神の望み
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16節~22節
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 “霊”の火を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。テサロニケの信徒への手紙一 5章16節~22節
今朝の御言葉は、前回と同じく手紙を結ぶにあたってのパウロの勧告の言葉であります。パウロは、手紙を閉じるにあたって、テサロニケの信徒たちにこう書き記しています。16節から18節までをお読みいたします。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
この御言葉は、多くのキリスト者が愛唱してきた聖句であります。また、すべてのキリスト者が愛唱すべき聖句でもあります。なぜなら、ここにはっきりと私たちに対する神さまの望みが記されているからです。ここで「望み」と訳されている言葉は、直訳すると「意志」となります。私たちに対する神さまの御意志、神さまの御心がここに記されているのです。
神さまは、私たちにどのように生きることを望んでおられるのか。また、私たちはどのように生きるとき、神さまの御意志に適っていると言えるのか。パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語るのです。「これこそ」の「これ」は、元の言葉をみますと、単数形で記されています。そのことは、「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」という3つの勧告が一体的な関係にあることを教えています。「いつも喜んでいること」「絶えず祈ること」「どんなことにも感謝すること」は互いに密接に結びついている一つのことであるのです。
「いつも喜んでいなさい」というパウロの勧告を読むとき、どこか不自然に感じる方もおられるかもしれません。なぜなら、喜びというものは、他人から命令される感情ではなくて、自分のうちから湧き出てくる自然な感情であると考えるからです。私たちが喜ぶのはどのようなときでしょうか。一般的に言って、自分の望みが適ったとき、自分に良いことが起こったとき、私たちは喜びを感じるのだと思います。しかし、もっと日常的に私たちが経験している喜びは、他の人と心を通わせることができたときではないでしょうか。自分以外の人と、心を開いて色々なことを語り合う。また、自分以外の人の言葉や振る舞いを通して、自分が大切にされていることを知る。そのときに、私たちは心静かな喜びに包まれると思うのです。確かに、欲しい物を手に入れたり、目的を達成したときにも、喜ぶことはありますけども、私たちが日常において体験している喜びは、他者の人格と触れあうといった心の充足にあると思うのです。そう考えてきますと、次の「絶えず祈りなさい」という勧告との繋がりが見えてくると思います。祈りとは、神さまとの人格的な交わりであります。私たちは祈りにおいて、神さまと向き合い、神さまの御旨を問い、神さまに語りかけます。先程、喜びは、他者との人格的交わりによって与えられると申しました。絶えず祈るということは、絶えず神さまとの人格的な交わりの内に生きることですから、そのとき私たちは、いつも喜んでいることができるのです。そうすると、この喜びが、私たちの人間の心を源とする喜びではないことが分かってきます。パウロは、第1章6節で、テサロニケの信徒たちがひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたと記しましたけども、ここでの喜びも、聖霊による喜び、聖霊の結ぶ実である喜びなのです。私たちは、キリスト・イエスの霊、聖霊を与えられている者として、いつも喜ぶことができるものとされているのです。なぜなら、私たちは、祈りを通して、絶えず神さまと共に歩むことができるからです。パウロが「絶えず祈りなさい」と語るとき、その祈りは、声に出して祈るということでは必ずしもないでしょう。もし、そうなら、それは不可能なことです。ですから、ここでの祈りは神さまへと向かう開かれた心のことを言っているのだと思います。イエスさまのこと、神さまのことをいつもどこかで思っている。ふとしたときに、神さまにお祈りしたくなる。苦しんでいる人のことを聞けば、自然と神さまにお祈りしている。そのような祈りの心に生きることをパウロは求めているのです。そして、このような祈りの心に生きるとき、次の「どんなときにも感謝する」ことができるのです。祈りの大切な要素一つは、感謝であります。私たちは絶えず祈りに生きるとき、どのようなことの中にも神さまの恵みを見出し感謝することができるのです。この感謝も、私たちに人間の思いを源とするというよりも、聖霊によってはじめて味合わせていただける感謝であります。といいますのも、これこそ、「キリスト・イエスにおいて」、神さまが私たちに望んでおられることだからです。この「キリスト・イエスにおいて」という言葉がとても大切な言葉なのであります。
