同胞からの苦しみ 2008年9月14日(日曜 朝の礼拝)
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同胞からの苦しみ
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- 村田寿和 牧師
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テサロニケの信徒への手紙一 2章14節~16節
聖書の言葉
2:14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。
2:15 ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、
2:16 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。テサロニケの信徒への手紙一 2章14節~16節
メッセージ
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今朝は、テサロニケの信徒への手紙一第2章13節から16節までをお読みいただきました。前回、13節についてはお話ししましたので、今朝は、14節から16節までを中心にお話ししたいと思います。
14節をお読みいたします。
兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。
もとの言葉を見ますと、この14節のはじめには、「なぜなら」とか「というのは」と訳される接続詞が記されています。つまり、前の13節との繋がりの中で、14節が語られているということであります。13節を途中からお読みしますと、こう記されておりました。「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」この言葉に続けて、「というのは、兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となったからです。」と記されているのです。そして、どのような点において倣う者となったのかと言えば、それは同胞から苦しめられるという点においてであったのです。つまり、神の言葉がテサロニケの信徒たちの内に現に働いていることの具体例として、彼らが同胞からの苦しみに堪えて、信仰に留まり続けていることが語られているのです。
パウロは、「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。」と語っておりますが、テサロニケの教会は意図して、ユダヤの諸教会に倣おうとしたわけではなかったと思います。テサロニケの教会が同胞から苦しめられている、その現実を前にして、パウロは、そのあなたがたの姿は、ユダヤの諸教会と同じであると語ったのです。キリストを信じて、救われたなのに、なぜ、同胞からの苦しみを受けなければならないのか。これは、テサロニケの信徒たちが抱いた素朴な疑問であったと思います。しかし、パウロはその彼らに、あなたがたはユダヤの諸教会に倣う者となったと言うのです。あなたたちだけが同胞から苦しめられているのではない。それはユダヤに誕生した教会が最初から被ってきた苦しみであるとパウロは記すのです。ユダヤの諸教会がどのような苦しみを受けていたのか。詳しくは分かりませんが、使徒言行録を見ると、ステファノの殉教を引き金として、エルサレムの教会に大迫害が起こり、使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリア地方に散って行ったと記されています。その迫害の急先鋒は、この手紙を記しているパウロ自身でありまして、家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていたのです。パウロの迫害の手は、遥か遠くダマスコへと伸びておりますから、エルサレムだけではなく、ユダヤ地方全体に迫害が広がっていたと推測することができます。
また、ヘブライ人への手紙の第10章32節以下も、ユダヤの諸教会が同胞からどのような苦しみを受けていたかを教えてくれます。ヘブライ人とは、ユダヤ人の別名でありますから、ここにユダヤの諸教会が被った苦しみを読み取ることもゆるされるかと思います。ヘブライ人への手紙第10章32節から36節をお読みいたします。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられ、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たち仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
ヘブライ人への手紙は、キリストへの信仰を捨てて、ユダヤ人の会堂に戻ろうとする者たちに宛てて記された手紙であると考えられています。イエス・キリストへの信仰を捨てて、ユダヤ人の会堂に戻ろうとしている者たちに、「光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えたはじめのころのことを、思い出してください。」とヘブライ人への手紙の著者は訴えるのです。そして、当時、彼らが被った同胞からの苦難についてこう記すのです。「あざけられ、苦しめられ、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」なぜ、ユダヤの諸教会の人々は、財産を奪われても、喜んで耐え忍ぶことができたのか。それは、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからであったのです。「もっとすばらしい、いつまでも残るもの」、それは言うまでもなく、神の国であり、永遠の命であります。