新しい契約を結ぶ日 2014年10月12日(日曜 朝の礼拝)

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新しい契約を結ぶ日

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
エレミヤ書 31章31節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。エレミヤ書 31章31節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は初めての方をお迎えしての礼拝であります。案内のチラシに次のような文章を記しました。「世界のベストセラーである聖書は、旧約と新約からなっています。今回は『新しい契約』についてご一緒に学びたいと願っています」。聖書は旧約と新約の二部から成っていますが、旧約とは旧い契約を、新約とは新しい契約を意味します。聖書の神様は人間と契約を結ばれて親しい交わりをもってくださるお方であります。それゆえ、キリスト教は契約の宗教であると言えるのです。

 先程は、エレミヤ書31章31節から34節までを読んでいただきました。このところに、「新しい契約」という言葉が記されておりました。31節であります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると、主は言われる」。ここでの「主」とは、その昔、モーセを通してイスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出した神様の御名前であります。もとのヘブライ語では、ヤハウェと記されています。ヤハウェとは、「わたしはある」(エヒウェー)という言葉に由来すると考えられています。すなわち、主と訳されているヤハウェは、共におられる、生きて働く神であられるのです。

 基本的なことを確認したいと思いますが、聖書は、神がおられること、それは天地万物を造られた唯一の神であることを教えています。その神様が、アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結び、彼らの神となってくださいました。そして、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から導き出し、シナイ山で契約を結び彼らの神となってくださったのです。主はイスラエルに律法を与えて、御自分の宝の民とされたのでありました。そして、これが旧い契約と呼ばれるものであるのです。主の願いは、イスラエルが御自分の教えに聞き従って幸いを得ることでありました。しかし、彼らは主の教えに聞き従いませんでした。32節にこう記されています。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であるにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」。ここで「この契約」という言葉が2回でてきますが、「この契約」とは、これから結ぶであろう「新しい契約」のことを指しています。また、二度目の「この契約」はかつてイスラエルの先祖たちと結んだ契約を指しています。主は、将来、イスラエルの家、ユダの家と結ぶ新しい契約がどのような契約であるかを、かつての契約、旧い契約と比べることによって、教えようとしているのです。なぜ、主は、イスラエルの家と新しい契約を結ぶ日が来ると言われたのでしょうか?それは、イスラエルの家が、エジプトの地から導き出したときに結んだ契約を破ってしまったからです。それで、神様は預言者エレミヤを通して、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と言われたのです。

 緒論的なことをお話していませんでしたが、エレミヤ書に記されている預言がいつ頃のものであるかについては、1章1節から3節に記されています。旧約の1172ページです。

 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地アナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。

 ここから、私たちは、エレミヤが祭司の息子であったこと、エレミヤがユダの王ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤの治世に預言したこと、そして、それはエルサレムの住民が捕囚となるまで続いたことを知ることができます。エレミヤは紀元前7世紀から6世紀のユダ王国で、およそ40年に渡って、主の言葉を語ったのです。ユダの都エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされ、その住民がバビロンに奴隷として連れて行かれるまで、エレミヤは苦難の中で神の言葉を語り続けたのです。では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の1237ページです。

 今朝の御言葉、新しい契約を結ぶ日が来るという預言がいつ頃なされたのか、と言いますと、エルサレムがバビロン帝国に包囲された年、バビロン帝国によってエルサレムが陥落させられる直前であったと考えられています。バビロン帝国によって、ユダ王国が滅ぼされる直前に、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」という預言が与えられたのです。新しい契約の預言は、慰めに満ちた希望として、イスラエルの民に与えられたのです。

 来たるべき日に結ばれる新しい預言について、33節は次のように記しています。「しかし、来たるべき日にわたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。この御言葉を正しく理解するために、旧い契約がどのように結ばれたのかをご一緒に見ておきたいと思います。出エジプト記24章1節から11節までをお読みします。旧約の134ページです。

 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分をとって鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

 少し長く読みましたが、ここには、主がモーセを仲介者として、イスラエルの民と契約を結ばれたことが記されています。モーセが契約の書を読んで聞かせると、イスラエルの民は、「私たちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と答えました。そして、モーセはいけにえとして献げた雄牛の血を祭壇と民に振りかけたのです。それは契約を破ったら、血を流してもかまわないことを誓う厳粛な儀式であったのです。では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の1237ページです。

