眠りについた人たち 2008年11月23日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
テサロニケの信徒への手紙一 4章13節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回も申しましたが、第4章、第5章は、テモテから伝え聞いたテサロニケ教会の報告に基づいてパウロが記したものであります。パウロは、第3章10節で、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」と述べておりましたが、パウロは手紙を記すことによって、テサロニケ教会の信仰の欠けを補おうとしたのです。特に、今朝の第4章13節以下は、パウロがテサロニケ教会からの質問状に答えたものと考えられています。

13節にこう記されています。

 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。

 このパウロの言葉から推測しますと、パウロがテサロニケを去った後に、死んでしまった人たちがいたようであります。テサロニケの信徒たちは、自分たちが生きている間に、主イエスが天から来てくださると信じ、待ち望んでおりました。これは、イエスさまが天へと昇られてから、およそ2000年経つ現代の私たちには共感しづらいことであるかも知れません。私たちは、イエスさまが天へと昇られてから2000年近く経ってもまだ来られていないことを知っておりますから、なかなか自分が生きている間にイエスさまが来てくださるとは、考えにくいところがあると思うのです。けれども、テサロニケの信徒への手紙一は、紀元50年頃に記された手紙でありまして、イエスさまが天へと昇られてから、まだ20年ほどしか経っていなかったのです。そして、何よりパウロ自身も、自分が生きている間に主イエスが来てくださると信じ、教えていたのです。15節に「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」とありますように、パウロは、自分が生きている間に、主イエスが来てくださると信じて、福音を宣べ伝えていたのです。それゆえ、テサロニケの信徒たちが、自分たちの生きている間に主イエスは天から来てくださると信じていたのも、もっともなことであったのです。けれども、その彼らを動揺させることが起こったのであります。それが、兄弟姉妹の死でありました。主イエスが栄光に満ちて天から来られるのを、喜びに溢れて皆でお迎えすることを希望としていたテサロニケの信徒たちにとって、自分たちの仲間のある者たちが死んでしまったことは、彼らに動揺を与え、深い悲しみをもたらしたのであります。死んでしまった兄弟姉妹は、主イエスが天から来られるとき、その喜びと祝福にあずかることができないのではないか。そのような不安は同時に、いつ死んでしまうか分からない自分自身への不安となっていたのであります。

 そのようなテサロニケの信徒たちの不安の声に答えるかのように、パウロは 14節でこう述べています。

 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

 ここに、テサロニケの信徒たちが、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しんではならない理由があります。「希望を持たない他の人々」とは、言い換えれば、イエスが死んで復活されたことを信じていない者たちのことです。テサロニケは、ギリシアにある町であり、そこに住む多くの人はギリシア人でありました。多くのギリシア人は、体のよみがえりということを信じませんでした。ギリシア哲学において、体は魂の牢獄であり、救いとは魂が牢獄である体から解き放たれて天へと帰ることであると考えられていたのです。使徒言行録の第17章に、パウロがギリシアのアテネで宣教したことが記されています。パウロの話を聞いていた人々は、死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」とその場を立ち去りました。このことは、死者の復活、体のよみがえりということがギリシア人にとってどれほど受け入れがたいことであったかを教えています。古代のギリシア人だけではありません。私たちの周りの人々のことを考えてみても、死者の復活、からだのよみがえりを真剣に受け入れてもらうことは難しいことであります。イエスが死から復活されたことを信じない者たちにとって、この地上の死はそれこそ絶望であり、癒しがたい悲しみとなります。愛する者を失った悲しみのあまりに、残された者も生きる気力を失ってしまうことが起こるのです。けれども、パウロは、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないでほしい」と語るのです。もちろん、ここで悲しむこと自体が禁じられているわけではありません。愛する者が眠りにつくということは、キリスト者であっても悲しいことであります。ヨハネによる福音書第11章を見ますと、ラザロの墓を前にして、主イエスは涙を流されました。また、パウロ自身もフィリピの信徒への手紙の第2章で、神さまがエパフロディトを瀕死の重病から癒してくださったことを受けて、「彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と語っています。このように、復活を信じるキリスト者であっても、愛する者が眠りにつけば、悲しむのは当然のことなのです。けれども、パウロは、その悲しみが絶望的な悲しみであってはいけない。もう生きる気力も失ってしまうような底知れぬ悲しみであってはいけないと言っているのです。ジャン・カルヴァンは、このところの注解で、こう述べています。「パウロは悲しむことを全然禁じているのではなく、われわれの悲しみに節度を要請しているのである」。私たちキリスト者は、節度をもって悲しむことを求められている。それは、私たちがイエスが死んで復活されたと信じる者たちであるからです。

