光あるうちに 2010年7月11日(日曜 朝の礼拝)
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光あるうちに
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 12章27節~36節
聖書の言葉
12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」ヨハネによる福音書 12章27節~36節
メッセージ
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今朝の御言葉は前回学んだ御言葉の続きであります。イエスさまは何人かのギリシア人が会いに来たことを聞いて、「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。イエスさまは異邦人が御自分を礼拝するために会いに来たことを聞いて、いよいよ御自分が栄光を受ける時が来たことを悟られたのです。人の子が栄光を受けるとき、それはイエスさまが十字架に上げられるときでありました。ですから、イエスさまは今朝の御言葉でこう言われるのであります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。研究者たちはこの所を「ヨハネ福音書のゲツセマネの祈り」と呼んでおります。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を読みますと、イエスさまが十字架につけられる前夜に、「できることならこの杯を過ぎ去らせてください」と三度祈られたことが記されております。そのイエスさまの祈りがここに記されていると言うのです。実際にマルコによる福音書のゲツセマネの祈りの場面を読んでみたいと思います。マルコによる福音書第14章32節から42節までをお読みいたします。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時でも目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
ここには、死ぬばかりに悲しまれ、苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと切に祈られるイエスさまのお姿が記されています。けれども、ヨハネによる福音書を見ますと、イエスさまはそのようには祈られておりません。今朝の御言葉は、「ヨハネ福音書のゲツセマネの祈り」と呼ばれておりますけども、そこに描かれているイエスさまのお姿は共観福音書の描くイエスさまとは幾分異なった印象を私たちに与えるのではないかと思います。ではヨハネによる福音書に戻りましょう。
確かに、イエスさまは御自分が十字架に上げられる時が来たことにより、心を騒がせます。かつてラザロの葬りに御自分の葬りを重ね合わせて心に憤りを覚えられたように、イエスさまは御自分の死の時を迎えて心を騒がせるのです。しかし、ヨハネ福音書の描くイエスさまは、「この杯を取りのけてください」とは祈らないで、いわば修辞法として用いるのです。すなわち、「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」と自らに問い、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と断言されるのです。ヨハネによる福音書は、その序文で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記し、その言が肉となり、私たちの内に宿られた。そのお方こそ独り子である神イエス・キリストであると記しました。永遠の神の独り子が罪を他にして私たちと同じ人となってくださった。なぜ創造主である神の独り子が被造物である人となってくださったのか。イエスさまは、それはまさにこの時のためであると言われたのです。十字架に上げられるということは、それはイエスさまの心を騒がせることであり、人間的に言えば、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と祈りたいことであります。そして、実際、共観福音書を読みますと、イエスさまはそのように祈られたわけです。けれども、ヨハネによる福音書の描くイエスさまは、御自分がまさにこの時のために来られたことを弁えており、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈るのです。「父よ、御名の栄光を現してください」。これはイエスさまが弟子たちに教えられた主の祈りの序文と第一の祈願を思い起こさせる言葉であります。イエスさまは弟子たちに「父よ、御名が崇められますように」と祈ることを教えられましたけども、イエスさまは御自分の死を前にして、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られたのです。23節で、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたイエスさまが、ここでは「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られています。このことは、御子の栄光と御父の栄光が一つであることを私たちに教えています。イエスさまが十字架に上げられて死ぬことは、人の子が栄光を受けると同時に、御父が栄光を受ける時でもあるのです。
