私たちの愛する者 2008年8月31日(日曜 朝の礼拝)
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テサロニケの信徒への手紙一 2章5節~12節
聖書の言葉
2:5 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。
2:6 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。
2:7 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
2:10 あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。
2:11 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に
2:12 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。テサロニケの信徒への手紙一 2章5節~12節
メッセージ
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前回も申し上げましたが、第2章は、テサロニケでの働きについてのパウロの弁明の言葉であると読むことができます。パウロたちが、テサロニケを去った後に、ユダヤ人たちは、パウロたちについて中傷、非難し、異邦人が救われるのを妨げていたのでありました。たとえば、ユダヤ人たちが中傷、非難していたことに、パウロたちの宣教の動機があります。パウロは3節で、「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。」と述べておりますが、このところから、ユダヤ人たちが、パウロたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものであり、ごまかしであると中傷、非難していたと考えられるのです。しかし、パウロはそれを真っ向から否定し、こう述べるのです。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」パウロたちの宣教の動機、それは恵みによって自分を認め、福音をゆだねてくださった神さまに喜んでいただくということであったのです。このような文脈を念頭におきつつ、今朝は、5節以下を御一緒に学びたいと思います。
5節をお読みいたします。
あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては神が証ししてくださいます。
このところからも、ユダヤ人たちは、パウロたちが、相手にへつらい、口実を設けて金銭をかすめ取っていたと中傷、非難していたと考えられます。そしてこれは、当時の諸国を旅して教える哲学教師たちや宗教教師たちに対する一般的な批判でもありました。当時は、諸国を旅して哲学や宗教を教える遍歴教師たちがたくさんおりました。彼らの中には、純粋な動機から教えを宣べ伝える者たちもおりましたけども、不純な動機から、他人から金銭を得るために教えを宣べ伝える者も多くいたのです。パウロは、3節で「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。」と申しておりましたけども、それは、当時のあやしい遍歴教師たちと自分たちとは違うということを述べていると言えるのです。おそらく、ユダヤ人たちの狙いは、パウロたちを、当時のあやしげな遍歴教師たちの一団として、おとしめることにあったようです。つまり、当時の遍歴教師たちが、相手にへつらい、口実を設けて金銭をかすめとっていたように、パウロたちもそうであったとユダヤ人たちは中傷、非難していたのです。しかし、パウロたちは、そうではないことを、テサロニケの信徒たち自身が知っており、神が証ししてくださると言うのであります。
「神が証ししてくださる」。これは真に大胆な言葉と言えます。しかし、自分たちの心を吟味される神さまに喜んでいただくために、福音を語ったパウロにとって、神さまが自分たちの証人であると語ったことは、ふさわしいことであったと思います。パウロは、4節で、「神に認められ、福音をゆだねられた」と語りましたけども、この「認められ」と訳されている言葉と、後に出てくる「吟味される」と訳される言葉は、もとのギリシア語では同じ言葉であります。「認められ」とは、吟味されたうえで、テストを受けたうえで、認められたということであるのです。細かいことを言うようですが、「認められた」は完了形で記されており、「吟味される」は現在分詞で記されています。かつて、パウロを認めて、福音をゆだねてくださった神は、今もパウロの心を吟味し、認め続ける神でもあるのです。つまり、パウロは、一度認められ、ゆだねられたからといって、福音を自分の自由になるものとは考えなかったということです。パウロは、神さまの御前に日々、心を吟味され認められて神の福音を語り続けたのです。あるいはこうも言うことができます。パウロは、心を吟味される神から、日々新しく福音をゆだねられ続けたと。
ルカによる福音書の第9章に、弟子たちが子供から悪霊を追い出すことができなかったというお話しが記されています。弟子たちは、イエスさまからあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられていたにも関わらず、子供から悪霊を追い出すことができなかったのです。なぜ、弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったのか。それは自分自身に悪霊を追い出す力が宿っていると考えてしまったからです。イエスさまへの信仰を抜きにして、自分たちにそのような力があると錯覚してしまったのです。ですから、変貌の山から下りてこられたイエスさまは、弟子たちに対して「なんと信仰のない、よこしまな世代なのか」と嘆かれたのであります。
