ヤコブの子供たち 2013年6月02日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの子供たち

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 29章31節~30章13節

聖句のアイコン聖書の言葉

29:31 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。
29:32 レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。
29:33 レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。
29:34 レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。
29:35 レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。
30:1 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。
30:2 ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」
30:3 ラケルは、「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。
30:4 ラケルはヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。
30:5 やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。
30:6 そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。
30:7 ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。
30:8 そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。
30:9 レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えたので、
30:10 レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。
30:11 そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。
30:12 レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。
30:13 そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。創世記 29章31節~30章13節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記29章31節から30章13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 31節をお読みします。

 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。

 新共同訳聖書は「疎んじられている」と翻訳していますが、口語訳聖書、新改訳聖書では「嫌われている」と翻訳しています。元の言葉は直訳すると「憎む」となりますが、これはヘブライ語の表現で、「より少なく愛する」という意味であります(ルカ14:26参照)。ヤコブはレアとラケルの二人を妻としたわけですが、ヤコブがレアをラケルより少なく愛したことは、よく分かることであります。なぜなら、ヤコブはレアを妻として迎えるつもりはなかったからであります。伯父のラバンにだまされてヤコブはラケルだと思って、レアのところに入ったわけです。ヤコブはラケルを妻とするために、その結納金として七年間働いたにも関わらず、ラバンにだまされて姉のレアを妻とすることになったからです。そして、妹のラケルを妻とするために、もう七年間ラバンのもとで働くことになったわけであります。30節にはっきり記されているように、「ヤコブはレアよりもラケルを愛した」のです。しかし、主はそのようなレアを見て彼女の胎を開かれたのです。他方、ラケルには子供ができなったのであります。レアよりもラケルを愛したヤコブは、当然、ラケルのところにより多く入ったはずでありますが、子供を産んだのは疎んじられていたレアであったのです。

 32節から35節までを読みます。

 レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子を授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結びついて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。

 ここには、レアが4人の男の子を産んだことが記されています。ルベン、シメオン、レビ、ユダというそれぞれの名前には、レアのその時その時の思いが込められています。レアは主が彼女の胎を開いてくださったことを、ヤコブから疎んじられている自分への憐れみとして感謝し、子供を産むことによって、ヤコブが自分を愛するようになることを願っております。ヤコブはレアよりもラケルを愛しておりましたが、レアはヤコブのために子供を産むことによってラケルよりも愛されることを願ったわけです。

 この子供たちは、後にイスラエルの十二部族の族長となる者たちでありますが、その中には、モーセやアロンを出すレビや、ダビデやソロモンを出すユダがおります。ヤコブがレアと結婚したのは、ラバンの策略によることでありましたが、しかし、そのことを通して、レビや、ユダが生まれるのです。主はラバンの策略をも用いて、また疎んじられていたレアの胎を開かれて、ルベン、シメオン、レビ、ユダを産まれさせられたのです。

 30章1節から8節までを読みます。

 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向って、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」ラケルは、「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。ラケルはヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。

 1節に「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると」とありますが、すでにレアは4人の子供を産んでいるわけですから、結婚して4年ほどが過ぎていたことになります。レアが4人の子供を産んだのに対して、ラケルにはまだ子供がありませんでした。それで、ラケルはレアをねたむようになったのです。そして、ヤコブに、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言うのです。「わたしは死にます」とは大げさに聞こえるかも知れませんが、当時の価値観からすれば、子供ができないことは、女性にとって恥ずべきことでありました。しかし、このようにヤコブを責めるのはお門違いであります。なぜなら、ヤコブが言っておりますように、ラケルの胎に子供を宿らせないのは神御自身であるからです。詩編127編3節に、「見よ、子らは主からいただく嗣業」とありますように、子供は神様からの授かりものであるのです。

 それで、ラケルは自分の召し使いビルハをヤコブの側女とし、その子供を自分の膝の上に迎えることによって、子供を持とうとします。これは当時の慣習によることでありまして、かつてアブラハムの妻サラが用いた手段でありました。ラケルは女奴隷のビルハによって、二人の男の子、ダンとナフタリを持ったわけです。ラケルは、そこに、自分の訴えに対する神の正しい裁きを見、また姉との死に物狂いの争いの勝利を見るわけです。ナフタリの名前の由来からも分かりますように、子供を産むことは、夫ヤコブのためでありましたが、もはや姉との死に物狂いの争いであるわけです。それゆえ、レアもすでに子供がいるにも関わらず、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えるのです。

 9節から13節までを読みます。

 レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブの側女として与えたので、レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。

 ラケルが自分の召し使いビルハをヤコブに側女として与えたのを見て、レアも自分の召し使いジルパをヤコブの側女として与えることによって、子供を持とうといたします。レアは「なんと幸運な(ガド)」と言ってガドと名付け、また、「なんと幸せなことか。娘たちはわたしを幸せ者という者にちがいない」と言って、アシェルと名付けました。このレアの言葉、「娘たちはわたしを幸せ者という者にちがいない」という言葉は、聖霊によってイエス・キリストを身ごもったおとめマリアの賛歌を思い起こさせる言葉であります。今夕はそのことを確認して終わりたいと思います。ルカによる福音書1章46節から49節前半までをお読みします。新約聖書の101ページです。

 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、偉大なことをなさいましたから」。

 女奴隷のジルパによって男の子を持ったレアは、「娘たちはわたしを幸せ者と言うでしょう」と言いましたが、聖霊によって男の子を身ごもったマリアは、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言いました。それは、聖霊によっておとめマリアからお生まれになる男の子がいと高き方の子、約束のメシア、救い主であるからです。しかし、レアの幸いなくして、おとめマリアの幸いもなかったということを今夕は覚えたいのであります。先程も言いましたように、レアによって、モーセやアロンが出るレビが生まれ、またダビデやソロモンが出るユダが生まれるのです。また、マリア自身も、アロン家の一人娘であるエリザベトの親類でありましたから、レビ族の出身であったと思われます。このように見て行きますと、神様が疎んじられていたレアを顧みてくださったことは、すべての人を顧みてくださったことの始まりであったことが分かるのです。レアの幸いは、おとめマリアの幸いのさきがけであり、私たちの幸いのさきがけでもあるのです。

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