善にはさとく、悪にはうとく 2017年11月12日(日曜 朝の礼拝)

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善にはさとく、悪にはうとく

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 16章17節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
16:18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
16:19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
16:20 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
16:21 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
16:22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
16:23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
16:24 (†底本に節が欠落 異本訳)わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。ローマの信徒への手紙 16章17節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、パウロの個人的な挨拶の言葉をとおして、ローマの教会がユダヤ人と異邦人から、奴隷と自由な身分の者から、男と女からなっていることを学びました。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙で、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と記しました(ガラテヤ3:28)。そして、実際、ローマの教会はそのような教会であったのです。また、私たちは、イエス・キリストの福音を信じることによって、すべての教会と挨拶を交わすことができる。そのような交わりに生かされていることを学んだのであります。

 今朝の御言葉はその続きであります。

 17節から20節までをお読みします。

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹につかえている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 ローマの信徒への手紙も、そろそろ終わりになりますが、パウロは、最後に、ローマの信徒たちが学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒するようにと記します。この人たちは、未信者ではありません。イエス・キリストを信じて洗礼を受けたキリスト者です。キリスト者でありながら、学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒せよとパウロは言うのです。「あなたがたの学んだ教え」、これは、ローマの信徒たちが受け入れた、「教えの規範」のことであります。パウロは、6章17節で、こう記しておりました。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」。「伝えられた教えの規範」、それは、パウロがこの手紙に書き記した、イエス・キリストの福音であります。キリスト者でありながら、イエス・キリストの福音に反して、不和やつまずきをもたらす人々がいたのです。パウロは、そのような者たちを、たくさん見てきたわけですね。しかし、ここでパウロは、ローマの教会の中に、そのような者たちがいるとは記しておりません。19節に、「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます」とありますように、ローマの教会の中に、学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々はいなかったのです。パウロは、そのような者たちが、ローマの教会に入り込んでくることを予想して、この所を記しているのです。イエス・キリストの福音に反して、不和やつまずきをもたらす人々とは、どのような人々なのでしょうか?ここで、パウロが念頭においているのは、ガラテヤの教会を惑わせた者たち、いわゆるユダヤ主義キリスト者のことであると思います。彼らは、救われるには、イエス・キリストを信じるだけでは十分ではなく、律法を守らねばならないと教えておりました。それで彼らは、ガラテヤの信徒たちに、律法の軛を負うこと、すなわち割礼を受けることを強要していたのです。このことは、パウロが宣べ伝えた福音、ガラテヤの信徒たちが学んだ教えに反するものでありました。そして、この教えによって、教会に不和やつまずきがもたらされたのです。ガラテヤの教会を惑わしていた偽教師たちは、パウロが使徒であることを否定し、異邦人キリスト者も、割礼を受けて、律法を守るよう教えていたのです。そのようなガラテヤの教会に、パウロは、自分がイエス・キリストの使徒であり、救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでよいことを、書き記したのであります。ガラテヤの信徒への手紙1章6節から9節でパウロはこう記しています。新約の342ページです。

 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 また、3章1節から7節にはこう記されています。

 ああ、物分かりが悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・。あなたがたに霊を授け、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

 さらに、6章11節から16節にはこう記されています。

 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 このような手紙によって、パウロはもう一度、人が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によることを、ガラテヤの信徒たちに教えたのです。誤解のないように申しますが、ガラテヤの教会を惑わしていた人々も、イエス・キリストを信じることを否定したわけではありません。彼らは、それに律法を行うことを付け加えたわけです。しかし、そのことはパウロにとりまして、イエス・キリストへの信仰によって救われることを否定する、福音に反する教えであったのです。信仰によって救われるとは、神様の恵みによって救われるということであります。他方、律法を行うことによって救われるとは、自分の力で救われるということです。そうすると、教会の中で、優劣が生じるわけですね。それこそ、不和やつまずきが起こるわけです。もし、私たちの教会の中に、福音に反して、不和やつまずきをもたらす人がいたとしたら、その人は教会訓練の対象となります。なぜなら、その人は、洗礼を受けたときの誓約、あるいは、信仰告白をしたときの誓約に違反しているからです。六つの誓約の第六番目は、次のとおりです。「あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのために努めることを、約束しますか」。私たちは、教会の純潔と平和とのために努めることを、神と教会の前に約束したのです。そのような者たちとして、不和やつまずきをもたらすことがないように、気をつけたいと思います(使徒20:30、「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の298ページです。