神の福音を語るということもこれと同じであります。パウロは、自分が復活のキリストから遣わされた使徒であるから、いつでも神の福音を語ることができるとは考えませんでした。パウロは、自分を認めてくださった神さまが、自分の心を吟味し続けておられることを知っていたのです。もし自分が相手にへつらい、口実を設けてかすめ取ったりするならば、神さまは自分から神の福音を取り上げられることをパウロは知っていたのです。もし、私たちの教会が、人にへつらい、口実を設けて金銭をかすめ取ろうと考えるならば、神さまは私たちから神の福音を取り上げてしまわれるのです。このことは、特にわたしのような御言葉の教師が、肝に銘じなければならないことであります。また、わたしだけではなくて、福音をゆだねられた私たち一人一人が、胸に刻むべきことであるのです。
6節から10節までをお読みいたします。
また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。
口実を設けて、金銭をかすめ取ることを否定したパウロは、ここでは人間の誉れを求めなかったと述べております。人間の誉れを求めることも、当時、諸国を巡り歩き、哲学や宗教を教えていた遍歴教師たちへの一般的な批判でありました。けれども、パウロは、自分は人間の誉れを求めたことはなかったと述べるのです。キリストから遣わされた使徒として、権威を主張することができたにも関わらず、パウロたちは人間の誉れを求めなかったのです。ここで「権威を主張する」と訳されている言葉は、直訳すると「重んじられる」「重荷を負わせる」となります。7節の「権威を主張する」と訳される言葉は、9節の「負担をかけまい」と訳される言葉と同じ根を持つ言葉なのです。ですから、ある人は、「ここでパウロは、自分はキリストの使徒として、テサロニケの教会に経済的な重荷を負ってもらうことができたのだが、それをしなかったと述べているのだ」と申しております。パウロは、9節に記されているとおり、テサロニケにおいて、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのでありますけども、それはパウロが、キリストの使徒としてそのような権利がなかったということではありません。主イエスは、12人を遣わすにあたって、「働く者が報酬を受けるのは当然である」と仰せになりました。パウロが、コリントの信徒への手紙一第9章14節で言っているように、「主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るようにと、指示された」のです。しかし、パウロたちは、テサロニケの信徒たちの誰にも経済的な負担をかけず、使徒としての誉れを求めることはしなかったのです。それどころか、パウロたちはテサロニケの信徒たちの間で幼子のようになったのでありました。「幼子のようになった」とは自らを取るに足らないものとし、謙遜な者となったということでありましょう。そして、幼子のイメージは、今度は、母親へと移っていきます。ここで「母親」と訳されている言葉は、正確に訳すと「乳母」となります。しかし「乳母」と訳しますと、続く「彼女の子供」と合わないので、多くの聖書は「母」と訳しているのです。ともかく、ここでイメージされていることは、生まれたばかりの赤ちゃんに乳を含ませて、大事に育む母親の姿であります。パウロはその母親のように、テサロニケの信徒たちをいとおしく思い、神の福音を伝えるばかりではなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったのです。なぜなら、テサロニケの信徒たちは、パウロたちの愛する者となったからであります。
「愛する者」これは、ギリシア語のアガペーという言葉を元としております。ギリシア語には、「愛」を表す言葉がいくつかありますけども、アガペーは、新約聖書において、無償の愛、神さまの愛を表す言葉として用いられています。そして、ここでも、そのアガペーという言葉が用いられて「愛する者」と記されているのです。このことは、パウロが抱いたテサロニケの信徒たちへの愛が、パウロ自身を源とせず、神さまを源としていることを教えています。そもそも、テサロニケの信徒たちが、パウロたちの愛する者となったのは、彼らが、パウロたちから神の福音を受け入れたことに端を発します。第1章6節に、「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」とある通りです。パウロたちから、神の福音を受け入れたことによって、ある一群のテサロニケ人たちが、パウロたちにとって、自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどの愛する者となったのです。このことは、私たちに、神の福音は、神の愛を源とする愛の交わりを創造することを教えております。神の愛、アガペーとは、創造的な愛なのですね。アガペーとは、愛する価値があるから愛する愛ではなくて、愛する価値のない者を愛することによって、価値をつくり出す愛なのです。神さまの愛を最もよく表す御言葉は、ヨハネによる福音書第3章16節であります。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ここでの「世」とは、神さまがお造りになった世であると同時に、神さまに敵対する世であります。それゆえ、神さまから愛されるに価しない世であったのです。けれども、神さまは、独り子をお与えになるほどに世を愛してくださった。そのことによって、神さまは世に、私たち一人一人に絶大なる価値を与えてくださったのです。わたしなんか生きていてもしょうがない。生きてる価値もないと思うこともあるかも知れません。けれども、福音は、そのあなたのためにイエスさまが死んでくださったとを語るのです。そのことを知るとき、自分がどれほど神さまの目に高価で尊い存在であるかが分かるのであります。
