ペヌエルでの格闘 2013年8月04日(日曜 夕方の礼拝)

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ペヌエルでの格闘

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 32章23節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

32:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。
32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、
32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、
32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
32:32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。
32:33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。創世記 32章23節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記第32章23節から33節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 23節から25節までをお読みします。

 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

 前回、私たちはヤコブが兄エサウとの再会の準備として、陣営を二組に分けたこと、神様に祈ったこと、多くの家畜をいくつもの群れに分けて、エサウへの贈り物としたことを学びました。21節の後半に、「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」とありますように、ヤコブは知恵を尽くして、エサウとの再会に備えたのであります。けれども、ヤコブの心から兄エサウへの恐れが無くなることはなかったようです。ヤコブは、12節で、神様にこう祈っておりました。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません」。そのように祈ったヤコブでありましたが、夜になっても、エサウへの恐れは消えませんでした。いや、夜になったからこそ、エサウへの恐れは大きくなったのです。夜が明ければ、400人の供を連れているエサウと出会うわけです。ヤコブと妻たちと子供たちは、明日殺されてしまうかも知れないわけであります。それで、ヤコブはどうしたかと言いますと、妻たちや子供たちに川を渡らせて、また、持ち物も渡らせて、独り後に残ったのでありました。そのようにしてヤコブは独りになったのです。いや、神さまと二人きりになったのであります。ヤコブが独りになりましたとき、「何者かが夜明けまで格闘した」と記されています。この「何者か」は、31節でヤコブが、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言っておりますように、神さまであります。あるいは、ホセア書の第12章4節、5節に、「ヤコブは母の胎にいたときから/兄のかかとをつかみ/力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち/泣いて恵みを乞うた」とありますように、「何者か」は神の御使いであったのです。神さまがヤコブと格闘する。口語訳聖書の言葉で言えば、「組打する」ことは、奇妙なことのように思えます。しかも、神さまの方から、ヤコブに組打をしかけられたのです。

 26節から29節までをお読みします。

 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。」

先程、私は、ヤコブと格闘した「何者か」は神さま、もしくは神の御使いであると申しましたが、格闘しているヤコブは、まだそのことを知りません。夜の暗闇の中で、何者かに襲われ、その何者かと必死に格闘していたわけです。ヤコブが格闘し続けたことは、それが負ければ死を覚悟しなければならない戦いであったことを教えています。ヤコブは井戸の口をふさいでいた大きな石を一人で転がすことのできる怪力の持ち主でありました(29:10参照)。ですから、腕っ節は強かったのだと思います。しかし、そうであっても、「その人はヤコブに勝てないとみて」と記されているのは、不可解であります。それも、「ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」のですから、ますます不可解に思えるわけです。そもそも神さまが人に負けるということがあるのでしょうか?その疑問を解く鍵は、神さまが人のような姿で現れてくださったこと、つまり、ヤコブと格闘することができるように、自らへりくだってくださったことにあります。それで、その人はヤコブに勝てないと見て、ヤコブの腿の関節をはずし、こう言うのです。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」。しかし、ヤコブはこう答えました。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」。ヤコブは、格闘している中で、特に、腿の関節を外されたことにより、その人が、神さまであることに気づいたようであります。それで、「祝福してくださるまでは離しません」とヤコブは言ったのです。また、その人が「お前の名は何というのか」と尋ねると、「ヤコブです」と答えました。これは、かつて目の見えない父イサクをだましたときと対象的であります。かつて、ヤコブは父イサクから「誰だ、お前は」と尋ねられたとき、「長男のエサウです」と答えました。しかし、ここでは「ヤコブです」と答えるのです。かつてエサウが、「彼をヤコブとはよく名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた」と言っていたように、ヤコブは、足を引っ張る者、欺く者でありました(27:36参照)。そして、そのことをヤコブは、「ヤコブです」と名乗ることによって、神さまの御前に認めるわけです。しかし、そのようなヤコブに、神さまは新しい名をお与えになります。それがイスラエルでありました。その人はヤコブにこう言いました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。腿の関節を外されたヤコブが本当に勝ったのかどうかは疑問の残るところですが、ヤコブと格闘された神さま御自身が、「お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言われました。イスラエルとは、「神は争う」という意味でありますが、ヤコブは神と人と闘って勝ったゆえに、イスラエルと呼ばれると言うのです。神さまはヤコブにイスラエルという名を与えることによって、ヤコブを新しいものとしてくださったのです。

 30節から33節までをお読みします。

 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

 ヤコブもその人に、「どうか、あなたのお名前を教えてください」と願いましたが、それは適いませんでした。神さまは、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言われて、そのことを拒否されたのです。しかし、神さまはヤコブの願いどおり、ヤコブをその場で祝福してくださいました。「祝福してくださるまでは離しません」と言っていたヤコブを神さまは祝福してくださったのです。そして、ヤコブはその場所をペヌエル(神の顔)と名付けたのであります。なぜなら、ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったからです。このヤコブの発言の前提には、神を見たものは生きていられないという考え方があるわけですが、厳密に言うと、ヤコブは夜の暗闇の中で格闘していたわけでありまして、神の顔を見たわけではありません。その人は、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言いましたが、それはヤコブがその人の顔を見て、死ぬことがないようにするためであったとも言えるのです(出エジプト33:20参照)。ともかく、ペヌエルという地名の由来は、ヤコブが神さまと格闘した出来事にあったのです。

 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽が彼の上に昇りました。ヤコブは腿を痛めて足を引きずって、先に行かせた妻たちと子供たちのもとへ向かいます。ヤコブが腿を痛めて足を引きずっていたことは、ペヌエルでの格闘が実際のものであったことを教えております。ペヌエルでの格闘は、祈りの格闘として内面化されがちですが、しかし、ヤコブが腿を痛めて足を引きずっていたことは、ペヌエルでの格闘が文字通りの格闘、組打であったことを証ししているのです。その事実を覚えて、イスラエルの人々は今でも、動物の腰の筋を食べないのと言うのです。

 今夕の御言葉を読んで教えられますことは、「祝福してくださるまでは離しません」というヤコブの執念とも言える祈りの心であります。ヤコブはそのような思いをもって、神さまと格闘したのです。そして、それは私たちが持つべき祈りの心でもあります。果たして、私たちはそれほどまでに祝福を祈り求めたことがあったでしょうか?神さまは、「どうか、兄エサウの手から救ってください」と祈り願うヤコブに現れ、組打をしかけられました。そのようにして神さまは、「祝福してくださるまでは離しません」と言うヤコブの祈り心を引きだしてくださったのです。そして、神さまは、「祝福してくださるまでは離しません」と言うヤコブを祝福してくださったのです。ヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言いましたけれども、この体験は、エサウとの再会によって、ヤコブが死なないことの約束でもあります。神さまと顔と顔を合わせて死ぬことがなかったヤコブは、エサウと顔と顔を合わせても死ぬことはないのです。そのような神さまの祝福を受けて、ヤコブは足を引きずりながら、エサウのもとへ向かうのであります。

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