すると、天から次のような声が聞こえてきました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。この天からの声は、28節の「父よ、御名の栄光を現してください」というイエスさまの言葉に応えるものであります。御父は御子をお遣わしになり、御子を通してこれまでも栄光を現してきました。そして、御子の死においても再び栄光を現そうと言われたのです。しかし、そばにいた群衆には、その言葉を聞き分けることができなかったようであります。そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました。旧約聖書において、雷は神の驚くべき御声とも言われています(ヨブ37:5)。また天使は神さまと人との間を仲介する者と考えられておりました。ですから、群衆はその言葉を聞き分けることができなくとも、イエスさまの言葉に対して、天からの、神さまからの応答があったことは分かったはずであります。それゆえイエスさまは、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と言われたのです。ヨハネ福音書において、天からの声はイエスさまに確信を与えるものではなく、そばにいた群衆がイエスさまを信じるようになるためのものなのです。イエスさまは天からの声を聞くまでもなく、御自分がまさにこのときのために来たこと、そして、御自分が十字架に上げられて死ぬことによって、御父の栄光が現されることをよく知っておられるのです。また、イエスさまは御自分が十字架に上げられる時が、どのような時かをもよく弁えておりました。31節、32節でイエスさまは次のように仰せになっています。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスさまが十字架に上げられるとき、それはこの世が裁かれる時、この世の支配者が追放される時でもあるのです。私たち人間の目には、十字架は世によってイエスさまが裁かれた時、イエスさまがこの世から追放された時のように見えるのでありますけども、そうではないのです。イエスさまが十字架に上げられるとき、それは世が裁かれる時であり、この世の支配者である悪魔が追放される時であるのです。ここで突然、この世の支配者である悪魔が追放されると言われてもピンと来ないかも知れませんけども、聖書は神さまに敵対する勢力がこの世で力を振るっていることを教えております。旧約聖書の創世記を読みますと、神さまが造られたはなはだ良い世界において、はじめの人アダムとエバが蛇に騙されて罪を犯したことが記されています。蛇の背後には、神さまに敵対するサタンとか、悪魔とか呼ばれる者がいたわけです。アダムは神さまが「決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と禁じられていた木の実を、蛇の言葉に従って食べてしまったのです。それ以来、悪魔はこの世で力を振るうことになった。まさに悪魔がこの世の支配者となったのです。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を読みますと、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。ルカによる福音書を見ますと、悪魔はイエスさまを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せてこう誘惑しました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任せられていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。この悪魔の言葉はあながちデタラメとは言えません。この世は初めの人アダムが悪魔に従ったことによって、悪魔の支配下に置かれてしまったのです。しかし、イエスさまは十字架に上げられることにより、この世を裁き、この世の支配者である悪魔を追放すると言われるのであります。そのようにして、すべての人を御自分のもとへ引き寄せようと言われるのであります。イエスさまが「地上から上げられる」と言われるとき、そこには二つの意味があります。一つは「十字架に上げられる」ということです。実際、十字架刑は見せしめの刑でありましたから、人々からよく見えるように1メートルほど高い所で磔にされました。十字架に磔にされたイエスさまは物理的に地上から上げられたわけです。そして、イエスさまが「地上から上げられる」と言われるときの二つ目の意味は、「天へと上げられる」ということであります。このようにヨハネによる福音書は、十字架に上げられることと天へと上げられることを重ね合わせて記しているのです。しかし、ここでは33節に、「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と言われているように、もっぱら十字架に上げられることを念頭にイエスさまは語られているのです。なぜ、イエスさまが地上から上げられる十字架の死が、この世が裁かれる時となり、この世の支配者が追放される時となるのでしょうか。また、イエスさまは、地上から上げられる十字架の死によって、すべての人を御自分のもとへ引き寄せることができるのでしょうか。それは、イエスさまが上げられる十字架の死によって、御父の栄光が現されるからです。ある研究者は、神の栄光が現れるとは「神が神として示されることである」と言っております。神の独り子であるイエス・キリストが十字架にあげられることによって、神がどのような神として示されたのか。それは言うまでもなく、私たちをこのうえなく愛しておられる神としてであります。第3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありましたけども、まさしく、イエスさまは十字架に上げられることによって、その愛なる神を世に示されたのであります。