 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」。ここでパウロは「眠りについて」とは言わず「死んで」と記しています。これは注目すべきことだと思います。そもそも「眠りにつく」とは死んだことの婉曲的な表現です。目を閉じて、横たわっている姿がまるで眠っているように見えることから、死ぬことを眠りにつくと表現するわけですね。そうであれば、パウロはイエスについても「眠りについた」と表現しても良さそうなものであります。けれども、パウロはそのようには記しませんでした。イエスについてははっきりと「死んだ」と記したのです。なぜでしょうか。それは、イエスの死んだ死が、御自分の民の身代わりの死であったからです。イエスの十字架の死、それはゲツセマネの祈りからも分かりますように、全世界の罪に対する神の怒りの杯を、飲み干すことでありました。罪のない、何一つ罪を犯したことがない神の御子が、御自分の民を罪から贖うために、御自身をいけにえとして十字架の上にささげてくださったのです。神から見捨てられるという本当の死を、私たちに代わって十字架の上で死んでくださったのです。イエスさまは、私たちに代わって十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのであります。そのイエスさまを信じる私たちにとって、死はもはや死ではなくなった。死はもはや眠りとなったということであります。ここでパウロが、主イエスを信じる者の死を「眠り」と表現しているのは、ただ死んだことを婉曲的に表現しているのではありません。14節に「イエスを信じて眠りについた人たち」とありますが、イエスが死んで復活されたと信じる者にとって、死はもはや死ではなく、やがて目覚める眠りとなったのです。永遠の眠りではありません。やがて目覚めるしばしの眠りであります。キリストは御自分の死によって、死を司る悪魔を滅ぼされました。キリストは、復活によって死に勝利され、御自分を信じる者たちの初穂となられたのです。そして、神はイエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださるのです。神さまがイエスさまを墓から導き出されたように、イエスさまを信じて眠りについた人たちをも、神さまは墓から導き出してくださるのです。それゆえ、私たちキリスト者は、あまりにも深い悲しみに沈み込んではならないのです。

 テサロニケ教会からの質問、「既に眠りについた人たちは、天から来られる主イエスをお迎えする喜びと祝福にあずかれないのではないか」という質問に対して、パウロは15節から17節でこう述べています。

 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

 パウロは「主の言葉」に言及しておりますが、この「主の言葉」が地上を歩まれたときの主イエスの言葉なのか。それとも、今、天上におられる主イエスの言葉なのかによって、大きく解釈が分かれます。この地上を歩まれたときの主イエスの言葉であれば、パウロが伝承として受けた主イエスの教えに基づくものと考えることができます。しかしながら、福音書を見ましても、ここでパウロが記している言葉と同じものを見つけることはできません。そもそも、主イエスが天から来られる前に、眠りについた人たちはどうなるのかという問題は、主イエスが天へと昇られて初めて起こり得る問題でありました。ですから、イエスさま御自身が、「生き残る者たちが、眠りについた人たちより先になるようなことは決してない」という主旨のことを述べているところが見当たらないのも当然と言えるのです。けれども、その他のところで、福音書に記されていると思われるところがあります。たとえば、パウロは、ここで「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と述べ、自分が生きている間に主が来られると考えていたのですが、マルコによる福音書第9章1節で、主イエスはこう仰せになっています。

 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。

 この主イエスの御言葉から、パウロが自分が生きている間に、主が来られると考えるようになったと推測できるのです。

 また、16節と17節の記述については、福音書の黙示録と呼ばれる主イエスの教えの中に似たものを見つけることができます。マタイによる福音書第24章29節から31節で主イエスはこう仰せになっています。

 その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。

 ここに、パウロが述べていることの原型があると読むことができます。パウロは、初代教会から受けた主の言葉に基づいて、今朝の御言葉を記したと考えられるのです。しかし、それだけでは説明しきれない、新しいこともパウロは述べていますから、それは福音書に記されていない主イエスの言葉を用いたのだと考えることもできるのです。例えば使徒言行録の第20章35節の「受けるよりも与える方が幸いである」という御言葉は、福音書にはありませんけども、パウロは主イエスの御言葉として伝えています。このように、福音書には記されていない主イエスの御言葉があったと考えられるのです(ヨハネ20:30も参照)。