 イエス・キリストの福音に反して、不和やつまずきをもたらす人々について、パウロは、18節で次のように記しています。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いている」。「自分の腹に仕える」とは「自分の欲望に仕える」ということであります(新改訳参照)。自分の欲望を満たすために、うまい言葉やへつらいの言葉で、純朴な人をだますのです。先程のガラテヤの教会を惑わせていた者たちもそうでした。パウロは、彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けるように言うのは、肉について誇りたいためであると記しています(ガラテヤ6:13参照)。キリストに仕える者であれば、教会の交わりに不和やつまずきをもたらすはずはありません。なぜなら、キリストは、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられる御方であるからです(ヨハネ13:34参照)。また、キリストは、「つまずきをもたらす者は不幸である」と言われる御方であるからです(マタイ18:7参照)。私たちが、教会の交わりに不和やつまずきをもたらすならば、私たちは、キリストではなく、自分の欲望に仕えていると言えるのです。

 パウロは、ローマの信徒たちが従順であることを知って喜んでおりますが、「なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます」と記します。何に対しても従順であってはならないのでして、善いことは賢く、悪いことはよく知らない、疎遠であることが望ましいのです(一コリント14:20参照)。私たちが生きている現代社会は、様々なニュース、情報で満ちております。そのような私たちにも、「善にさとく、悪には疎く」という御言葉は語られているのです。

 パウロは20節で、「サタン」について述べておりますが、それは、イエス・キリストの福音に反して、不和やつまずきをもたらす人々の背後に、サタンの働きを見ているからです(二コリント11:15参照)。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」。この御言葉は、創世記の3章15節、いわゆる原福音を念頭において記されています。創世記の3章15節で、神様は、女を誘惑した蛇に、その背後にいるサタン(悪魔)に、こう言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。サタンの頭を砕く、女の子孫こそ、イエス・キリストであります。しかし、パウロは、ここで、「平和の神が、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と記しております。このことは、私たちも、イエス・キリストの勝利にあずかる者となることを教えています。現在、私たちは、イエス・キリストを信じるがゆえに、投獄されたり、鞭打たれたりすることはありません。では、悪魔からの攻撃を受けていないかと言えば、そうではありません。悪魔は、イエス・キリストの福音に反して、不和やつまずきをもたらす人々によって、教会を攻撃しているのです。私たちの魂は、福音に反する教えによって、攻撃にさらされているのです。ですから、私たちは、善にさとく、悪にはうとくならねばならないのです。主イエス・キリストと共に、歩まなければならないのです。

 21節から23節までをお読みします。

 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれた者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。

 ここには、パウロの側にいた、テモテ、ルキオ、ヤソン、ソシパトロの挨拶が記されています。また、この手紙を筆記したテルティオの挨拶も記されています。パウロは、口述筆記で、手紙を書いていたようです。テルティオは、パウロの許可を得て、挨拶を書き記したのでしょう。また、パウロがこの手紙を記したと考えられているコリントの信徒たちの挨拶が記されています。ガイオは、パウロから洗礼を受けた、数少ない信徒の一人でありました。ガイオはパウロに宿を提供していたようです。また、彼の家で礼拝がささげられていたようです。エラストは、「市の経理係」とありますから、社会的地位の高い人物であったようです。クアルトについては、エラストの兄弟とも言われますが、よく分かりません。このように、パウロの背後には、同労者たちと、コリントの信徒たちがいたのです。このことは、パウロがこの手紙に書き記した福音が、多くの人々と教会によって受け入れられていたことを教えています。

 今朝の御言葉を改めて振り返りますと、礼拝において、福音が福音として語られ、聞かれることが、どれほど大切であるかが分かります。私たちは、イエス・キリストの福音に従うことによって、主にある平和と一致を造り出し、保つことができるのです。

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