ナルドの香油 2010年6月06日(日曜 朝の礼拝)
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ナルドの香油
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 12章1節~11節
聖書の言葉
12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
12:9 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
12:11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。ヨハネによる福音書 12章1節~11節
メッセージ
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先程はヨハネによる福音書第12章1節から11節までをお読みいたしました。今朝はこのところから御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
1節に、「過越祭の六日前、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」と記されております。「過越祭」とは、主なる神さまによって、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを祝う祭りでありました。過越祭の由来については旧約聖書の出エジプト記第12章に記されておりますけども、過越祭はニサンの月の14日、私たちの暦で言いますと3月末から4月初め頃に、エルサレムで祝われた祭りであります。ユダヤ人の男子はすべて、過越祭をエルサレムで祝うことが定められておりました(申命記16:16参照)。よって、身を清めるために過越祭の前に地方からエルサレムへ上った多くの人々は、「どう思うか。あの人(イエス)はこの祭りに来ないのだろうか」と互いに言ったのでありました。と言いますのも、彼らは祭司長たちとファリサイ派の人々がイエスを逮捕するために、居どころが分かれば届け出よとの命令を出していたことを知っていたからであります。多くの人々はそのような危険な状況において、まさかイエスはこの祭りには上ってこないだろうと互いに言っていたのです。しかし、イエスさまは過越祭の六日前に、エルサレムに近いベタニアに行かれたのでありました。そしてそこには、イエスさまが死者の中からよみがえらせたラザロがいたのです。2節、3節に、「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とありますから、イエスさまはマルタとマリアとラザロの家に主賓(しゅひん)として招待されていたようであります。ユダヤの食事の仕方は、横に寝そべって左肘をつきながら上半身を起こして右手で食べるというものでありました。「食事の席に着いた」と私たちが聞きますと、イスに座ってテーブルを囲んでいる情景を思い浮かべるかも知れませんけども、このときイエスさまたちは横になって上半身を起こされて食事をしていたのです。それゆえ、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラをイエスさまの足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭うことができたのです。「ナルドの香油」とは、「ヒマラヤ原産のおみなえし科の植物の根から取った香油」のことであります。「一リトラ」とありますが、聖書巻末の「度量衡」によりますと約326グラムと記されています。これは香油としては大量であります。ユダヤでは大切な客を迎え入れるときに、その頭に香油を一滴注いだと言われています。それをマリアは一リトラ、約326グラムをイエスさまの足に塗り、自分の髪の毛で拭ったというのですから、文字通り家は香油の香りでいっぱいになったと思います。またマリアがイエスさまの足に塗ったナルドの香油は「純粋で非常に高価」なものでありました。イスカリオテのユダによれば、この香油は300デナリオンの値打ちがあったのです。当時の一日分の労働賃金が一デナリオンでありますから、300デナリオンは年収に相当します。そのような高価なものを惜しげもなくマリアはイエスさまの足に塗り、自分の髪でその足を拭ったのです。このときマリアの心にあったものは、何よりイエスさまへの感謝であったと思います。弟のラザロを死者の中からよみがえらせてくださったイエスさまへの感謝がマリアの心を満たしていたと考えられます。溢れる感謝の思いが、「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」という形で表されたのです。また、イエスさまの足に香油を塗り、自分の髪の毛でその足を拭ったという行為は、イエスさまへの信仰を表す行為でもあります。私たちは第11章でラザロの物語を学びましたけども、そこにはマルタとイエスさまとの対話が記されておりました。イエスさまが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われると、マルタは次のように答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。このようにマルタは立派な信仰告白をしたわけです。