そして、それは御父ばかりではなく、御子であるイエスさまの私たちに対する愛を示すものであったのです。それゆえ、十字架の死はすべての人を御自分のもとへ引き寄せる力を持つのです。神さまがこのわたしのために愛する御子を十字架の死へと引き渡し、さらには御子イエスさまがこのわたしのために十字架の死を死んでくださったことを本当に信じた人はすべて、イエスさまのもとへと引き寄せられるのです。私たちは主の日ごとに、イエス・キリストの御名によって集まり、礼拝をささげております。そのようにして、イエスさまの御言葉、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という御言葉は実現しているのです。そして、さらにイエスさまは私たちがささげる礼拝を通して、さらに多くの人々を御自分のもとへ引き寄せようとしておられるのです。それゆえ、イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの十字架において神の愛が示されたことを、神は独り子を与えられたほどにあなたを愛しておられることを語り続けていかなくてはならないのです。そのとき、私たちがささげる礼拝においても、神さまは御名の栄光を現してくださるのです。
すると、群衆はイエスさまにこのように言い返しました。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか」。ここでの「律法」は創世記から申命記までのいわゆるモーセ五書だけを指すのではなく、旧約聖書という広い意味で用いられています。群衆は、「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました」と述べておりますけども、例えば詩編第89編の36節から38節には次のように記されています。「聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き/彼の王座はわたしの前に太陽のように/雲の彼方の確かな証しである月のように/とこしえに立つであろう」。このような御言葉から、群衆はメシアが永遠にいつも自分たちとおられると考えていたのです。この群衆が、イエスさまを「イスラエルの王」として歓呼して迎え出た群衆と同じであったかは分かりませんが、彼らのメシア像はイスラエルを異邦の民の支配から武力をもって解放する王でありました。しかし、イエスさまは、「人の子は上げられねばならない」と言われる。それゆえ、彼らはイエスさまを前にして、その「人の子」とは誰ですかと問わざるを得ないのです。イエスさまを軍事的メシアとして受け入れた群衆にとって、上げられねばならない人の子と同一人物であると考えることはできなかったのです。それに対してイエスさまはこう言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。このイエスさまの御言葉は、第8章12節の御言葉を思い起こさせるものであります。第8章12節で、イエスさまはこう仰せになりました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。イエスさまが、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と言われるとき、その光がイエスさまご自身を指していることは明かであります。イエスさまが「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と言われるとき、暗闇はこの世の支配者である悪魔の領域を、光は神さまの領域を指しています。ちょうど、日が沈んでしまう前に、歩かねばならないように、闇の力が私たちを捕らえるまえに、光の中を歩かなければならないのです。そして、光の中を歩むとは、光の子となるために世の光であるイエスさまを信じるということであるのです。イエスさまは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われましたけども、世の光であるイエスさまを信じることによって、私たちも光の子となるのです。日が暮れて、闇が覆うとき、その中を歩く者は自分がどこへ行くか分かりません。しかし、イエス・キリストを信じる者は光の子とされておりますから、自分がどこへ行くかを知っているのです。すなわち、十字架の死を通して天上へと上げられたイエスさまのもとへ引き寄せられることを知っているのです。現在の社会はこれからどうなるか分からないとよく言われます。そして、このことはこの地上の生涯を終えた時にこそ言えることなのです。私たちが地上の生涯を終えるとき、それは暗闇に完全に捕らわれるときであります。ですから、誰も自分がどこへ行くのか分からないのです。死者の中から上げられた、復活されたイエス・キリストを信じる者たちだけが、自分がどこへ行くのかを知っているのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」。この御言葉はイエスさまが十字架に上げられるまでの間のことだけを言っているのではありません。イエスさまが天上へ上げられているまでの間をも指しているのです。ですから今も、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と言えるのです。イエスさまは、今も「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」とすべての人を招いております。わたしはあなたのために、十字架に上げられて死んだ。そのわたしの愛をどうか受け入れてほしい。わたしを信じて、光の中を歩むものとなって欲しいとイエスさまは招いておられるのです。