教会を立てるために 2008年12月07日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、
5:13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
5:15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。テサロニケの信徒への手紙一 5章12節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、テサロニケの信徒への手紙一第5章12節から15節までをお読みいたしました。このところは2節ずつ、大きく二つに分けることができます。12節に「兄弟たち、あなたがたにお願いします。」とあり、14節に「兄弟たち、あなたがたに勧めます」とありますように、今朝の御言葉は、兄弟たちへの願いと兄弟たちへの勧めからなっているのです。もう少し詳しく言えば、12節から13節は、教会員が指導者に対して取るべき態度についての願いであり、14節から15節は、教会員同士が互いにとるべき態度についての勧めであると言えます。そして、このどちらも、キリストの教会を立てるために必要なこととしてパウロは述べているのです。パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきましたけども、それは同時にキリストの教会を立てるということでもありました。キリストの福音は、個人個人がそれぞれ信じていればよいというのではなくて、キリストの教会を必然的に生み出すのです。そもそも教会と訳されているエクレーシアという言葉は、「召し出された者の集い」という意味でありました。パウロから福音を聞いて、主イエス・キリストを信じた者たちは、一つの場所に集まり、共に礼拝をささげていたのです。キリストを信じた者たちは、礼拝共同体としての教会を形づくるのであります。そのことは、テサロニケの教会でも、また現代の私たち羽生栄光教会においても同じことであります。人と人とが集まるところ、そこには秩序が必要とされます。秩序のない集まりは、烏合の衆・群衆でしかなく、キリストの教会とは呼べません。そして、その秩序を保ち、造り上げるために、まずパウロは、12節から13節で、次のように述べているのです。

 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。

 「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」これは、現代の私たちの教会で言うならば、長老たちのことであります。ここでの長老たちには、宣教長老と言われる教師も含まれています。私たちの教会では長老を、御言葉に仕える宣教長老と教会を治める治会長老との2つに分けておりますが、ここでは、教師・長老に対して、教会員がどのような態度を取るべきかが教えられているのです。

 パウロは、テサロニケの信徒たちが指導者たちを重んじ、愛をもって心から尊敬するようにと願っています。パウロが、このことを命じるわけでも、勧めるわけでもなく、願っているのは、パウロ自身が、労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている者であったからであると思います。ちょうど、教師であるわたしがこのところから語るのをはばかる思いがあるように、パウロにとって、自分で、自分のような者を重んじ、愛をもって心から尊敬しなさいと語ることははばかる思いがあったと思うのです。しかしそれでも、パウロがこのことをまず語らねばならなかったのは、これによって、キリストの教会が立つか、倒れるかが決まる決定的なことであったからです。そのことは、これと逆のことを考えてみれば、すぐに分かります。もし、「労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」を教会員が軽んじ、ふさわしい尊敬を払わないなら、一体どうなるでしょうか。そこに、キリストの教会は立つでしょうか。わたしは断言しますが、決して立ちません。キリストの教会は、「労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている」教師・長老が重んじられ、愛をもって心から尊敬されることによって立つのです。なぜなら、その教師、長老は、教会員に先立って労苦し、主に結ばれて導き戒めている者たちであるからです。イエス・キリストを救い主と信じ、教会に集う者が、そのイエス・キリストの御言葉を語る教師を軽んじることは、本来あり得ないことです。イエス・キリストを愛する者は、イエス・キリストの言葉を自分たちに語ってくれる教師をも愛するはずであります。また、イエス・キリストを愛する者は、イエス・キリストの教えに従って自分たちの群れを導いてくれる長老をも愛するはずです。

 しかし、ここでパウロは、教師・長老ならば、その人を自動的に重んじ、愛をもって心から尊敬しなさいと述べているのでもありません。13節に「そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。」とありますように、愛をもって心から尊敬されるには、それにふさわしい働きが求められるのです。まず、言われていることは、教師・長老は、「あなたがたの間で労苦する者である」ということです。教師・長老、これは教会を霊的に治める権能を主イエスから委ねられた者たちでありますけども、それは楽をしてよい権利が与えられたということではないのです。むしろ、教師・長老は、教会員に先立って奉仕し、教会のために労苦しなければならないのです。このことは、主イエスが弟子たちに教えられたことでもありました。マタイによる福音書第20章25節から28節にこう記されています。