「メシア」とは、ヘブライ語で「油を注がれた者」を意味します。イスラエルにおいて、王や祭司が任職する際に頭に油を注ぐという儀式を行いました。それゆえ、王や祭司は「油を注がれた者」、メシアと呼ばれたのです。また、イエスさまの時代、メシアは神の決定的な救いをもたらす救い主を意味しておりました。マルタはイエスさまこそ神の決定的な救いをもたらすメシア、救い主であると言い表したのです。しかし続けて記されているイエスさまとマリアとの対話には、このような信仰告白の言葉は記されておりませんでした。マリアは、イエスさまのおられる所に来て、イエスさまを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って激しく泣いただけでありました。しかし、そのマリアが今朝の御言葉ではイエスさまの足に純粋で非常に高価なナルドの香油を注いだのです。そのようにして、マリアは自分がイエスさまをメシア、油を注がれたお方であると信じていることを表したのです。マルタが言葉でイエスさまがメシアであると言い表したのに対して、マリアは行為によってイエスさまがメシアであることを表したのであります。新共同訳聖書はゴシック体で小見出しを記し、その下に括弧でその記事の関連個所を記してくれています。今朝の御言葉で言えば、マタイによる福音書の第26章6節から13節までと、マルコによる福音書第14章3節から9節までが関連個所として挙げられています。マタイ福音書とマルコ福音書にある関連個所を見ますと、マリアという名前は記されていません。ただ「一人の女」と記されているだけであります。そして、どちらの福音書も、その女がイエスさまの頭に香油を注ぎかけたと記しているのです。しかし、今朝の御言葉において、マリアはイエスさまの足に香油を注いだのです。私たちはここにマリアの謙虚さを見ることができます。そもそも王や祭司が任職する際に油を注いだのは預言者でありました。預言者が主なる神の御名によって油注ぎの儀式をしたのです。マリアは自分がそのような者ではないことをちゃんと弁えておりました。ですから、彼女はイエスさまの足に香油を塗り、さらにはそれを自分の髪の毛で拭ったのです。言うまでもなく、女性にとって髪の毛は大切なものであります。その大切な髪の毛で香油を拭うことにより、マリアは自分がイエスさまのはしため、女奴隷であることを表したのであります。少し先の第13章に、イエスさまが弟子たちの足を洗われたことが記されています。足を洗うということ、これは当時の僕、奴隷の仕事でありました。ですから、ペトロは自分の番になったとき、「わたしの足など決して洗わないでください」とイエスさまに言ったのです。イエスさまは、弟子たちも互いに仕え合うようにと模範を示されたわけでありますけども、それに先立って、マリアはイエスさまの足に香油を塗り、それを自分の髪の毛で拭ったのでありました。マリアはそのようにして自分がイエスさまに服従する者であることを表したのです。次回学ぶことになります12節以下には、イエスさまがエルサレムに迎えられる場面が描かれています。イエスさまは大勢の群衆からまさにイスラエルの王として迎えられるわけです。当然マリアは、イエスさまが明日エルサレムへ上られることを知っていたはずであります。そのイエスさまの足に、マリアは非常に高価なナルドの香油をすべて惜しげもなく塗ったのです。群衆が歓喜して「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と叫ぶ前に、マリアはナルドの香油を注ぐことにより、「イエスさま、あなたこそ油を注がれた方、メシアです」との信仰を表したのです。
しかし、そのマリアの行為に対して、弟子の一人で、後にイエスさまを裏切ることになるイスカリオテのユダが次のように言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。イスカリオテのユダは、マリアが高価なナルドの香油一リトラをイエスさまの足に塗ったことをもったいないと思ったのでしょう。そんな無駄遣いをするよりも、その香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施した方がよいではないかとユダは言ったのです。しかし、福音書記者ヨハネはこのユダの言葉について次のようにコメントしています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れをあずかっていながら、その中身をごまかしていたからである」。福音書記者ヨハネは、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダがこう言ったのは、貧しい人のためではなくて、自分がくすねたお金を満たすためであったと言うのです。私たちはイスカリオテのユダが忠実な弟子から突然裏切りを働いたと考えがちでありますけども、彼はイエスさまに従いながらも盗人であり、貪欲であったのです。ユダにとって、貧しい人々に施すことは大義名分でありまして、彼の関心はその香油を売って得たお金を自分の懐に入れることであったのです。そして、それは同時にイスカリオテのユダがイエスさまよりもお金を重んじていたことを教えているのです。そのようなユダの言葉を受けてイエスさまは次のように言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。