この聖句にまつわる一つのエピソードをお話ししたいと思います。わたしが、この教会に赴任して間もなく、あるご婦人が、訪ねて来られました。この方は、お金を貸して欲しい、さもなくば、自分の持っている本を買ってほしいと、教会を訪ねて来られたのでありますが、クリスチャンの友人がおり、自分でも聖書を読んでいるということで話題が聖書のことになりました。そのとき、一つの聖書の個所が自分を苦しめると言われて、指し示したのが、この第5章16節から18節までの御言葉であったのです。そのご婦人は「ここに、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』とあるが、わたしにはそれはできない。それが私を苦しめる」と言われたのです。わたしはそれを聞いたとき、「それはそうでしょう。ここに『キリスト・イエスにおいて』とあるように、これはイエス・キリストを信じている人に対して語られている言葉なのですよ」と申しました。そして、イエスさまのお話をさせていただき、一緒にお祈りをしたのです。このご婦人がどれほどわたしの言ったことを理解されたかは分かりませんけども、そのとき、わたしが改めて教えられたことは、この16節から18節までの御言葉を正しく理解する鍵は「キリスト・イエスにおいて」という言葉であるということです。
もし、「キリスト・イエスにおいて」という言葉を除いて、このところを読むとどのように響くのか。試しに読んでみたいと思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることです。」
このように、「キリスト・イエスにおいて」という言葉を除いて読むとき、先程のご婦人が、自分を苦しめると言ったことの意味も分かってくるのではないでしょうか。「キリスト・イエスにおいて」という言葉を取り除いてしまうとき、この御言葉は冷たい戒律となってしまうのです。なぜなら、キリスト・イエスに結ばれていることこそ、私たちがいつも喜ぶことのできる根拠であり、私たちが絶えず祈ることができる根拠であり、私たちがどんなことにも感謝できる根拠であるからです。私たちの喜びと祈りと感謝の源は、私たちの主イエス・キリストにあるのであります。ですから、この3つの勧告は、「いつも喜んでいなさい」という言葉から始まるのですね。この喜びは、何よりイエス・キリストにあって救っていただいた喜びであります。神さまは、罪の支配のもとに捕らわれ、死すべきものであった私たちを、イエス・キリストの贖いによって、御自分との交わりに生きる者としてくださいました。それゆえ、私たちは、いつも喜ぶことができるのです。いつも喜ぶことのできる救いをいただいているのであります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。ここでパウロは、決して不可能なことを要求しているのではないのだと思います。むしろ、パウロがここで述べていることは、あなたたちは、キリスト・イエスにおいて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができる者とされているということです。「神さまは、あなたたちを、キリスト・イエスにおいて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができる者としてくださった。だからあなたたちは、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とパウロは記しているのです。
そもそも、テサロニケの教会は、人間的に見れば、とても喜べるような状況ではありませんでした。彼らは、同胞の民から苦しめられるという困難の中にありました。また、彼らの中には、既に眠りについた者たちのことで嘆き悲しんでいる者たちもいたのです。そのようなテサロニケの教会に対して、パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と書き記すのです。テサロニケの教会ばかりではありません。神さまは聖書を通して、私たちにも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがに望んでおられることです」と語りかけてくださるのです。
喜びと祈りと感謝、この3つを誰も私たちから奪い取ることはできません。喜びと祈りと感謝、この3つは、神さまがイエス・キリストを通して私たちに与えてくださったものであるからです。神さまは、私たちをいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する人間として造り変えるために、イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、イエスさまは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できるように、聖霊を私たちに遣わしてくださったのです。
19節から22節までをお読みいたします。
霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
先程学んだ16節から18節までが、キリスト者一人一人についての勧告とするならば、この19節から22節までは、信仰共同体としての教会についての勧告と言えます。19節に「霊の火を消してはいけません」とありますけども、これは意訳でありまして、元の言葉には「火」という言葉はありません。ですから口語訳聖書は、このところを「御霊を消してはいけない」と訳しています。神さまの霊、聖霊は、聖書において火にたとえられておりますし、ここで「消す」という言葉は、火を消すときに遣われる言葉ですから、新共同訳聖書が「霊の火」と意訳したのもよく分かります。けれども、わたしは「御霊を消してはいけない」という口語訳にも心ひかれるのです。パウロは、第4章8節で、御自分の聖霊をテサロニケの信徒たちに与え続けてくださる神さまについて語りました。その神さまが与えてくださっている聖霊が消えてしまうのは、どのようなときでしょうか。その答えが続く20節の中に記されています。「預言を軽んじてはいけません」。つまり、聖霊の火は、預言を軽んじるとき消えてしまうのです。
