法廷において 2016年11月20日(日曜 朝の礼拝)

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法廷において

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 23章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:1 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
23:2 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。
23:3 また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
23:4 あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
23:5 もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
23:6 あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。
23:7 偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。
23:8 あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
23:9 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。出エジプト記 23章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 出エジプト記21章1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」とありますように、21章、22章、23章には、主がモーセを通してイスラエルの民に示された法が記されています。ここに記されている法は、ウェストミンスター信仰告白の区分から言えば、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた司法的律法であります。ウェストミンスター信仰告白は、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法の3つに区分しています。道徳律法は十戒に代表される律法で永遠に有効である。儀式律法は動物犠牲に代表される律法でイエス・キリストにおいて満たされ廃止されている。司法的律法は、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた律法であり、その終わりと共に無効とされた。このように理解するのです。今夕の御言葉は、ウェストミンスター信仰告白の区分では司法的律法でありますから、現代の私たちにそのまま当てはまるわけではありません。それならば、私たちが今夕の御言葉を学ぶ意義はないかと言えば、そうではありません。司法的律法に含まれている一般的公正さについて、私たちは学ぶ必要があるのです。そのことを踏まえまして、今夕は23章1節から9節までを御一緒に学びたいと思います。

 私たちが用いている新共同訳聖書は、便宜上、小見出しをつけていますが、その小見出しの区分に従って、見ていきたいと思います。

 23章1節、2節に、「法廷において」と小見出しが付けられています。十戒の第九戒は、「隣人に関して偽証してはならない」でありましたが、ここにはその具体的な法が記されております。ウェストミンスター信仰告白は、便宜上、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法と三つに区分しますが、実際は、それほど明確に区分できるものではありません。この所もそうでありまして、司法的律法とも道徳律法とも読むことができるのです。「隣人に関して偽証してはならない」と言われた主は、「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟においてかばってはならない」と言われるのです。神は真実な方でありますから、その民であるイスラエルの法廷において真実が曲げられるようなことがあってはならなかったのです。多数者に追随して証言し、判決を曲げることも、弱い人の肩を持って証言し、判決を曲げることも禁じられておりました。イスラエルの法廷において求められていたことは、真実が真実として語られることであったのです。

 4節、5節には、「敵対する者とのかかわり」と小見出しが付けられていますが、ここでの「敵」、あるいは「あなたを憎む者」は、裁判で争っている相手のことを指しています。前後の文脈から考えるならば、ここでの「敵」、あるいは「あなたを憎む者」は裁判で争っている相手のことです。この所を正しく理解するために、申命記の22章の御言葉を読むことが有益であります。旧約の314ページです。申命記の22章1節と4節をお読みします。

 同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない。

 飛んで4節をお読みします。

 同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。

 このようにイスラエルでは同胞を助けることが命じられていたのです。ここに記されているのは申命記の御言葉ですが、同じことが今夕の出エジプト記の御言葉においても前提とされているのです。

 では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の131ページです。

 イスラエルにおいて、同胞の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず連れ戻さねばならないと命じられていました。また、同胞のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨ててはならず、必ず助け起こすことが命じられていました。このことは、裁判で争っている相手に対しても、変わらずに求められているのです。裁判において敵対的な関係にあっても、日常生活においては互いに助け合うことが命じられているのです。先程の1節、2節は、裁判の証人に対する法でありましたが、3節、4節は、裁判の当事者に対する法であると言えるのです。

 6節から9節には、「訴訟において」と小見出しが付けられていますが、ここには、判決を下す裁判官に対する法が記されています。古代のイスラエルにおいて、町の門のところで、長老たちによる裁きが行われたわけですが、そこで裁きを下す者に対する法が記されているのです。ここでも求められていることは真実な裁きを下すことであります。「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない」とは、金持ち、権力者におもねって、乏しい人を有罪としてはならないということであります。また、偽りの証言を避けること、罪なき人、正しい人を罪に定めて殺してしまうことが禁じられております。なぜなら、主は悪人を正しいとすることはない御方であるからです。イスラエルの神である主が、悪人を正しいとすることはない御方であるゆえに、イスラエルにおいては、悪人が悪人として罰を受けねばならないのです。

 8節には、「あなたは賄賂を取ってはならない」とありますが、当時は、賄賂を取ることが普通に行われていたと言われます。しかし、主は「賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである」と言われるのです。神様は人間の弱さをよくご存じであるゆえに、賄賂を受け取ることを禁じられたのです。

 9節には、「あなたは寄留者を虐げてはならない」と記されています。寄留者はイスラエルの間に滞在する外国人のことであります。寄留者はイスラエルの中に親族がおらず、弱い立場にありました。それゆえ、寄留者を虐げること、ここでは裁判によってむごく取り扱うことが禁じられているのです。イスラエルにおいて寄留者を虐げてはならない理由として、「あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」と記されています。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったゆえに、寄留者に優しくできるはずであると主は言われるのです。これは、いろいろなことに言えることですね。つらい体験をした人は、そのつらい状態にある人の気持ちが分かる。それゆえ、その人に優しくできるわけです。

 今夕の御言葉を読みまして、私の心に留まった御言葉は、7節後半の「わたしは悪人を、正しいとすることはない」という主の御言葉であります。神様は悪人を、正しいとすることはない御方である。それゆえ、神様は、御自分の独り子を人として遣わされ、十字架の死に引き渡さねばならなかったのだなぁと思ったのであります。私たちは、イエス・キリストにあって罪を赦されて、正しい者とされておりますけれども、それは、「イエス・キリストにあって」なのです。イエス・キリストに結ばれていなければ、私たちが正しい者とされることはありません。なぜなら、神は悪人を正しいとすることはない御方であるからです。イエス・キリストが私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださったゆえに、私たちは正しい者とされたのです。悪人を正しいとすることはない神様は、イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、私たちを正しい者としてくださる御方であるのです。

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