 そこで、イエスは、一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 キリストの教会において、上に立つものは、皆に仕える者でなければならない。この主イエスの教えに従って、教師・長老は、皆に仕える者、皆の僕となることが求められているのです。教師・長老の労苦は、仕える者としての、僕としての労苦なのであります。教師・長老は、主イエスに倣う者として、皆に仕えるために召し出された者たちであるのです。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 また、教師が導き戒めるのは、何より主に結ばれた者としてであります。教師は主イエスに召され、主イエスに立てられた者として、主イエスの御言葉を語るのです。自分の主義主張を語るのではありません。聖書を解き明かすことによって、生ける神の言葉を語るのです。そして、それゆえに、御言葉の教師は、教会の職務において第一の地位を占めるのです(政治規準第43条)。しかし、もし教師が、説教の名のもとに、自分の主義主張を語ったり、聖書の反する教えを語るのであれば、そのような教師を、重んじる必要はないのです。また、長老の導き戒めるという働きについても同じことが言えます。長老が、聖書の教えに従って導き戒めているならば、重んじなければなりませんが、その導き戒めが、聖書の教えから逸脱しているならば、そのような長老を重んじる必要はないのです。

 このように、このパウロの教えは、ある種の緊張関係を含み持っているわけですね。今朝の御言葉は、教師や長老にとっては、教会のために労苦し、主にあって導き、戒めることを求める御言葉であり、また、教会員にとっては、そのような教師・長老を重んじ、愛をもって心から尊敬することを求める御言葉なのです。そして両者が、そのように振る舞うとき、キリストの教会は健全に成長し、互いに平和に過ごすことができる群れとなるのです。13節の後半の「互いに平和に過ごしなさい。」という御言葉は、これまで語って来たことの帰結であると言えます。教師・長老が、教会員に先立って労苦し、主にあって導き戒めるとき、また教会員が、そのような教師・長老を重んじ、愛をもって心から尊敬するとき、私たちは、キリストの平和の内に歩んでいくことができるのです。

 続いて、教会員同士に対するパウロの勧めについて見ていきたいと思います。14節から15節をお読みいたします。

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。

 このパウロの勧めは、すべての兄弟姉妹に対するものでありますが、先程の教師・長老との繋がりから言えば、特に執事が心して聞くべき勧めであります。ここでパウロは、いくつかのことを思いつくままに述べられているように思えますが、これも、「キリストの教会を立てる」というパウロの願いから出たものであります。パウロは、キリストの教会を立てるために、「怠けている者たちを戒めなさい。」「気落ちしている者たちを励ましなさい。」「弱い者たちを助けなさい。」と勧めているのです。一つずつ見ていきますと、「怠けている者たち」は、「秩序を乱す者たち」とも訳すことができますが、おそらく第3章11節、12節と関係があると考えられております。パウロは、第3章11節、12節でこう述べておりました。「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」テサロニケの教会には、主イエスがすぐに来られると信じ、浮き足立ち、兄弟姉妹に依存して生活をしている者たちがおりました。その者たちを念頭において「怠けている者たちを戒めなさい。」とパウロは勧めているのです。

 また、「気落ちしている者たち」は、「心の小さな者たち」とも訳すことができますが、おそらく第4章13節と関係があるのではないかと考えられています。パウロは、第4章13節でこう述べておりました。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」テサロニケの教会には、既に眠りについた者が、天から来られる主イエスをお迎えする喜びと祝福にあずかれないのではないかと嘆き悲しむ者たちがおりました。その者たちを念頭において「気落ちしている者たちを励ましなさい」とパウロは勧めているのです。

 また、「弱い者たち」でありますが、これは「信仰の弱い者たち」のことであります。異教の風習から抜けきれず、信仰がすぐに揺らいでしまう者たちがいたのかもしれません。ともかく、パウロは、「弱い者たちを助けなさい。」と語るのです。ここで気がつくことは、それぞれの状態によって、その人への接し方が異なるということであります。病によって処方の仕方が異なるように、それぞれの状態によって、その人への接し方が違ってくるのです。怠けている者・秩序を乱す者に対しては、戒めるべきであって、励ましたり、助けたりすべきではないのです。これは当たり前のことのように思えますけども、しかし実際これを見分けるには知恵が必要であると思います。もっと言えば、一人一人に対する主からの愛が必要であると言えるのであります。

 14節の最後のところに、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」とありますが、この忍耐は、パウロがコリントの信徒への手紙一第13章の愛について語る中で、一番初めに上げられているものです。パウロはそこで、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は決して滅びない。」と語っています。この愛の賛歌が「愛は忍耐強い」という言葉から始まることは印象深いことです。パウロは、その愛に基づく忍耐をもってすべての人に接しなさいと語っているのです。そして、パウロが「すべての人に」と語るとき、何より念頭に置かれていたのは、「怠けている者たち」であり、「気落ちしている者たち」であり、「弱い者たち」であったと思います。パウロは、テサロニケの信徒たちに、何度も何度も、その人たちに必要な言葉を語り続け、主に結ばれた者として共に歩み続けるようにと求めているのです。