預言とは、聖霊の賜物であり、人を造り上げ、教会を造り上げる言葉であります(一コリント14:3、4)。今は、預言そのものは止んでいますけども、それにあたるのが、礼拝で語られる説教であると言えます。教会が説教を軽んじるとき、その教会に住まう聖霊も消えてしまうのです。それは、そうだと思うのですね。今天におられるイエス・キリストは、この礼拝の場にどのような仕方でご臨在されるのか。それは聖霊においてであります。そして、聖霊が用いられる恵みの手段の最たるものが、御言葉の説教であるのです(ウ小教理問88参照)。聖霊は、御言葉の説教を通して、私たちの心のうちに働きかけてくださる。ですから、教会が、説教を軽んじるとき、聖霊の火は消えてしまうのです。しかし、パウロは、説教者の言ったことは、何でもかんでも受け入れなさいと言っているのではありません。パウロは、続けてこう述べています。「すべてを吟味し、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」。
パウロは、この手紙をコリントで執筆したのでありますが、コリントの教会に対しても、預言について次のように述べています。コリントの信徒への手紙一第14章26節から33節までをお読みします。
兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語り出していた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序な神ではなく、平和の神だからです。
私たちの教会では、神学校で専門的な学びをし、中会によって按手を受け、遣わされた教師が説教をいたします。しかし、当時はそうではありませんでした。コリント教会などの様子からしますと、多くの人が預言を語っていたようです。「主はこう言われる」と言って突然立ち上がって語り出す。そのような光景を想像することができます。そして、その中にはどうも預言とは呼べないものも混じっていたようであります。それゆえ、パウロはコリントの信徒たちに、「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」と書き記すのです。
パウロがテサロニケの信徒たちに「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と語ったのも、おそらくコリントと同じような事情があったからだと思います。「吟味」とは、「物事を詳しく調べて選ぶこと」を言いますけども、パウロがテサロニケの信徒たちに「すべてのものを吟味しなさい」と語るとき、一体何を基準にして吟味することを求めたのでしょうか。その答えを知る手がかりが第2章13節に記されています。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。
使徒パウロが語り、彼らが受け入れた神の言葉、この使徒的教えによって、パウロは預言を吟味することをテサロニケの信徒たちに求めたのです。これを現代の私たちに当てはめて考えますと、礼拝で語られる説教を聖書の御言葉によって、とりわけイエス・キリストの福音によって吟味しなさい、ということであります。そして、このことは誰よりも先ず説教を語る説教者に求められているのです。先程、私たちの教会では、神学校で学びをし、中会によって按手を受け、遣わされた教師が説教すると申しました。私もそのような者ですが、それでは、すぐ説教ができるかと言えば、正直に申しましてできません。私は一つの説教を用意するのに、少なくとも三日は必要とします。一日目は、説教原稿を書く準備をします。ギリシア語の原典から調べ初め、何冊もの注解書を読みます。二日目は、実際にパソコンに向かって、原稿を書きます。そして三日目は、書いた原稿を自分の声に出して読みながら、赤のボールペンで、言葉を削ったり、書き加えて原稿を整えます。時には大幅に書き改めることもあります。そして、主の日の朝、もう一度それを読み直し最後の確認をし、これでようやく礼拝説教として語ることができるのです。このような一連の説教準備が、わたしにとっての、すべてを吟味して、良いものだけを語るための作業であると言えるのです。そして、それができるのは、何より皆さんから経済的に支えられ、それに専念できる時間が与えられているからなのです。
このように、すべてを吟味して、良いものだけを大事にすることは、説教を語る者にも、また説教を聞く者にも求められていることなのです。そして、そのどちらにも言えることは、説教を吟味するのは、私たち一人一人に与えられている聖霊であるということです。ヨハネによる福音書の第16章12節から14節でイエスさまは弟子たちにこう仰せになりました。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたに理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせてくださる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。
聖霊のおもな働き、それは私たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださることです。その聖霊のお働きによって、私たちは説教を吟味し、良いものを堅く保ち、悪いものを退けることができるのです。そして、そのように歩むところに、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する生活が生まれてくるのです。主の日ごとに礼拝に集い、生ける神の御声を聞き続けてこそ、私たちは、キリスト・イエスにおいて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができるのです。