あふれる喜び 2008年10月19日(日曜 朝の礼拝)
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あふれる喜び
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- 村田寿和 牧師
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テサロニケの信徒への手紙一 3章6節~10節
聖書の言葉
3:6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。
3:7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。
3:8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
3:9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
3:10 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。テサロニケの信徒への手紙一 3章6節~10節
メッセージ
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パウロは、テサロニケの教会に宛てたこの手紙を、コリントにおいて書き記したと考えられています。どのような経緯でこの手紙が執筆されることになったのか。そのことを教えてくれるのが、今朝の6節の御言葉であります。
ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。
パウロは、テモテがもたらしたうれしい知らせを受けたすぐあとに、この手紙を執筆したと考えられているのです。ここで「うれしい知らせ」と訳されている言葉は、通常は「福音」と訳される言葉であります。聖書において、福音とはイエス・キリストにおいて起こった神の救いの出来事を指す言葉でありますが、パウロは、テサロニケの信徒たちの信仰と愛についての知らせを福音と呼んでいるのです。それほどパウロにとって、テモテからの知らせは、大きな喜びをもたらすものでありました。このことは、パウロがテサロニケの信徒たちのことをどれほど心配していたかを思うならばよく分かります。パウロは、自分たちをテサロニケの信徒たちから引き離された孤児のように感じておりました。パウロは一度ならずテサロニケへ行こうとしたのですが、サタンによって妨げられてきたのです。そこで、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをテサロニケへ派遣することにしたわけです。5節には、その動機と目的がこう記されております。「そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」
このようにテサロニケの信徒たちのことを心配していたパウロでありますから、テモテがもたらした知らせは、パウロにとってまさに福音であったのです。8節に、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているならば、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」とありますように、それはパウロたちを生き返らせ、福音宣教者として立たしめるうれしい知らせであったのです。
このときの様子を使徒言行録は次のように記しております(使徒18:5)。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。
マケドニア州からシラスとテモテが、コリントにいるパウロのもとにやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念いたしました。それは、二人がマケドニア州の教会からの献金を携えてやって来たということもありますけども(二コリント11:9)、しかしそれだけではなかったわけです。パウロは、テモテからテサロニケの信徒たちについての福音を聞いて、大きな喜びに満ちあふれ、再び力を得たのでありました。ですからパウロは、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しすることができたのです。私たちは、パウロと聞きますと、力にあふれて大胆に福音を宣べ伝える姿を想像するのだと思います。けれども、いつでもそうであったわけではないのです。パウロも人間でありまして、ときには恐れに取りつかれ、意気消沈してしまうこともあったのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一の第2章3節で、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と述べております。使徒言行録に記されているパウロの歩んだ道筋をたどるとき、私たちは、このときのパウロの恐れ、不安がどのように生じたのかを推測することができます。