一粒の麦 2010年7月04日(日曜 朝の礼拝)
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一粒の麦
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 12章20節~26節
聖書の言葉
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」ヨハネによる福音書 12章20節~26節
メッセージ
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今朝はヨハネによる福音書第12章20節から26節より、御言葉の恵みに御一緒にあずかりたいと願っています。
20節に、「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」と記されています。これは19節のファリサイ派の人々の言葉、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」という言葉の成就として記されていると読むこともできます。イエスさまについて行った「世」の中に、ユダヤ人ばかりでなく、ギリシア人もいたことを福音書記者ヨハネは記しているのです。この「何人かのギリシア人たち」は「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た」のでありますから、異邦人でありながら、聖書の神を信じる者たちであったと思われます。このギリシア人たちは、割礼は受けないけども、会堂の礼拝に出席し、天地を造られた神さまを礼拝する「神を畏れる者たち」であったのです(使徒10:2、13:16)。エルサレム神殿の外苑は異邦人の庭と呼ばれておりまして、異邦人であってもそこで礼拝をすることができました。このギリシア人たちは言わば巡礼者としてエルサレムに上って来たのでありますけども、群衆がイエスさまをイスラエルの王として迎え出たことを目撃したのかも知れません。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。フィリポはイエスさまの側近の弟子である12人の一人でありますけども、なぜギリシア人たちはフィリポのもとへ来て頼んだのでしょうか。考えられる一つのことは、フィリポの出身でありますガリラヤのベトサイダはヘロデ大王の息子、領主フィリポによって都市化された町であり、多くのギリシア人が住んでいたということであります。また、「フィリポ」という名前もギリシア風の名前でありました。それゆえ、ギリシア人たちはガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだのであります。ここで「お願いです」と訳されている言葉を直訳すると「主よ」となります。ですから、口語訳聖書はこの所を「君よ」と訳しています。また新改訳聖書は「先生」と訳しています。新共同訳聖書は「主よ」という言葉を「お願いです」と意訳したわけでありますけども、ギリシア人たちがイエスさまの側近の弟子である12人の一人であるフィリポをも「主よ」と呼びかけたことは彼らのイエスさまに対する崇敬の思いがどれほど大きなものであったかを示しています。そもそも、なぜ彼らは直接イエスさまにお会いしにいかなかったのでしょうか。なぜ、彼らはわざわざフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだのでしょうか。それは彼らが異邦人であったからであります。ユダヤ人にとって、異邦人はまことの神を知らない汚れた民でありました。ユダヤ人はサマリア人だけではなく、異邦人とも交際しなかったのです。それゆえ、異邦人であるギリシア人たちは直接イエスさまに会うことをせず、その弟子のフィリポにお目通りを願ったのでありました(ルカ7:1~10参照)。礼拝するためにエルサレムに上って来たギリシア人たちがイエスさまに会いたいと願ったことは、彼らがイエスさまを礼拝したいと望んでいたことを示しています。彼らはイエスさまを拝むために、礼拝するためにお会いしたいとフィリポに願い出たのです(マタイ2:2参照)。フィリポはまずアンデレのもとへ行き話しました。フィリポがまずアンデレのもとへ行き話したことは、事の重大さをよく表しています。ヨハネによる福音書において、ギリシア人、異邦人が登場するのはここだけであります。これまで、ギリシア人、ユダヤ人ではない異邦人がイエスさまに会いに来るということはなかったわけです。それゆえ、フィリポは自分と同じガリラヤのベトサイダ出身で、ギリシア風の名前を持つアンデレのもとに行って話したのです。アンデレとフィリポは行って、イエスさまに話すのですが、イエスさまはこうお答えになりました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
「人の子」とは、イエスさまが御自分のことを言われるときの決まった言い回しです。イエスさまの時についてはこれまで何度か記されておりました。ガリラヤのカナで婚礼があったとき、「ぶどう酒がなくなりました」と告げる母に、イエスさまはこう言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)。また、「ユダヤに行って、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」と言った兄弟たちに対しても、イエスさまは「わたしの時はまだ来ていない」とお答えになりました(7:6)。またユダヤ人たちがイエスさまを何度も捕らえようとしたのですが、手をかける者がいなかった理由として、「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記されておりました(7:30、8:20)。しかし、今朝の御言葉で、イエスさまはその時が来たと宣言されるのです。フィリポとアンデレから、何人かのギリシア人がイエスさまに会いたいと願い出たことを聞いて、イエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのであります。イエスさまの口から「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉を聞いたとき、旧約聖書に親しんでいたユダヤ人たちが思い起こしたのは、ダニエル書の第7章13節、14節であったと思います。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。