マリアがイエスさまの足にナルドの香油を注いだのは、イエスさまへの感謝に溢れて、あなたこそメシア、油を注がれた方との信仰を表すためでありましたけども、イエスさまはそれを御自分を葬る行為として理解されました。当時のユダヤ人たちは死んだ者の体に香料を塗り、亜麻布で包んでから葬りました(19:40参照)。それは防腐処置というよりも、死んだ者への敬意の表明として行われたのです。イエスさまはマリアが自分の足に香油を塗ったことを葬りの備えであると言われたのであります。そのことはイエスさまが御自分を受難のメシアとしてご理解していたことを教えています。これからエルサレムで王として迎えられるイエスさまの玉座は十字架であったのです。そして、その十字架においてこそ神の救いは成し遂げられるのです。十字架によって神の栄光は現れる。十字架によって神の子が栄光を受けるのです。マリアは、イエスさまから、「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言われたとき、びっくりしたと思います。マリアはそんなことは思っても見なかったに違いないのです。しかし、私たちはイエスさまがこのマリアの行為を喜ばれて受けてくださったことを見落としてはならないと思います。マリアがナルドの香油を塗ってくれたことによって、イエスさまは葬りの備えを終えた者として死ぬことができることを喜ばれたのです。8節の「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」というイエスさまの御言葉は、旧約聖書の申命記第15章11節の御言葉を背景としています。申命記の第15章11節には次のように記されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。この申命記の御言葉を念頭に置くとき、私たちはイエスさまの御言葉を正しく理解することができます。イエスさまは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、どうでもよい」と言われたのではありません。申命記にありますように、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開くことは言うまでもないことであります。イエスさまがここで仰いたいことは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」ということです。マリアはそのことに気づいていたのです。マリアはイエスさまと一緒に食事ができるのは今日で最後になることに気づいていたのです。ですから、彼女はこの時とばかりに、惜しげもなくナルドの香油をイエスさまの足に塗り、それを自分の髪の毛で拭ったのです。しかし、イスカリオテのユダにはそれが分からないのです。ですから、その香油を三百デナリオンで売って貧しい人に施せたのに何ともったいないことかと不平を言うのです。
私たちはマタイによる福音書の終わりで、復活されたイエスさまが弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたことを知っております。イエスさまは十字架の死から三日目に復活され、天に昇られましたけども、御言葉と聖霊においていつも共にいてくださると私たちは信じております。それでは、今朝の「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という御言葉を私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。これはイエスさまと同じ時代に地上を歩んだ弟子たちだけに関係のあることで、聖霊の時代に生きる私たちには関係がない御言葉なのでしょうか。そうではないと思います。聖霊においても、イエスさまはいつも一緒にいるわけではない。イスカリオテのユダのように富に仕えるものとなるならば、イエスさまは私たちともはや一緒に歩むことはできなくなるのです。イエスさまはルカによる福音書の第16章13節以下で次のように仰せになっています。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。なぜ、盗人であり、貪欲であったイスカリオテのユダは後にイエスさまを裏切ることになるのか。それはユダが神さまにではなく、富に仕えるものであったからです。そして、私たちが富に仕えるものとなるならば、私たちはイエスさまを引き渡すもの、いや自らを滅びへと引き渡す者となってしまうのです。
先程、わたしは申命記の掟から言っても、貧しい人々に施しをするのは当然であると申しましたけども、しかし、それは主イエスに献げることをおろそかにする理由とはならないはずです。イエスさまは律法学者からどの掟が最も重要でしょうかと尋ねられたとき、次のように答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。神の御子であるイエスさまに献げることなくして、隣人に施しをすることができるのでしょうか。イエスさまに献げることなくして、隣人に施したとしても、それは結局のところ自分の利益のためにしているに過ぎず、そこに本当の隣人愛はないのです。イエスさまが教えられていることは、御自分を愛することなくして、隣人を愛することはできないということです。ですから、イエスさまはまず私たちに御自分を愛することを求められるのです。イエスさまにお会いすることのできた今日という日に、私たちのナルドの香油をおささげしたいと願います。