苦労と悩みを目に留められる神 2013年6月30日(日曜 夕方の礼拝)

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苦労と悩みを目に留められる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 31章22節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

31:22 ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった。
31:23 ラバンは一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いついたが、
31:24 その夜夢の中で神は、アラム人ラバンのもとに来て言われた。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」
31:25 ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブは山の上に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアドの山に天幕を張った。
31:26 ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。
31:27 なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。
31:28 孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。
31:29 わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。
31:30 父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」
31:31 ヤコブはラバンに答えた。「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。
31:32 もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」ヤコブは、ラケルがそれを盗んでいたことを知らなかったのである。
31:33 そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜してみたが、見つからなかった。ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、
31:34 ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも捜したが、守り神の像を見つけることはできなかった。
31:36 ヤコブは怒ってラバンを責め、言い返した。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。
31:37 あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。それをここに出して、わたしの一族とあなたの一族の前に置き、わたしたち二人の間を、皆に裁いてもらおうではありませんか。
31:38 この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。
31:39 野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。
31:40 しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。
31:41 この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。
31:42 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」創世記 31章22節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の31章22節から42節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 ヤコブはラバンのもとをすべての財産を持って逃げ出し、ユーフラテス川を渡り、ヨルダン川東岸のギレアド山地へ向かったのでありますが、そのことがラバンに知れたのは、ヤコブが逃げ出してから三日目のことでありました。30章36節に、「ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた」とありました。ヤコブが世話をしていた家畜の群れとラバンが世話をしていた家畜の群れとの間には三日の距離があった。それゆえ、ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であったのです。ラバンはヤコブが逃げたことを知ると、一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いつきました。ヤコブはすべての財産である家畜を引き連れて移動していたゆえに、ラバンに追いつかれてしまったわけです。そして、その夜、神様は、ラバンの夢の中に現れて、こう言われたのです。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」。20章に、神様がゲラルの王アビメレクの夢の中に現れてくださったお話しが記されておりましたが、同じように、主なる神様は、アラム人ラバンの夢の中に現れてくださり、「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」と警告されたのです。ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブは山の上に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアドの山に天幕を張りました。これはさながら敵対する陣営同士のようであります。

 追いついたラバンはヤコブにこう言いました。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか」。先ずラバンは、ヤコブが自分を欺いて、こっそり逃げ出したことを責めております。ここでラバンは、「しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは」と言っていますが、これは事実に反するヤコブへの中傷であります。なぜなら、ラバンの娘たちであり、ヤコブの妻であるラケルとレアは、14節から16節でこう言っていたからです。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げたとおりになさってください」。このようにラケルとレアは自分の意志でヤコブと共にラバンのもとから逃げ出したのです。しかし、ラバンは「しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは」と、まるで無理やりヤコブがラケルとレアを連れ去ったかのようにヤコブを非難するのです。また、ラバンは、「ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ」と言っておりますが、これまでのラバンの振る舞いを考えれば、到底信じられない白々しい言葉のように思えます。なぜなら、ヤコブはラケルがヨセフを産んだころ、ラバンに独り立ちさせて生まれ故郷に帰らせてほしいと願い出ていたからです。ではその時、ラバンはヤコブを太鼓や竪琴で喜び歌って送り出したかと言えば、そうではありませんでした。ラバンは、自分がヤコブのお陰で主から祝福されることを知って、何とかヤコブを自分のもとに留めておこうとしたわけです。ラバンはヤコブを去らせなかったわけであります。ですから、ヤコブはラバンの目を盗んで、こっそりと逃げ出さざるを得なかったわけであります。私たちはこれまでの経緯を知っておりますから、ラバンの言葉の偽りに気づくわけでありますが、しかし、ラバンの言葉だけを読みますと、ヤコブはまことに愚かなことをしたのであるように思えます。ラバンはこのように語ることによって、自分を正当化し、ヤコブに非があると非難するのです。それゆえ、ラバンは、「わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできる」とさえ言うのです。おそらく、ラバンが一族を率いてヤコブを追いかけたのは、武力を持ってしても、娘たちや孫たち、またすべての財産である家畜を取り戻すためであったと思います。神様は、そのようなラバンの心をご存じで、「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」と言われたのです。ラバンは、武力によって、ヤコブたちをひどい目に遭わせることもできるのでありますが、それをしないのは、夕べ、ヤコブたちの父の神が、「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」とラバンにお告げになったからであるのです。ですから、ラバンはヤコブがこっそり逃げたことについてはこれ以上非難しません。しかし、自分の守り神を盗んだことについては別であります。ラバンは「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか」と言って、この点からヤコブを非難するわけです。