まさしくここには、「人の子」が栄光を受ける幻が記されております。しかし、イエスさまは栄光とはおよそふさわしくない御自分の死についてお語りになるのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。これはヘブライ人のものの考え方を前提とした言葉であります。ユダヤ人は種を土に蒔いて、そこから新しい芽が出ることを、「種が死んだ」と言い表すのです(一コリント15:36参照)。イエスさまは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのでありますけども、その栄光はイエスさまが一粒の麦として、地に落ちて死ぬことによって現されるのです。イエスさまは御自分が一粒の麦として死ぬことによって結ぶ多くの実りの先駆けとして何人かのギリシア人が御自分に会いに来たと考えられたのです。かつてイエスさまは第10章14節以下で次のように仰せになりました(~16節)。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」
イエスさまにお会いして礼拝したいと願った何人かのギリシア人たちは、まさしく「この囲いに入っていないほかの羊」たちであったのです。イエスさまは御自分の羊たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるために一粒の麦として地に落ちて死なれるのであります。イエスさまはユダヤ人ばかりでなく、異邦人である私たちのためにも、一粒の麦として地に落ちて死んでくださったのです。その多くの実りとして、私たちはイエス・キリストを信じ、礼拝する民とされているのです。
今朝の御言葉は、何人かのギリシア人がイエスさまに会いに来たことから始まったのですが、ギリシア人たちがイエスさまにお会いすることができたかどうかは記されておりません。わたしはヨハネが意図的に記さなかったのだと思います。フィリポのもとに来て、イエスさまに会いたいと願ったギリシア人たち、彼らはイエスさまが天へと上げられた後の異邦人キリスト者を表しているのです。福音書記者ヨハネは、過越祭のとき礼拝するためにエルサレムに上ってきたギリシア人たちと、イエスさまが天へと上げられてからキリスト者となった異邦人を重ねて記しているわけです。ヨハネによる福音書の特徴は、イエスさまの時代と福音書が執筆されたヨハネの時代を二重写しにして記すことであると申しましたけども、ここでも同じことが言えるのです。そのことが分かりますと、ギリシア人たちがフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と願った理由も分かってきます。すなわち、イエスさまが天へと上げられた後には、使徒たちを基とする教会において、イエスさまの御言葉を通してイエスさまにお会いするということであります。23節に、「イエスはこうお答えになった」とありますから、23節から26節までのイエスさまの御言葉はギリシア人たちに伝えられたと思います。何人かのギリシア人は、イエスさまにお会いすることはできくとも、使徒たちを通して、教会を通して御言葉をいただくことができたのです。私たちもそうです。私たちはイエスさまが復活して弟子たちに現れてくださった週の初めの日に、こうして教会に集い礼拝をささげております。その私たちの心にありますのは、イエスさまにお会いしたい、イエスさまにお会いして礼拝をささげたいという願いであります。けれども、私たちはイエスさまをこの肉の目で見ることはできないわけです。それは今朝の御言葉に出て来た何人かのギリシア人と同じであります。ですから、23節から26節までの御言葉はまさしく私たちへの御言葉なのです。私たちは御言葉を通して、一粒の麦として地に落ちて死んだイエスさまが、三日目に復活し、天へと上げられ、聖霊を遣わし、今や聖霊において私たちと共にいてくださること、そのようにして多くの実りをこの地上にもたらしてくださったことを教えられます。そして、さらにイエスさまは天にいる御自分のもとに来るには、どうすればよいかを私たちに教えてくださっているのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」。ここには天におられるイエスさまにお目にかかるための道筋が記されております。イエスさまとお会いして一緒に暮らす永遠の命に至るために、私たちは自分の命をも憎むことが求められております。なぜなら、イエスさまよりも自分の命を愛するならば、私たちはイエスさまにお仕えすることができないからです。イエスさまは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われました。これは意味深長な言葉であると思います。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」。このイエスさまの御言葉は、私たちが自分ではイエスさまにお仕えすることができないことを教えています。25節の言葉を用いるならば、私たちは自分では、自分の命を憎むまでにイエスさまにお仕えすることができないということであります。ですから、私たちは仕えるということにおいても、イエスさまに従わなくてはならないのです。ここで思い起こすべき御言葉は、マルコによる福音書第10章45節の御言葉であります。42節からお読みいたします。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスさま御自身が私たちに仕えるために来てくださいました。私たちがどのように仕えればよいのか。その模範はイエス・キリストであります。イエスさまこそ、自分の命を憎んで、父なる神の御心に従い永遠の命へと至ったお方であるのです。そのイエスさまに従うとき、私たちも自分の命をも憎んで仕えるとはどういうことかを学ぶことができるのです。そのとき、イエスさまは次のように約束してくださるのであります。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大事にしてくださる」。イエスさまがおられる所、そこには父なる神がおられる天国であります。天国とは父なる神とイエス・キリストがおられる所を言うのです。キリスト教会の礼拝は、父なる神とイエス・キリストが御言葉と聖霊において御臨在してくださるゆえに、天国の前味と言われるのです。私たちは今朝改めて、自分たちがイエスさまにお会いしたいとの願いをもって礼拝に集っているか。また自分たちがイエスさまのいるところに行きたいとの願いをもって天の国へと旅路を歩んでいるかを確認したいと思います。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大事にしてくださる」。このイエスさまのお約束を喜びとして、イエスさまに全存在をもって仕えているかを今朝改めて確認したいと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この御言葉はイエスさまだけに当てはまるものではありません。イエスさまに従い、イエスさまにお仕えする私たち一人一人においても同じことが言えるのです。私たちが自分の命さえも憎んでイエスさまにお仕えして生きるとき、その私たちを通して、神さまは多くの実りをもたらしてくださいます。私たちを通して、イエス・キリストを信じる者たちをも起こしてくださるのであります。イエス・キリストに仕える私たち一人一人がそのような一粒の麦として生き、そして死ぬ者でありたいと願うのであります。