そもそもイエス・キリストは、一つの固有名詞というよりも、ナザレのイエスはキリスト・救い主であるという信仰の告白であったのです。神の民であるイスラエルこそ、イエスをキリストとして受け入れるはずであった。旧約の歴史は、そのための準備期間であったとさえ言えるのであります。けれども、そこで驚くべきことが起こったのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」のであります。ある翻訳聖書は、このところをこう訳しておりました。「いわば自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けたのである」(柳生直行訳)。家の主人が、仕事から帰ってきて、家に入ろうとしたが開けてもらえず締め出されてしまう。そのような光景を思い浮かべさせる翻訳であります。前回学んだ5節に、「暗闇は光を理解しなかった」とありましたけども、それほどに、闇は深いということでありましょう。しかし、ここで「理解しなかった」と訳される言葉が、「打ち勝たなかった」とも訳すことができることを今一度思い起こしたいと思います。このところを、新改訳聖書は、「闇は光に打ち勝たなかった」と訳していると前回申し上げました。それは言い換えれば、「光は闇に打ち勝った」ということです。どのように、光は闇に打ち勝ったのか。それは闇の子らの中から光の子らを造り出すということによってであったのです。
12節、13節をお読みします。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
「世は言を認めなかった」、「民は受け入れなかった」という否定的な言葉に続いて、「しかし、言は」と自分を受け入れた人、その名を信じる人々について記されています。言は、自分を受け入れ、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えたと言うのです。ここで「資格」と訳されている言葉を、新改訳聖書は「特権」、口語訳聖書は「力」と訳しておりました。資格とも、特権とも、力とも訳すことができる言葉がここで用いられているのです。ここで「与えた」とありますように、これは外から、他者から与えられるものであります。自分のうちにそのような素養があって、それが実を結んだというのではないのです。神の子と呼ばれるのにまったくふさわしくない者が、イエス・キリストの名を信じることによって、神の子となる資格、特権、力をただ恵みとして与えられるのです。それは、イエス・キリスト御自身が、「父のふところにいる独り子である神」であられるからです。父なる神は、独り子であるイエス・キリストを受け入れ、その名を信じる人々に、神の子となる資格を与えることをよしとされたのです。神の子となること。それは神を父と呼び、その恵みと守りのうちにおかれるということであります。ある神学者は、神の子とされることは、「人間ではあるけれども、まさに人間としてこの世のまっただ中にあって神との最も約束に満ちた近親関係にある、という点に強調点が置かれている」と指摘しておりました(カール・バルト)。イエス・キリストの名を信じる者たちは、父と子という、最も約束に満ちた近親関係に生きる者とされるのです。しかし、それは、自分の才能や努力によって得ることができるものではありません。この世のさまざまな資格は、自分の努力によって手にするものであるのに対して、神の子となる資格は、ただ神によって生まれることによるのです。ここでヨハネは、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」と三つの否定の言葉を重ねています。「血によってではなく」とは、血筋によらない、血統によらないということです。ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの血筋をひくゆえに、自分たちを神の民と考え、救いからもれることはないと考えておりました(8:39、マタイ3:9)。しかし、ヨハネは、神の子となる資格は、血縁によるものではないと言うのです。また、肉の欲、人の欲は、子供が生まれる背景にあるものを指しています。人は誰もが、夫婦の愛の交わりによって生まれてきます。そして、その背後には、人の本能や人の意志というものが働いているわけです。しかし、神の子として生まれることは、そのようなことによるのでもないとヨハネは言うのです。それでは、神によって生まれるとは、どういうことなのでしょうか。その答えが、第3章のイエスさまとニコデモとの会話の中に記されています。そこでイエスさまはニコデモにこう仰せになっています。第3章3節。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。また、5節で、イエスさまはこう仰せになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。つまり、神によって生まれるとは、上から生まれること、霊によって新しく生まれることであるのです。
12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とありましたけども、言であるイエス・キリストを受け入れ、その名を信じる人々こそ、神によって生まれた者たちなのです。そのことは、イエス・キリストを信じる信仰が、私たちの自身の業ではなくて、聖霊なる神の御業であることを教えています。神の子となる資格は、思いのままに働かれる聖霊なる神のお働きによって与えられるものなのです。しかし、私たちはここに洗礼者ヨハネの働きが用いられることを見落としてはなりません。イエス・キリストを受け入れ、その名を信じる人々は、ただ神の霊によって生まれるのでありますけども、そこで、イエス・キリストを証しする者が豊かに用いられるのです。そして、さらに神の子となる特権を与えられた者たちが、体験として知った者として、まだ知らない人びとに、イエス・キリストについて証しをすることができるのです。洗礼者ヨハネは、神さまから遣わされるという資格をもってイエス・キリストについて証しをしました。それと同じように、イエス・キリストの名を信じる私たちは、神の子とされているという資格をもってイエス・キリストを証しすることができるのです。闇の子であった私たちを光の子としてくださった力ある神の言葉であるイエス・キリストを証しするのであります。
先程、13節の「肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」という言葉を解説する中で、「人は誰でも夫婦の愛の交わりによって生まれてくる」と申しました。そして、このことは、「神によって生まれたのである」というときにも言えると思うのです。もちろん、神には男と女といった性別があるわけではありません。けれども、福音書記者ヨハネが、「イエス・キリストを信じる者たちは神から生まれた者である」と語るとき、そこには私たち一人一人に対する神さまの愛が前提とされているのです。私たちは神さまの永遠の愛の御意志によって、神から生まれたのです。このことをはっきりと教えているのが、ヨハネの手紙一の第3章1節であります。そこにはこう記されています。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
私たちが、イエス・キリストの名を信じ、神の子となる資格を与えられているということ。それは、ひとえに私たちに対する神さまの愛によるものなのです。のちにイエスさまが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあながたがを選んだ」と仰せになったように、私たちは、ただ一方的な恵みによって神さまから愛され、神の子とされているのです。しかし、それは決して閉ざされた、閉鎖的な交わりではありません。誰にでも開かれた、すべての人を招く交わりなのです。世に来てすべての人を照らすまことの光は、何より、教会の礼拝において、今もなお輝いているのです。