父の命令は永遠の命 2010年7月25日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

父の命令は永遠の命

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章44節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」ヨハネによる福音書 12章44節~50節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第12章44節から50節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 44節に、「イエスは叫んで、こう言われた」とありますけども、これは文脈からするとおかしな印象を受けます。と言いますのも、36節の後半に「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」と記されていたからです。そして、福音書記者ヨハネは、イエスさまの世に対する宣教についての総括を記したのでありました。すなわち、イエスさまは多くのしるしをユダヤ人たちの前で行われたが、彼らはイエスさまを信じなかったのです。そして、福音書記者ヨハネはそれはイザヤ書の御言葉が実現するためであり、彼らが神からの誉れよりも人間からの誉れを好んだためであったと記したのであります。そして、再び44節で、「イエスは叫んで、こう言われた」とイエスさまの御言葉を記すのです。なぜ、福音書記者ヨハネは、立ち去ってユダヤ人たちから身を隠されたイエスさまを再び登場させたのでしょうか。ある人は、今朝の御言葉は36節前半に続けて記されるべきものが、手違いで、この所に記されたのではないかと推測しています。そうかも知れませんけども、しかし、私たちは第12章の最後に記されている御言葉として、今朝の御言葉を学びたいと思うのです。わたしは説教を準備しながら、何冊もの注解書を読みますけども、そこで多くの人が指摘していることは、44節から50節までの御言葉は、これまでのイエスさまの教えの要約であるということです。福音書記者ヨハネは第12章を閉じるにあたって、イエスさまの教えのエッセンスをまとめてこの所に記したと読むことができるのであります。第1章から第12章までには、世に対して御自身の栄光を現してきたイエスさまのお姿が描かれておりました。イエスさまは多くのしるしをユダヤ人たちの前で行うことによって、御自分が神から遣わされた神の御子であることを示されたのです。しかし先程も申しましたように、ユダヤ人たちはイエスさまを信じなかったわけであります。これから第13章以降、イエスさまは弟子たちだけにお語りになります。群衆の前に再びその姿を現されるのは、イエスさまがローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれるときです。けれども、あえて福音書記者ヨハネは、「イエスは叫んで、こう言われた」と、これまでの教えの要約とも言える言葉を記すのです。そもそも、イエスさまは誰に対して叫ばれたのでしょうか。誰に対してこの言葉を語られたのでしょうか。群衆ではないことは明かであります。ではイエスさまは誰に対して叫ばれたのでしょうか。それはこの福音書を読んでいるすべての人々に対してであります。私たちに対して、イエスさまは叫んで、言われたのです。それはこの福音書を初めからコツコツと読んできた私たち読者がイエスを信じるか、信じないかの決断をここで求められているということです。イエスさまが地上を歩まれたのと同じ時代に生きたユダヤ人たちだけではなく、この福音書を読む私たちにも、イエスさまは語りかけておられる。御自分を信じるようにと招いておられるのです。そのような私たちに対して語られている御言葉として、今朝の御言葉を御一緒に聞いてゆきたいと思います。

 イエスさまは叫んで、こう言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」。

 ここでイエスさまは遣わす者と遣わされた者が一体的であることを前提にして語っておられます。これと同じ意味の言葉がマタイによる福音書第10章40節にも記されています。イエスさまは12人を派遣するという文脈の中でこう仰せになりました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。遣わした者と遣わされた者は一体的である。それゆえ、12人を受け入れる人は、12人を遣わしたイエスさまを受け入れるのであると言われるのです。また、イエスさまを受け入れる人は、イエスさまを遣わされた神さまを受け入れることになるのです。12人は12使徒とも呼ばれますが、彼らはイエスさまから汚れた霊に対する権能を授けられて派遣された者たちでありました。遣わされた者を受け入れることは、その人を遣わした者を受け入れることである。このことは授けられた権能によって理解されるわけであります。12人はイエスさまから汚れた霊に対する権能を授けられましたけども、イエスさまは独り子である神として御父と等しい権能を持つ方として世に遣わされたのです。それゆえ、イエスさまは、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」とさえ言われるのです。イエスさまが行われた多くのしるしを通して表された栄光は、イエスさまを遣わされた御父の栄光でもあったのです。ヘブライ人への手紙第1章3節に、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」と記されておりますけども、イエスさまの言葉と行動において、御父は御自身の栄光を現されたのです。ですから、イエスさまを信じることは、イエスさまを遣わされた御父、天地万物を創造されイスラエルを導いてこられた神を信じることであるのです。イエス・キリストを信じることは神を信じることであり、イエス・キリストを信じないことは神を信じないことであるのです。