 ヤコブはラバンの言葉を受けてこう答えました。「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください」。ラバンの「なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか」という非難について、ヤコブは、「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと恐れただけです」と弁解します。ヤコブの妻であるラケルとレアは、ラバンの娘たちでありました。ラケルとレアはラバンの大家族の一員でもあったわけです。それで、ヤコブはラバンがラケルとレアを自分から奪い取るのではないかと恐れたのです。このようなヤコブの恐れは当時の状況を反映するものであります。出エジプト記の21章に「奴隷について」の法が記されておりますが、その4節を見ますとこう記されています。「もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らせねばならない」。もちろん、ヤコブは奴隷ではありませんし、ラケルとレアのためにラバンのもとで14年間働きました。そのような労働によってヤコブはラバンに結納金を支払ったわけです。しかし、ヤコブがラバンの家に置いてもらっている弱い立場にあったことには変わりありません。ですから、ヤコブはラバンが自分の娘たちを、すなわちヤコブの妻たちを奪うのではないかと恐れたのです。ラバンは、「ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを」と言いましたけれども、とてもそのようなことを期待できるような状況ではなかったのです。また、ヤコブは、「なぜわたしの守り神を盗んだのか」というラバンの非難については次のように答えました。「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしては置きません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください」。ヤコブはラケルがそれを盗んだことを知りませんでしたから、自分たちが無実であると思っていたわけです。もし、ヤコブが、ラケルがそれを盗んでいたことを知っていたならば、「そのものを生かしてはおきません」とは語ることができなかったと思います。

 そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜しましたが見つかりませんでした。また、ラバンがラケルの天幕に入ると、ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べても見つけることはできませんでした。35節のラケルの言葉、「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません」という言葉の背後には、父の前では起立しなければならないという慣習があります。しかし、ラケルは月のもののために立てないと言うのです。レビ記の15章の規定によれば、「生理期間中の女性が使った寝床や腰掛けはすべて汚れる」と記されております。これは現在では廃棄されている儀式律法の一部でありますが、ラバンの守り神の像が生理期間中の女性が座っている鞍の下に置かれることを記すことによって、ラバンの守り神が貶められていることは明らかであります。ラバンはなおも捜すのでありますが、とうとう守り神の像を見つけることはできませんでした。それで、ヤコブは怒ってラバンを責め、こう言い返すのです。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。それをここに出して、わたしの一族とあなたの一族の前に置き、わたしたち二人の間を、皆に裁いてもらおうではありませんか」。天幕とはその天幕の所有者の個人的な領域であります。ですから、他人が人の天幕に入って調べるということは大変なことであります。現代で言えば、家宅捜索したわけです。しかし、捜し物である守り神の像を見つけることはできなかったわけです。こうなりますと、非難されるべきはラバンの側になります。このようにして、ラバンは一族を引き連れて、ヤコブたちのもとを追って来た理由を失うわけです。ヤコブの言葉はそれだけでは終わりません。ヤコブはこれまで言わずいた、不満をラバンにぶちまけます。「この二十年というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持っていかないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたは何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです」。私たちはこのヤコブの言葉から、ヤコブが二十年間、ラバンのもとでどのようにして全力を尽くして働いてきたのかを知ることができます。「あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはない」ことは、ヤコブがどれほど家畜にいきとどいた世話をしていたかを示しています。また、当時、羊飼いには、その群れの雄羊を食べることが許されておりましたが、ヤコブはラバンの群れから一匹の雄羊も食べたことはありませんでした。また、ヤコブは、野獣にかみ裂かれたものがあっても、ラバンのもとへ持っていかず自分で償いました。出エジプト記の22章12節に、「もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持っていく。かみ殺されたものにたいしては、償う必要はない」と記されていますが、ヤコブは、自分で償ったのです。また、同じ出エジプト記の22章9節以下にこう記されています。「人が隣人にろば、牛、羊、その他の家畜をあずけたならば、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかった、と両者の間で主に誓いがなされねばならない。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はない。ただし、彼のところから確かに盗まれた場合は、所有者に償わねばならない」。この規定から分かりますことは、盗まれたものには弁償しなくてもよいものがあった、ということです。しかし、ラバンは、昼であろうと、夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにヤコブに要求したのです。しかも、ヤコブはしばしば昼は猛暑に、夜は極寒に悩まされ、眠ることもできなかったのです。私たちが羊飼いと聞きますと、のどかな田園風景を思い浮かべるかも知れませんが、実際には羊飼いはまことに過酷な労働であったのです。ヤコブは十四年はラバンの二人の娘のために、また六年はラバンの家畜のためにこのような過酷な労働をしてきたのです。それに対して、ラバンはヤコブの報酬を何回も変えたのでありました。さらには、一族を率いて、力づくで、娘や孫たち、すべての家畜を奪おうとヤコブを追って来たのでありました。42節に、「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追いだしたことでしょう」とありますように、ラバンはヤコブを働かせるだけ働かして、来た時と同じように、杖一本で追い出すつもりであったのです。しかし、そのようなことを神様はお許しにはなりません。なぜなら、神様はヤコブの労苦と悩みを見ておられる神であるからです。申命記の24章14節で神様はこう言われています。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わなければならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい」。ラバンは二十年間自分のもとで働いて来たヤコブを何の報酬も与えずに去らせようとしました。しかし、神様はそのようなことをお許しにはなりません。それゆえ、神様はラバンの夢に現れ、ヤコブを非難しないように、つまり、ヤコブの報酬を正当に認めるようにと、諭されたのです。ヤコブの労苦と悩みを目に留められる神様は、弱い立場にあるすべての雇い人の労苦と悩みを目に留められる神様でもあられます。弱い立場にある労働者を保護する法律の根源には、このような主の御心があるのです。すなわち、ヤコブの労苦と悩みを目に留められる神様は、私たちの労苦と悩みを目に留められる神様でもあるのです。

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