パウロは、第二回宣教旅行においてヨーロッパ宣教へと乗り出すわけでありますが、フィリピにおいても、テサロニケにおいても、ベレアにおいても、引き起こされる騒動のゆえに、町を去らなくてはなりませんでした。パウロはシラスとテモテをベレアに残し、単身アテネで宣教するのでありますが、結果は思わしいものではありませんでした。信仰に入った者も何人かおりましたけども、アテネにおいてキリストの教会は生まれなかったのです。このような状態でありましたから、パウロがコリントに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であったのは無理のないことであったのです。そして、このパウロの不安の中に、テサロニケの教会についての不安が含まれていたのです。パウロは、テモテの到着を待ちながら、テサロニケの信徒たちが誘惑する者に惑わされ、キリストへの信仰を捨ててしまうのではないかと案じていたのです。もしそうならば、自分たちの労苦が無駄になってしまう。それはかりか、自分は福音宣教者として立つことができなくなってしまう。そのような恐れ、不安をパウロは抱いていたのです。このパウロの不安は、わたしにも少し分かるような気がいたします。わたしは神さまの召しを受けたと確信し、牧師となった者でありますけども、わたしが牧師であると言えるその根拠は、神さまから羽生栄光教会という群れをゆだねられていることにあるわけです。ですから、皆さんが信仰と愛に満ちあふれ、主にしっかりと結ばれているならば、わたしは神さまが自分をこのところに遣わしてくださったのだといよいよ確信することができるわけです。パウロは、ダマスコ途上において、文字通り栄光の主イエスにまみえ、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として召し出されたのでありますが、その召命の確かさも、自分が福音を告げ知らせたテサロニケの教会が主にしっかりと結ばれているかどうかにかかっていたのです(一コリント9:2参照)。少なくともパウロはそのように考えていたわけですね。そして、そのパウロの召命の確かさへの問いは同時に、神さまの真実への問いと結びついていたわけです。神さまが自分を福音宣教者として召し出してくださった。それならば、福音を聞いて信じる者たちが起こされるはずであります。もし、そうでないならば、神さまの真実を問わざるをえないと思うのです。けれども、テモテがもたらした知らせは、そのようなパウロの不安を見事に吹き払ってしまう良い知らせであったのです。パウロはテモテから、テサロニケの信徒たちは信仰と愛に歩み続けていること。また、彼らがいつも好意をもってパウロたちを覚え、しきりに会いたがっていることを伝え聞いたのでありました。
パウロは、このテモテからのうれしい知らせを受けて、「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。」と述べています。こう聞いておやっと思う方もおられるかも知れません。そもそもパウロがテモテを派遣したのは、テサロニケの信徒たちを励ますためでありました。けれどもここでは、そのパウロたちが、テサロニケの信徒たちの信仰によって励まされたと言うのです。このようなことは、私たちもしばしば経験することでありますね。困難の中にある兄弟姉妹を励まそうと訪問する。あるいはお見舞いにお伺いする。けれども、その場を立ち去るとき、しばしば気がつくことは、励ましに来た自分の方が、かえって励まされるということであります。それは、苦難の中にあっても、主にしっかりと結びついているそのお姿を目の当たりにするからでありますね。ここで、パウロたちが励まされたと語るのも同じ理由からであります。2節にありますように、パウロがテモテを派遣したのは、テサロニケの信徒たちの信仰を励まし、信仰を強め、苦難の中に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでありました。けれども、テモテからテサロニケの信徒たちの信仰と愛について聞いたとき、あらゆる困難や苦難に直面していたパウロたちが大きな励ましを受け、信仰を強められたのです。
パウロは、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」と言えるほどに、自分たちとテサロニケの信徒たちが、同じ一つの命に生かされていると考えておりました。それは言うまでもなく、イエス・キリストにある命であります。パウロは、自分の救いは、テサロニケの信徒一人一人の救いと一体的な関係にあると考えていたのです。そして、そのような認識が、パウロをいつもテサロニケの信徒たちのために祈る者としていたのです。ここで「主にしっかりと結ばれている」と訳されている言葉は、直訳すると「主にあってしっかりと立つ」となります。テサロニケの信徒たちは、動揺することも惑わされることもなく、しっかりと主に結ばれて立ち続けていたのです。そしてパウロはそこに神さまの御業を見ているのです。私たちが互いの信仰によって励まされる、その根拠も実はここにあるわけですね。困難の中にあっても主に結ばれてしっかりと立ち続けている。私たちはそこに力強い神さまの御業を見るわけです。ただあの人もつらい中にあってがんばっているのだから、わたしもがんばろうというのではなくて、その人のうちに神さまの御業を見るがゆえに、私たちの信仰は励まされるのです。
前回も少し触れましたが、パウロは、テサロニケの信徒たちを迫害する者たちの背後に、誘惑する者、サタンの働きを見ておりました。しかし、テサロニケの信徒たちは、その誘惑を退け、主に結ばれてしっかりと立ち続けていたのです。それは彼ら自身の力によるものというよりも、彼らのうちに働く神の言葉によるものであったのです。第2章13節に、「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」とありましたけども、パウロが去ったのちも、パウロが語った神の言葉は、テサロニケの信徒たちの中で働き続けていたのです。このことは、テサロニケの信徒たちが、いつも好意をもってパウロたちを覚え、しきりに会いたいと望んでいたことからも分かります。テサロニケの信徒たちは、ただ人間的な思いからパウロたちのことを好意をもって覚え、会いたいと願っていたのではないと思います。彼らはパウロが伝えてくれた神の言葉に留まり続けていたからこそ、パウロたちに好意を寄せ、しきりに会いたいと願っていたのです。彼らは、もう一度パウロに会って、親しく神の言葉を聞きたいと願っていたのです。テサロニケの信徒たちにとっても、パウロたちは「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」と言える存在であったのです。それは生ける神の言葉を語ってくれる説教者がいてはじめて、教会もキリストの命に生きることができるということであります。
テサロニケの信徒たちは、彼らのうちに働く神の言葉によって、また神の言葉を神の言葉として受け入れさせてくださる聖霊のお働きによって、主に結ばれてしっかりと立ち続けておりました。それゆえパウロは、この大きな喜びに対する絶大なる感謝を、他でもない神さまにささげているのです。神さまにテサロニケの信徒たちのことをいつも祈っていたパウロであるからこそ、テサロニケの信徒たちにではなく、ましてや自分たちにでもなく、神さまに感謝をささげることができたのです。9節にこう記されています。
わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
ここで「ささげたらよいでしょうか」と訳されている言葉は、直訳すると「恩返ししたらよいでしょうか」となります。神さまにいつもお願いをしている。その願いがかなえられていることを知ったとき、パウロはどのように神さまに恩返しをしたらよいのでしょうか。感謝しても感謝しきれないほどですと言っているのです。
わたしはこの説教を準備する前に、このパウロの大きな喜びに私たちがあずかれるような、そのような説教ができればいいなぁと考えておりました。けれども、その準備をしながら、私たちがこのパウロの喜びに直接あずかることはできないと思わされたのです。なぜなら、私たちはテサロニケの信徒たちのために、一度も祈ったことがないからです。テサロニケの信徒たちのために祈ったことのない私たちが、大きな喜びにあずかろうとしても不可能であります。テモテからの知らせが、福音となり、大きな喜びとなったのは、それはパウロがいつもテサロニケの信徒たちのために祈っていたからなのですね。このことは私たちにとても大切なことを教えていると思います。それは、私たちが神の御前に喜びにあふれたいなら、神さまに願い求めなければならないということです。イエスさまがヨハネによる福音書の第16章23節、24節で仰せになっている通りです。イエスさまは、弟子たちにこう仰せになりました。
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
私たちが互いのために、願い求めるならば、私たちは共に神の御前に喜びにあふれ、共に神さまに感謝をささげることができるのです。私たちの交わりは、主にある交わりでありますけども、それは主イエスの御名による祈りの交わりであるとも言えるのです。私たちは、互いのために祈り願うことによって、喜びと感謝を分かち合うことができるのであります。
お配りしている週報に、祈りの課題を載せておりますけども、そこでしばらく前から祈っておりますことは、O姉妹とS姉妹のことであります。その姉妹たちのために祈るとき、私たちはいつも喜びと感謝を期待して祈っているのではないでしょうか。姉妹たちのことに限られず、私たちの願いごとには、喜びと感謝の予感がいつも伴っていると思うのです。イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神さまは、必ず私たちの願いごとを聞き上げ、私たちを喜びで満たし、感謝をささげさせてくださる。その実例が、今朝の御言葉に記されているパウロの姿なのです。私たちは、このパウロの姿から、イエスさまの「わたしの名によって願うならば、父はそれをかなえてくださる。あなたたちは喜びで満たされる。」という御言葉が真実であることを知るのです。この喜びにあふれるパウロの姿に、主イエスの約束の確かさを見るとき、今朝の御言葉は、私たちにとってもうれしい知らせ、福音となるのであります。