 主がイスラエルの先祖をエジプトから導き出したときに結んだ旧い契約は、石の板に記されて、イスラエルの前に与えられました。しかし、新しい契約はそうではありません。33節に、「わたしは律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とありますように、新しい契約において、主は御自分の律法をイスラエルの胸の中に授け、彼らの心にそれを記されるのです。ここで「律法」と訳されているのは「トーラー」というヘブライ語で、「教え」とも訳すことができます。律法にせよ、教えにせよ、その源にあるのは神様の御意志です。神様は変わることのないお方でありますから、神様の御意志である律法、教えも変わることはありません。神様の律法、教えの代表的なものは、週報の裏面に記されている十戒でありますが、旧い契約においても、新しい契約においても、十戒は、神の民に与えられている律法、教えであるのです。ですから、旧い契約でも、新しい契約でも、その内容は同じであるのです。では、何が違うのかというと、律法とそれを受ける人間の心の関係が違うのです。旧い契約では、神様の教えが石の板に記されて、イスラエルの民の前に置かれるという仕方で与えられました。そして、神の掟を行い、守るように命じられたわけです。しかし、新しい契約では、律法が胸の中に授けられ、心に記されると言うのです。これはどういう意味でしょうか?誤解のないように申しますが、ここで言われていることは律法を暗記するということではありません。ここで言われていることはそれ以上のことであります。すなわち、ここで言われているのは、「主に従う心が与えられる」ということであるのです(24:7、32:40参照)。エレミヤは40年に渡って、預言してきましたが、そこでしばしば言及されていることは、イスラエルの人々の心がかたくなで悪いということです(3:17、7:24、9:14、11:8、13:10、16:12、23:17参照)。なぜ、イスラエルの人々は、神の掟を行い、守ることができないのか?神でないものに仕え、禁じられているあらゆる罪を犯してしまうのか?それは、彼らの心がかたくなで悪いからであるのです。イスラエルの人々が特別そうであったのではありません。人の心を究められる神様の前に、すべての人の心はとらえがたく病んでいるのです(17:9参照)。「善いことと知りながら、それをなすことができない。また、悪いことと知りながら、それをしてしまう」のはなぜでしょうか?それは、すべての人の心がかたくなで悪いからであるのです。しかし、主は、そのような人間の心に律法を授け、それを心に記すことにより、主に従うことができるようにしてくださるのです。そのようにして、主は、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という契約の目的を実現してくださるのです。

 34節をお読みします。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。ここで「主を知る」とありますが、主を知るとは、主について何らかの知識を持っていることにとどまりません。主を知るとは、主との交わりの中で人格的に知るということです。主の律法を胸に授けられ、心に記された人は、交わりの中で主を知ることができるのです。なぜなら、主の律法を心に記されるということは、神様の霊を与えられることによって実現するからです。エレミヤと同時代の預言者であるエゼキエルは、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と預言していますが、主の律法を心に記すことと主の霊を与えられることは一つのことであるのです(エゼキエル36:27参照)。それゆえ、新しい契約が結ばれる日には、小さい者も大きい者も、主を交わりの中で知ることができるのです。

 34節の後半には、一方的な罪の赦しについて語られております。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。これは、まさしく神様の恵みの宣言であります。旧い契約においては従う者には祝福が与えられ、背く者には呪いが下ると記されておりました。しかし、新しい契約において、主は「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われるのです。この一方的に与えられる罪の赦しによって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という契約がゆるぎないものとなるのです。つまり、新しい契約の確かさは神の恵みにかかっているのです。

 今朝の御言葉には、新しい契約が結ばれる日が来ることが預言されていますが、それが誰によって、いつ、どのような仕方で結ばれるのかは記されていません。このエレミヤの預言は、誰によって、いつ、どのような仕方で結ばれるのでしょうか?聖書は、このエレミヤの預言が、イエス・キリストによって、今からおよそ2000年前、イエス・キリストが十字架の死を死なれるという仕方で結ばれたと教えています。イエス・キリストは十字架につけられる日に、弟子たちと過ぎ越しの食事をされましたが、その席上で、次のように言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20参照)。旧い契約は、和解の献げ物である雄牛の血によって結ばれましたが、新しい契約はイエス・キリストの血によって結ばれたのです。神様はイエス・キリストを死から三日目に復活させ、御自分の右の座へと上げられました。そして、イエス・キリストを通して聖霊を与えて、私たちを新しい契約の祝福にあずかる者としてくださったのです。十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリストの霊を授けられることにより、私たちは神様に喜びと感謝をもって従う者たちとされたのです。残念ながら、この地上において、私たちは完全に神様の教えに従うことはできません。私たちには依然として罪が残っているからです。しかし、そのような私たちでも、聖霊によって神の律法を心に記され、神様に従う心を与えられているのです。その証拠に、私たちはイエス・キリストを信じているのです。「神の御心に従う」という時の、神の御心とは何でしょうか?それは神様が遣わされたイエス・キリストを信じて、罪の奴隷状態から救われることです。かつて神様は、モーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出してくださいました。それと同じように、神様は、イエス・キリストを通して私たちを罪の奴隷状態から救い出してくださいます。そのようにして、私たちを御自分の民、御自分の子供としてくださるのです。

 また、神様は、イエス・キリストにあって、私たちの悪を赦し、罪を心に留めることはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪のために刑罰としての死、十字架の死を死んでくださったからです。死んで三日目に復活してくださったからであります。イエス・キリストの十字架の死は、すべての人の罪のためであります。そして、イエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光へと復活されたのは、すべての人を正しい者とするためであるのです。そのイエス・キリストの聖霊を与えられるとき、その人は神の民イスラエルの一員となり、感謝と喜びをもって神様に、またイエス・キリストに従うことができる者とされるのです。たとえ、罪を犯しても、イエス・キリストの名によって罪の赦しをいただき、神の民、神の家族として、この地上を歩んで行くことができるのです。新しい契約が完全に実現する新しい天と新しい地を目指して、希望を持ってこの地上を歩んで行くことができるのです。

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