 あるいは、ここでの「主の言葉」を今天におられる主イエスからパウロに啓示されたものと理解し、パウロを新約時代の預言者として見ることもできます。

 わたしとしては、その両方の要素があったのではないかと思いますね。地上を歩まれた主イエスの教えを、霊感を受けたパウロが、解釈し敷衍したことによって、このところは記されたのではないかと思うのです。ちなみに、今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙一第15章において豊かに展開されております。今朝は時間の都合上できませんけども、今朝の御言葉とコリントの信徒への手紙一第15章を合わせて読んでいただくと、より深くパウロの教えを味わうことができると思います。

 パウロが、主の言葉に基づいて伝えたこと。それは「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」ということでした。つまり、眠りについた者たちが、主が来られる日まで生き残っている者たちよりも、喜びや祝福において遅れをとることはないということです。眠りについた者たちも、主が来られる日まで生き残る者たちと一緒に、栄光の主をお迎えする喜びと祝福にあずかることができるということです。そして、そのことをパウロは、主イエスが語られた黙示文学の言葉を用いて16節と17節で記しているのです。神さまが合図の号令をかけると、大天使の声が聞こえ、神のラッパが鳴り響き、主イエス御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられると言うのです。

 パウロは、14節の後半で、「神はイエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と語りましたけども、神さまがイエスさまを信じて眠りについた者たちを墓から導き出してくださるのは、主イエスが天から降って来られるときなのであります。しかし、ここで誤解してはならないのは、眠っていたのは彼らの体だけであって、彼らの魂は眠っていたのではないということです。聖書によれば、死とは体と霊魂が分かたれることでありますが、眠りにつくのは体だけであって、魂は清められ、直ちに栄光へと入れられるのです。私たちが主の日ごとに告白しているウェストミンスター小教理問答の問37は「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか」と問い、次のように告白しています。「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」。

 主イエスが来られるとき、キリストに結び合わされた信者の体は栄光あるものに復活させられて、全く清められた霊魂と再び一つとなるのです。そのようにして、聖霊によって完全に支配された、聖において非のうちどころのない者として復活するのです。

 また、今朝の御言葉には記されておりませんけども、コリントの信徒への手紙一の第15章を読みますと、生き残っている者たちも、神のラッパが鳴ると、たちまち一瞬のうちに、朽ちないものへと変えられることが記されています。コリントの信徒への手紙一第15章50節から52節でパウロはこう述べています。

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

 私たちは、このところから復活した死者だけではなく、生き残っている者たちも朽ちることのない栄光の姿に変えられることが分かるのです。生き残っている者たちは、死と復活を経験することなく、生きたまま栄光の姿に変えられるのです。

 既に眠りについた者たちも、主イエスが来られる日まで生き残る者たちも、同じように朽ちることのない栄光の姿へと変えられるのでありますけども、それはどちらも、キリストに結び合わされている者たちであるからです。16節に「キリストに結ばれて死んだ人たち」とありますが、私たちとキリストとの絆は、死によって断ち切られるものではありません。私たちとキリストとの結びつきは、死を越えて続いていくのです。神さまは私たちを死の中にあっても、しっかりと捕らえていてくださるのです。そしてここに、神さまがイエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださると信じることのできる根拠があるのです。死を越えた確かさ、それは私たちの内にあるのではありません。死を越えた確かさ、それは死んで復活されたイエス・キリストにあるのです。イエスを死から3日目によみがえらせた父なる神の全能の御力にあるのです。

 パウロは、このテサロニケの信徒への手紙を書いたとき、自分が生きている間に主イエスが天から来てくださると考えておりました。約束の聖霊は、主イエスが天に昇られてからわずか10日後に与えられたわけですから、この期待はあながち検討違いとは言えないと思います。また、先程読みましたコリントの信徒への手紙一でも、パウロは自分が生きている間に、天から主イエスが来てくださると考えていたことが分かります。けれども、パウロの晩年の手紙を読みますと、パウロはもう一つの可能性について述べるようになるのです。それは、自分が死んで、自分の方から主イエスのもとへと行くことであります。フィリピの信徒への手紙は、牢獄の中で死と隣り合わせにあったパウロが執筆したものでありますけども、その第1章21節から23節にこう記されています。

 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

 ここでパウロは、死を通して、自分の方から主イエスのもとへ行くことを熱望しております。今朝の御言葉で言えば、パウロは、主が来られる日まで生き残る者たちから、自分を既に眠りについた者たちの立場に置き換えていると言えるのです。そして事実、パウロが生きている間に、主イエスは天から来られませんでした。パウロの体は墓の中で休み、その霊魂は全くきよめられ、直ちに栄光へと入れられたのであります。パウロは霊魂において、今、キリストと共にいるのです。そして、天上で主イエスを仰ぎつつ、主イエスの再臨による、体の復活を待ち望んでいるのです。