 話しは変わるようでありますが、先日わたしが、外壁を塗り直している建物の近くを通り過ぎたとき、そこで作業をしていた人が、大きな声で、「あいつ使えねぇよ」と言っているのが聞こえてきました。わたしはそれを聞いたとき、おかしなようですが、どこか懐かしく思えたのです。それは、かつてわたしがアルバイトをしていたとき、よく耳にしていた言葉であったからです。新しいアルバイトの人が入るたびに、社員の方が使える、使えないと評価していたわけですね。しかし同時に思わされたことは、このような言葉が、決してキリストの教会で口にされてはならないということであります。怠けている者たちは、切り捨ててしまえばよい。気落ちしている者たちは、放っておけ。弱い者たちは滅びてしまえばよいと、パウロは決して語りませんでした。怠けている者たちは戒め、気落ちしている者たちは励まし、弱い者たちは助けるようにとパウロは勧めるのです。それも、何度も何度も、その人に必要な言葉を語り、忍耐強く接するようにと命じるのです。それは、イエス・キリストを信じた者が誰一人洩れることなく、主の救いに与り続けるためであります。教会の頭であるイエス・キリストが、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と仰せになったがゆえに、私たちはすべての兄弟姉妹に忍耐強く接することが求められているのです(マタイ18:14)。

 ある説教者は、私たちがすべての人に忍耐強く接するためには、神さまが私たちにどれほどの忍耐をもって接してくださっているかをよく考える必要があると申しております。不信仰で頑なな私たちが、主イエスを信じるために、どれほど神さまは忍耐して来られたでしょうか。いや、主イエスを信じた今でも、神さまは私たちにどれほど忍耐強く接してくださっているかと思わされるのです。そのことをよく考えて、私たちも、兄弟姉妹に対して、忍耐強く接することが求められているのです。聖霊の賜物である愛に基づく忍耐をもって、私たちは主の民として共に歩み続けるよう求められているのです。

 そしてパウロは、私たちが主の民として共に歩み続けるために、15節で、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」と語るのです。

 「悪をもって悪に報いる」これは、生まれついての人間の姿でもあります。私たちは、悪口を言われれば、悪口を言い返すように、悪を受けたら、悪を返す者たちであるのです。教会の外の人の話をしているのではありません。教会においても、悪をもって悪に報いることにより、憎しみが増幅され、教会紛争、さらには教会分裂という事態に落ち込んでしまうことが起こるのです。なぜ、私たちは、悪をもって悪に報いてはならず、いつも善を行うよう努めねばならないのか。それは私たちの主イエスが、そのことを求めておられるからです。山上の説教の中でイエスさまはこう仰せになっています。マタイによる福音書第5章38節から48節までをお読みいたします。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬と打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 少し長く読みましたが、今日のパウロの言葉が、この主イエスの教えに基づくものであることは明かであります。そのことを確認した上で、もう一度テサロニケの信徒たちへの手紙に戻りたいと思います。

 「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」

 これは、相手に左右されないで、いつも善を行いなさいということでありますね。私たちは悪を受けたら、悪を返す。善を受けたら善を返すというように、何を相手から受けるかによって、返すものが違ってきます。けれども、主イエスは、私たちが悪を受けたとしても、いつも善を行うよう努めよと言うのです。相手の悪意に取り込まれることなく、いつも善を行えと言うのです。このことは、およそ不可能に思えるかも知れません。しかし、この善が聖霊の賜物であることに気がつくならばここでパウロが言っていることがお分かりいただけると思います。なぜなら、私たちは、神さまが私たちの悪に対して、いつも善をもって報いてくださることを知っているからです。もし、神さまが私たちの悪に対して、悪をもって報いられたならば、主イエスが遣わされることもなく、ここに集う誰も救われることはできなかったのです。

 ここでの「すべての人」の中には、テサロニケの信徒たちを苦しめる同胞の者たちも含まれています。主イエスが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と仰せになったように、そして、事実、主イエスがそのように歩まれたように、主イエスの弟子である私たちも、すべてに人に対して、いつも善を行う準備ができていなければならないのです。そして、そのように私たちが歩むときに、私たちが主イエス・キリストの弟子の群れがあることが、すべての人に、明かとされるのです。

 この説教のはじめに、今朝の御言葉は、教会員が指導者に対して取るべき態度についての願いと教会員同志が互いにとるべき態度についての勧めからなると申しました。けれども、この二つが、決して切り離すことのできない一つのことであることはよくお分かりいただけたと思います。教会が、労苦し、主にあって導き戒めている人々を重んじ、愛をもって心から尊敬するとき、教会は主の弟子としてふさわしい歩みへと導かれ、キリストの教会として立ち続けることができるのです。私たちがそのように歩み続けていくことができますように、そして、いよいよキリストの教会として成長していくことができますように、心を合わせて、主に祈り求めたいと願います。

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