ヨセフとポティファルの妻 2013年10月06日(日曜 夕方の礼拝)
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ヨセフとポティファルの妻
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
創世記 39章1節~23節
聖書の言葉
39:1 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。
39:2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。
39:3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、
39:4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。
39:5 主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。
39:6 主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。
39:7 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」
39:8 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。
39:9 この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
39:10 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。
39:11 こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、
39:12 彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
39:13 着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、
39:14 彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。
39:15 わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」
39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。
39:17 そして、主人に同じことを語った。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。
39:18 わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」
39:19 「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、
39:20 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
39:21 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、
39:22 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。
39:23 監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
創世記 39章1節~23節
メッセージ
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序.
今夕は、創世記第39章1節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.信頼された奴隷ヨセフ
今夕の第39章は、第37章の続きであります。第37章36節に、「一方、メダンの人たちがエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった」と記されておりましたが、それとほぼ同じことが第39章1節にも記されています。イシュマエル人の手からヨセフを買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルでありました。父ヤコブの寵愛を受けていたヨセフは、エジプト人ポティファルの奴隷となったのです。しかし、主はそのようなヨセフと共にいてくださいました。主が共におられたので、ヨセフはうまく事を運んだのです。それを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せました。主人が家の管理やすべての財産をすべてヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福されました。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及びました。このことは、かつて主がアブラハムに言われたことの実現でもあります。主はアブラハムに、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われましたが、主は、アブラハムの子孫であるヨセフのゆえに、エジプト人の主人をも祝福されるのです。そして、このことは、イエス・キリストを信じる私たちにおいても言えるのです。主は私たちと共にいてくださり、私たちのゆえに、まわりの人々をも祝福してくださるのです。
主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣いませんでした。それほどまでに、ヨセフは主人から信頼されていたのです。主人が「自分が食べるもの」に気を遣ったのは、第43章32節にありますように、エジプト人にとって、ヘブライ人と共に食事をすることはいとうことであったからと思われます。ともかく、主が共におられたので、ヨセフは主人の全財産を管理するほどに信頼される者となったのでありました。しかもヨセフは顔も美しく、体つきも優れておりました。亡き母ラケルが顔も美しく、容姿も優れていたように、ヨセフの顔も美しく、体つきも優れていたのです(29:17参照)。
2.ポティファルの妻の誘惑
それゆえ、これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながらこう言ったのです。「わたしの床に入りなさい」。これは、「わたしと寝なさい」「わたしと肉体関係を持ちなさい」という意味であります。これは誘惑というよりも命令であります。主人の妻は奴隷であるヨセフが、自分の言うことに従うと思ったのでしょう。しかし、ヨセフは拒んで、こう言いました。「ご存じように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしのうえに立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」。このヨセフの言葉は、いささかユーモラスであります。自分は主人から全財産を委ねられている。この家で自分の意のままにならないものはない。しかし、あなたは主人の妻であるので別であると言うのです。ヨセフは自分には主人の信頼を裏切ることはできないこと、何より、他人の妻と関係を持つ姦淫という大きな罪を神の御前に犯すことはできないと語ります。私たちはこのヨセフの言葉から、罪とは何よりも神さまに対するものであることを教えられます。主が共におられることを知っていたヨセフは、何よりも主の御前に罪を犯さないようにするのです。そして、同じことが私たちにも求められているのです。主イエス・キリストが共にいてくださることを信じている私たちは、主の御前に罪を犯さないようにすべきであるのです。
主人の妻は来る日も来る日もヨセフに言い寄りましたが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしませんでした。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人もおりませんでした。彼女はヨセフの着物をつかんで「わたしの床に入りなさい」と言いますと、ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出ました。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのをみると、彼女は家の者たちを呼び寄せてこう言いました。「見てごらん。ヘブライ人なでをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました」。この彼女の言葉は、事実と正反対であります。彼女はヨセフが自分と床を共にしない腹いせに、ヨセフが自分を辱めようとしたと訴えるのです。そして、その物的証拠として、ヨセフの着物を持ち出すのです。ここでもヨセフの着物は、欺きの証拠として用いられることになるのです。
彼女は、主人にも着物を見せて、同じことを語りました。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げていきました」。ここで、主人の妻は、ヨセフばかりでなく、ヘブライ人の奴隷をつれて来た主人をも責めております。それで、主人は怒りに燃え、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れたのです。ヨセフは無実でありますが、監獄に入れられることになるのです。
3.信頼された囚人ヨセフ
ヨセフは冤罪によって囚人となるのでありますが、しかし、監獄においても、主はヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれました。ここでの「恵み」は、変わらない慈しみを表す「ヘセド」という言葉であります。主の慈しみは、ヨセフが奴隷となっても、また囚人となっても変わることはないのです。それゆえ、監守長は、監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取り仕切るようになるのです。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてよかったほどに、ヨセフを信頼したのでありました。それは、主が共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからであるのです。
結.
今夕の御言葉には、主がヨセフと共におられ、主がヨセフのすることをうまく計らわれたことが強調して記されています(2、3、21、23)。主はヨセフが苦難の中にあるときも、ヨセフと共にいてくださり、ヨセフを守り導かれました。そして、そのことをヨセフも信じて、ポティファルの妻の誘惑を退け、罪から身を守ったのです。また、主が共におられることを信じていたからこそ、ヨセフは地上の主人たちに忠実に従ったのです。ヨセフにとって、地上の主人に従うことは、その主人を立てておられる主に仕えることであったのです(コロサイ3:22~25参照)。ヨセフは奴隷となっても、また、囚人になっても主への信仰を捨てませんでした。私たちは困難に陥ると、主が共にいてくださることを疑ってしまう者でありますが、主がどのようなときも共にいてくださることを信じたいと願います。主イエス・キリストは、私たちが神から見捨てられたと思うような苦難の中にも共にいてくださるお方であるのです(マタイ27:46参照)。