 このように、キリストに結ばれている者は、主イエスが来られる前に、眠りについたとしても、霊魂において主イエスと共にいることになるのです。こう聞くと、私たちキリスト者が、主イエスと共にいることができるのは確実であることが分かってきます。主イエスが生きているうちに来られなくても、私たちの霊魂は死んだのちに、主イエスのもとに行くことができるのでありますから、私たちが主イエスといつまでも共にいることになるのは確かなことなのです。けれども、今朝の御言葉が教えている祝福はそれだけではないのです。今朝の御言葉でパウロが教えている祝福は、すでに眠りについた者たちも、主が来られる日に生き残っている者たちと一緒に、天から来られる主イエスをお迎えすることができるということなのです。ある人が申しましたように、キリスト者である以上、主イエスが自分が生きている間に来てくださることを祈りつつ生きることは当然のことであります。けれども、そうは言っても、もう2000年近く来ていないのだから、自分が生きている間に主イエスは来てくださらないかも知れないと思うのです。そして、「天から来られるイエスさまを生きてお迎えすることができる人たちは幸いだなぁ」と羨ましく思うのです。そのように思いつつ、まぁ、死んでもイエスさまのもとに行けるのだから良しとするかと考えるのですね。けれども、今朝の御言葉によれば、そうではないのです。もし、私たちが主イエスが来られる日までに、眠りについていたとしても、私たちは復活させられ、その時代に生きているキリスト者たちと共に、空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられるのです。17節で「出会うために」と訳されている言葉は「出迎えるために」とも訳すことができます。主イエスに結ばれている私たちは、主イエスが来られる日までに生き残っていなくとも、復活させられ、天から来られる栄光の主イエスをお迎えすることができるのです。栄光の主イエスをお迎えする喜びと祝福から、キリストに結ばれている者はだれも洩れることはないのです。そのとき、私たちは身も心も、いつまでも主イエスと共にいることになるのです。

 この説教を聞きながら、おそらく皆さんが思い起こしておられたのは、11月13日に天に召されたO姉妹のことであると思います。O姉妹は、文字通り、主イエスを信じて眠りにつきました。しかし、O姉妹の霊魂は、清められ、今主イエスと共にあります。ヨハネの黙示録の第4章に天上の礼拝の光景が描かれておりますけども、O姉妹の霊魂は、今天上にあって、無数の聖徒たちと共に主イエスの御顔を仰いでおられるのです。そのことを、私たちは主の日の礼拝ごとに思い起こしたいと思うのです。そして、再び顔と顔とを合わせ、天から来られる栄光の主イエスを共にお迎えすることを私たちの励ましとしたいのであります。

 ご存じのように、O姉妹の葬儀は、11月15日に仲島教師の司式により、この所で行われました。葬儀を終えて、出棺となり、わたしもご遺族の方と共に斎場へと向かいました。わたしが火葬式を司りましたけども、斎場では、残念ながら讃美歌を歌うことができず、聖書の朗読と祈りだけとなりました。ご遺体を火葬する前に、職員の方が「最後のお別れでございます。」と言って、棺を釜戸の中へと入れました。それを聞いて、わたしは「そうではない」と思ったのです。キリストに結ばれている私たちにとって、この地上の別れは最後のお別れではありません。私たちは、この地上で共に主を礼拝したように、天上でも共に主を礼拝するのです。そればかりか、天から来られる主イエスを共にお迎えすることができるのです。そして、私たちはいつまでも主イエスと共にいることになるのです。17節の最後の「わたしたち」は、生き残っている者たちとすでに眠りについた者たちの両方を含める「わたしたち」であります。主イエスに結ばれて死んだ者も、主イエスに結ばれて生きている者も同じ主の祝福にあずかることができるのです。

 パウロは18節で、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」と述べております。ここで「励ます」と訳されている言葉は「慰める」とも訳せます。愛する者を失ったご遺族を慰めることができのは、死んで復活された主イエスの御言葉だけであります。葬儀の目的の一つはご遺族への慰めでありますけども、そこで主イエスの御言葉が語られるのはまことにふさわしいことなのです。ご遺族だけではありません。主イエスは、愛する姉妹を天へと送った私たち羽生栄光教会に、今朝の御言葉をもって慰めと励ましを与えてくださったのです。

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