 続けてイエスさまはこう仰せになりました。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。ここには、イエスさまがこの世に来た目的が記されています。闇と光の対比、コントラストはこれまでにも何度か出てきました。闇とはこの世の支配者である悪魔の領域を指します。それに対して光とは神の領域を指すわけです。この世は、初めの人アダムが悪魔の言葉に従い、罪を犯すことによって、悪魔の支配下に置かれてしまいました。それゆえ、この世にはあらゆる悲惨と死そのものがあるわけです。そのような暗闇である世にイエスさまは光として来てくださったのです。イエスさまが御自分を光と言われるとき、それは神さまがどのようなお方であるかを示すお方、神さまを啓示する者であることを意味しています。暗闇は思慮、分別がないことをも意味します。暗闇に生きる者は神さまについて思慮、分別がないのです。すなわち、闇の中にいる人間はまことの神さまを知ることができない。しかし、そのような闇の世に、イエスさまは神さまを現すお方として、すなわち光として来られたのです。御父は独り子である神を御自身を決定的に啓示する光として世に遣わされたのです。イエスさまこそ、まさに光からの光であるのです(ニケア信条)。それゆえ、イエスさまを信じる者は暗闇の中に留まることなく、命の光を持つのです(8:12)。

 続けてイエスさまはこう仰せになりました。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。

 ここで「裁く」という言葉が出てきますが、これは文脈から言えば、「罪に定めて滅ぼす」という意味であります。イエスさまは、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と言われましたけども、この所は少し解釈が難しい所であります。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」とは、続く48節の「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者」との繋がりから理解するのが良いと思います。つまり、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」とは、イエスさまを信じ、イエスさまの御言葉を受け入れておりながら、それを守らない者たちのことであるのです。イエスさまを信じ、イエスさまの御言葉を受け入れておりながら、それを守らない者がいても、イエスさまはその者を罪に定めて滅ぼさないと言われるのです。ですから、私たちは主の日の礼拝ごとに、罪を告白しているわけです。イエスさまが「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」と仰せになるがゆえに、私たちは主の日の礼拝ごとに、神さまの御前に罪を告白しているのです。イエスさまが御自分を信じる者たちに変わって罪の刑罰としての十字架の死をすでに死んでくださったがゆえに、私たちは神の御前に罪を告白しつつ、主イエスさまの御言葉に従う歩みを続けていくことができるのです。イエスさまは世を裁くためではなく、世を救うために来られたお方であるがゆえに、イエスさまの言葉を聞きながら、それを守らない私たちを赦し、光の子として、光の中を歩ませてくださるのです。

 しかし他方、御自分を信じない者たちについて、イエスさまはこう仰せになりました。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。イエスさまを信じる者たちは、そのイエスさまの御言葉を守らないとしても裁かれることがありませんでした。なぜなら、イエスさまがその者たちの代わりに、十字架において裁かれてくださったからです。本来、私たちが受けるべき神の裁き、刑罰としての呪いの死をイエスさまが身代わりに死んでくださったゆえに、私たちはイエスさまの御言葉を聞いて、それを守らなくても裁かれない。罪を告白して、イエスさまの御言葉に従おうと再び歩み出すことができるのです。しかし、イエスさまは「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある」と言われるのです。ここで「裁くものがある」と訳されている言葉は、直訳すると「裁くものを持っている」となります。イエスさまを拒み、イエスさまの言葉を受け入れない者は裁かれるべきものを持っている。イエスさまの語った言葉が終わりの日にその者を裁くと言うのです。なぜ、このようなことになるのでしょうか。世を救うために来られたイエスさまの御言葉が、なぜ終わりの日にその言葉を受け入れない者を罪に定め滅ぼすことになるのでしょうか。そのような疑問に対してイエスさまはこうお答えになります。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」。なぜ、イエスさまを拒み、イエスさまの言葉を受け入れない者は裁かれるべきものを持っているのか。それはイエスさまが神さまから遣わされた方であり、神さまから命じられた通り、語っておられるからであります。イエスさまを拒むことは、イエスさまを遣わされた神さまを拒むことであり、イエスさまの言葉を受け入れないことは、神さまの言葉を受け入れないことであるからです。イエスさまは「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」と仰せになりました。永遠の命については第17章3節に次のように記されています。第17章1節からお読みいたします。