イエス・キリストを信じた私たちは、すでに神の国の祝福に生かされている、父なる神さまとの永遠の愛の交わりに生かされている。そのことを知っているがゆえに、ユダヤの諸教会の人々は、同胞からの苦しみに耐えることができたのです。このことは、テサロニケの信徒たちにもすっかりそのまま当てはまると思います。これほど激しい戦いではなかったかも知れませんけども、彼らが同胞からの苦しみに耐えることができたのは、自分が神の国の祝福に生かされている、永遠の命に生かされていることを知っていたからなのです。そして、それは言葉を換えて言えば、彼らの内に、神の言葉が生きて働き続けていたからなのであります。前回も申し上げましたように、神の言葉は、神の御霊によって、私たちの内に生きて働く力となります。そして、神の御霊は、神の言葉を通して、私たちの内にイエス・キリストへの信仰を生じさせるのです。私たちの舌に「イエスは主である」という信仰の告白を語らせてくださるのです。
苦しみを受けるということは、普通の人間感情から言えば、避けたいことであります。同胞からの苦しみならばなおさらです。テサロニケの信徒たちは、その苦しみにあっておりました。彼らは、イエス・キリストを信じたがゆえに、同胞の民から苦しめられていたのです。ですから、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまえば、彼らは同胞からの苦しみからも解放されるのです。けれども、彼らはそれをしませんでした。と言うよりも、できなったのだと思います。なぜなら、彼らの内に、神の言葉が働いているからです。彼らの内に、神の御霊が宿っておられるからです。ここで思い起こすべきは、コリントの信徒への手紙一第12章3節の御言葉であります。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。
神の言葉に生かされているテサロニケの信徒たちにとって、イエス・キリストへの信仰を捨てることはできないことでありました。なぜなら、聖霊が御言葉を通して、私たちに「イエス・キリストは主である」との確信を与えてくださっているからです。私たちの心の最も奥深いところで、神の御霊が「主イエスは生きておられる」と叫び続けているからです。ですから、テサロニケの信徒たちは、意図してユダヤの諸教会に倣おうとしたわけではないのです。ましてや意図的に、同胞から苦しめられようとしたわけでもないのです。同胞からの苦しみ、それはイエス・キリストと結ばれて歩むとき、避けて通ることのできないことなのです(二テモテ3:12)。いやむしろ、それはキリスト者であることのしるしであるとさえ言えるのです。このことは、続く15節、16節を学ぶときによりはっきりとしてきます。15節、16節をお読みいたします。
ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。
なぜ、ここに「ユダヤ人たち」が出てくるのかと不思議に思う方もおられるかも知れません。14節の「ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会」という言葉との関連から、パウロは「ユダヤ人たち」について記したとも理解することができます。しかし、わたしが思いますに、この「ユダヤ人たち」は、ユダヤ地方に住むユダヤ人に限られず、テサロニケに住んでいるユダヤ人をも含んでいると思います。14節に、「同胞」という言葉がありましたけども、もとの言葉は、同じ民族の人々というよりも、同じ地域に住む人々を指す言葉なのです。ですから、テサロニケの信徒たちを苦しめた同胞には、テサロニケに住んでいるユダヤ人たちも含まれていたと言えるのです。このことは、使徒言行録第17章が伝えていることとも一致しています。使徒言行録の第17章1節から10節の途中までをお読みいたします。
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者のところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。
ここに、テサロニケの信徒たちが被った苦しみの一端が記されています。この騒動を引き起こしたのは、テサロニケに住んでいたユダヤ人たちでありました。そして、パウロが去った後も、ユダヤ人たちは民衆を巻き込んでテサロニケの信徒たちを苦しめていたと考えられるのです。
なぜ、ユダヤ人たちは、パウロたちを、またテサロニケの教会を迫害したのでしょうか。その根っこにあるものをパウロは、「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺した」という言葉によって言い表しています。ユダヤ人たちが、パウロたちを、またテサロニケの信徒たちを迫害するのは、主イエスと、主イエスの到来を指し示してきた旧約の預言者たちへの迫害に遡るというのです。このことは、主イエスが、「ぶどう園と農夫」のたとえで教えられたことでもありました(ルカ20:9以下)。ぶどう園の主人は、農夫たちのもとに、つぎつぎとしもべを遣わすのでありますが、皆ひどい目にあって追い返されてしまう。最後に、愛する息子なら敬ってくれるだろうと期待して遣わすのでありますが、農夫たちはそれが跡取り息子であることを認めると、敬うどころか、相続財産を手にするために殺してしまうのです。言うまでもなく、ぶどう園の主人は神さまを、農夫たちはイスラエルの指導者たちを、しもべたちは旧約の預言者たちを、愛する息子はイエスさま御自身を指しております。そして、実際に、イスラエルの指導者たちは、神さまから遣わされた預言者たちの言葉を理解せず、神の独り子を十字架につけて殺してしまうのです。この最高法院の罪を、大胆に告発したのが、殉教の死を遂げたステファノであります。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