神の福音を受け入れることによって生まれる愛の交わり、それは、パウロが自らを幼子や母親にたとえていることからも暗示されているように、神の家族としての交わりであります。主イエスが、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」と言われたように、神の福音を受け入れた者は、神さまを父とし、イエスさまを長兄とする神の家族の一員とされるのです。そして、それゆえに、パウロたちとこれまで関わりのなかった人々が、主にある兄弟姉妹となり、愛する者となったのです。
神への愛と兄弟姉妹への愛については、ヨハネの手紙一の第4章19節から第5章2節までに、こう記されています。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明かなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
ここで、言われていることは、とても単純なことです。例えば、ある人に二人の息子がいるとします。お兄さんは、お父さんを愛していると言いますが、いつも弟をいじめてばかりいる。しかし、ヨハネは、その愛は偽りだと言うのです。兄息子が、本当に父親を愛するならば、「仲良くしなさい」という命令を守るはずだし、父から生まれた弟息子をも愛するはずだとヨハネは語るのです。そして事実、パウロは、神さまを愛するがゆえに、その神さまから生まれたテサロニケの信徒たちを愛したのでありました。また、その愛のゆえに、パウロたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのです。パウロたちは、キリストの使徒として報酬を受ける権利を用いず、むしろ、彼らのために自分自身を与え尽くすのです。そして、このことは、ユダヤ人たちの中傷、非難が当たっていないことの何よりの証拠と言えるのです。
11節から12節までをお読みいたします。
あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。
パウロは、7節で、自分を乳飲み子を育てる母親にたとえておりましたが、ここでは、自分を父親にたとえております。パウロは、父親が自分の子供に対するようにテサロニケの信徒一人一人を神の御心にそって歩むよう励まし、ときには慰め、ときには強く勧めたのでありました。この「神の御心にそって歩む」という言葉は、意訳でありまして、直訳すると「神にふさわしく歩む」となります。私たちを御自分の国と栄光へと招いてくださっている神さまにふさわしく歩むようにとパウロは励まし、慰め、強く勧めたのです。
神が、私たちを御自身の国と栄光にあずからせようと招いておられる。そのように聞いて、私たちがまず考えることは、天におられるイエス・キリストが再び来てくださるときに完成する終末の神の国と栄光についてであります。けれども、わたしはここに週ごとの礼拝の姿をも重ねて見ることができると思います。礼拝が「招きの言葉」によって始まることに象徴されるように、私たちは、神さまに招かれて、今朝もこの礼拝へと集うことができたのです。神さまが私たちのあらゆる事情を整えてくださり、私たちに礼拝への熱心を与えてくださったがゆえに、私たちはこの場にこうして集うことができたのです。「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあながたがを招いておられます。」それは、主の日を迎えるごとに私たちの上に実現する御言葉なのです。礼拝において主の御名がほめたたえられるとき、私たちはこの地上において、主の御支配と栄光にあずかることができるのです。
最後に、神にふさわしく歩むとは、どのようなことかを少しお話しして終わりたいと思います。いろいろなことを語ることができますけども、今朝の御言葉から教えられることは、神にふさわしく歩むとは、神の愛に満たされて歩むということであります。神の愛は、聖霊の最大の賜物でありますから、神にふさわしく歩むとは、聖霊に満たされて歩むことであるとも言うことができます。なぜ、パウロは、テサロニケの信徒たちに福音を伝えるだけではなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願うほど愛することができたのか。その答えは、パウロが聖霊に満ちあふれていたからです。わたしは正直申しまして、このパウロのようではない自分を恥じる思いがあります。しかし、聖書は、神の御霊に満たされるとき、私たちも神の愛に生きることができると教えているのです。ガラテヤの信徒への手紙第5章22節にありますように、「霊の結び実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」なのです。また、聖書は、コリントの信徒への手紙一の第13章で、愛を聖霊の最大の賜物と呼び、「愛を追い求めなさい。」と私たちに強く勧めるのです。私たちを御自身の国と栄光に招いておられる神さまにふさわしく生きるために、聖霊が豊かに宿ってくださることを、私たちは今朝、心を合わせて祈り求めたいと願います。