 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。

 永遠の命とは、唯一のまことの神とイエス・キリストとを交わりの中で知ることであります。御父と御子との永遠の愛の交わりに生きること、それが永遠の命に生きるということです。命の命、命の源は神さまでありますけども、イエス・キリストにおいて御自身を現された神さまは父と子と聖霊なる三位一体の神であられます。神さまはただ一人でありますけども、決して孤独なお方ではなく、父と子と聖霊との永遠の愛の交わりに生きるお方であられるのです。そして、その交わりこそが永遠の命であるのです。命は人間が求めて止まないものでありますけども、神さまが人間を造られた目的は、人間が御自分を信じて、御自分との交わりに生きることであったのです。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」。このイエスさまの御言葉を読みますとき、わたしがすぐに思い起こすのは、エデンの園において、神さまが初めの人アダムに与えられた命令、掟であります。主なる神は、人に命じてこう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木をエデンの園に生え出でさせ、また中央には命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられました。主なる神は園のすべての木から取って食べなさいと言われましたけども、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうと言われたのであります。園の中央に生えていたのは、命の木と善悪の知識の木でありましたが、ここでは命の木についての言及はありません。それはおそらく、アダムが神の命令を守ったときに与えられる報酬を思い起こさせるものであったと言われています。アダムは主なる神の禁止命令、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という掟を守ったならば、命の木に象徴される永遠の命をいただくことができたのです。神さまとの永遠の愛の交わりに生きる者とされたはずであります。ですから、主なる神がアダムに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と言われたときも、神の命令は永遠の命であったのです。モーセを通して、イスラエルに律法が与えられたときもそうです。神の命令はイスラエルの民がその掟に導かれることによって神との交わりに生きること、永遠の命に生きることにあったのです。預言者ミカは、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と語りました(6:8)。そこで命じられているのは、イスラエルの民が神との交わりに生きる、永遠の命に生きることです。また、預言者アモスは、「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めて、そして生きよ」と言いました(5:4)。そこで命じられているのも永遠の命です。アダムにあって罪を犯し、暗闇の中に生きる私たちに対する神さまの命令は永遠の命です。これは命令です。命令は従わないなら、その責任を問われます。聖書は神は人を御自分のかたちに似せてお造りになったと記しています。それは神さまが人を御自分との交わりに生きる者として造られたということです。そしてそのことは同時に、人は神さまの御言葉に対して応答する責任がある者として造られたことを教えているのです。それゆえ、人はイエス・キリストの言葉、イエス・キリストを通して語られる神の言葉を拒むならば、その責任を問われる。すなわち、罪に定められ滅ぼされるのです。それゆえ、私たちは終わりの日が来る前に、自分が天に召されるか、あるいはイエスさまが天から裁き主として来られる前に、イエスさまを信じて、イエスさまの言葉を受け入れなくてはならないのです。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」。この御言葉は本当に素晴らしい御言葉だと思います。そもそもこの世において命令とはしたくないことを強いられることが多いのであります。自分のためにならないことを強いられることが多いのです。しかし、神さまの命令はそうではありません。どのように生きればよいか分からず、暗闇の中を彷徨っている私たちに、神さまは永遠の命に生きることを命じられるのです。そのことをイエスさまは知っているがゆえに、この地上にお生まれになり、十字架に上げられるのであります。父の命令が永遠の命であることを知っているがゆえに、十字架の死から三日目に復活し、天へと上げられるのです。私たちもイエス・キリストにあって、「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」と言い切る者たちでありたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す