ユダヤ人たちが、テサロニケの教会を迫害するのは、彼らが、主イエスと預言者たちを迫害したことと連続線上にあるのです。そして、このことは、主イエスが、弟子たちに前もって語っておられたことであったのです。ヨハネによる福音書の第15章18節から21節で、イエスさまはこう仰せになっております。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」
このイエスさまのお言葉を覚えるとき、イエス・キリストを信じるテサロニケの信徒たちが、同胞の民から苦しみを受けることの理由が明かとなります。それは、私たちの主イエスも、同胞から苦しめられたお方であるからです。私たちの主は十字架の主であるからです。私たちが、文字通りユダヤ人から迫害を受けるということはないと思います。けれども、主イエスを信じない同胞から苦しみを受ける、キリスト信者であるがゆえに、のけ者にされたり、悪口を言われたりすることはあると思います。自分の家族からも嘲られ、寂しい思いを抱くということがあると思います。ここでパウロが抱いている思いも、そのような思いであったのではないでしょうか。確かにパウロは今朝の御言葉で、ユダヤ人たちについて大変厳しい言葉を述べておりますけども、しかし、それは彼らの滅びを願う、呪いのような言葉ではないのです。なぜなら、パウロは、ローマの信徒への手紙第9章で、同胞のユダヤ人に対する並々ならぬ思いを記しているからです。ローマの信徒への手紙第9章1節から5節で、パウロはこう述べております。
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから引き離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
私たちは、このように語ったパウロが、今朝の御言葉を記していることを忘れてはなりません。ある人は、パウロの厳しいユダヤ人への言葉は、ユダヤ人への激しい愛のゆえであったと申しております。パウロがここで述べていますように、イスラエルの民こそ、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束を与えられた者たちでありました。彼らこそ、主イエス・キリストを受け入れるようにと備えられた神の民であったのです。けれども、その彼らが、こともあろうに主イエスを殺してしまう。そして、今もパウロたちを迫害し、イエス・キリストの教会を迫害していたのです。このことを覚えるとき、パウロはユダヤ人の罪をあばかずにはおれなかった。同胞の民を愛すればこそ、彼らの罪を罪としてあばかざるを得なかったのです。ローマの信徒への手紙は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる教会に宛てて記された手紙であります。他方、テサロニケの信徒への手紙は、ユダヤ人から苦しめられている異邦人教会に宛てて記された手紙でありますから、語り口が異なるのは当然のことであります。けれども、パウロから、同胞のユダヤ人に対する愛が消えたことは決してありませんでした。パウロ自身もかつて神の教会の迫害者であったがゆえに、深い悲しみをもって同胞の救いを祈り求めていたのです。パウロが、町を訪れるごとに、まずユダヤ人の会堂を訪れ、福音を告げ知らせたのは、その思いの現れであると言えるのです。
それでは、今朝の御言葉の最後の言葉、「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。」という言葉を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。まず確認しておきたいことは、このパウロの言葉は、ユダヤ人のうえに、神の怒りがくだることを願い求める言葉ではないということです。むしろ、この言葉は、テサロニケの信徒たちが自分で復讐せずに、神の裁きにゆだねることを求める言葉なのです。そのことはローマの信徒への手紙第12章14節から19節までの御言葉と重ね合わせて読むならば、お分かりいただけると思います。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
このローマ書の言葉と重ね合わせて、「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」という言葉を読むとき、このパウロの言葉が、決してユダヤ人たちの滅びを願うものではなく、神さまの裁きにゆだねることを促す言葉であることが分かるのです。そのことを聞き損なうとき、今度は逆にキリスト者がユダヤ人を迫害するということが起こるのです。そして実際、教会の歴史において、今朝の御言葉を一つ論拠として、ユダヤ人への迫害が正当化されたことがあったのです。けれども、それは正しい解釈に基づくものとは言えません。「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」とのパウロの言葉は、テサロニケの信徒たちが自らの手で報復せずに、神の怒りにゆだねることを求める言葉なのです。何より私たちは、主イエスが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とお命じになったことを忘れてはならないのです(マタイ5:44)。そして、主イエスはそのお言葉通り、自分を十字架につける者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」とお祈りになられたのでありました(ルカ23:34)。
イエスさまは今朝、私たちにも自分を苦しめる同胞の救いを祈りつつ、すべてを神さまの御手にゆだねることを求めておられます。このイエスさまの御声に聞き従うとき、神の言葉が私たちの内にも現に働いていると言うことが分かるのです。