キリスト・イエスに倣って 2017年10月01日(日曜 朝の礼拝)
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キリスト・イエスに倣って
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 15章1節~6節
聖書の言葉
15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。ローマの信徒への手紙 15章1節~6節
メッセージ
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今朝は、ローマの信徒への手紙15章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から3節をお読みします。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
ここでの「強い者」とは、「何を食べてもよいと信じている人」のことであります(14:2参照)。「わたしたち強い者は」とありますように、パウロも強い者でありました。パウロは、14章14節でこう記しています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」。パウロは、それ自体で汚れたものは何もないと、主イエスによって知り、確信していました。では、パウロは、信仰の弱い人たちの前で、肉を食べ、ぶどう酒を飲んだかと言えば、そうではありません。パウロは、14章20節、21節でこう記しています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」。パウロは、弱い人が疑いながら肉を食べ、罪を犯すことがないように、強い人たちに肉を食べる自由を用いないことを求めるのです。パウロは、そのような文脈において、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と記すのです。
何を食べてもよいと信じている人たちは、自分たちのことを「強い者」と呼び、野菜だけを食べている人を「弱い人」と呼んでおりました。そのように、野菜だけを食べている人を軽蔑していたのです。しかし、パウロは、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と記します。強い者に求められること、それは自分の満足を求めることではなくて、強くない者の弱さを担うことであるのです。具体的に言えば、強い者は肉を食べるという自分の満足を求めるべきではなく、弱い人を罪に誘うことがないように、肉を食べないことが求められるのです。パウロ自身も、第一コリント書の8章13節で、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と記しています。強い者は、「何を食べてもよい」という確信を神の御前で心に持ちつつ、強くない人の「弱さ」を担うために、肉を食べる自由を用いないことが求められるのです。
ここで「強い者」と訳されている言葉は「できる者」という意味であります。他方、「強くない者」と訳されている言葉は「できない者」という意味であります。強い者は、何でも食べることができるのです。しかし、強くない者は肉を食べることができないのです。それは、肉それ自体が汚れているからではなくて、汚れていると思っているゆえであるのです。もし、できない者を説得して、肉を食べさせようとするならば、それはその人に罪を犯させることになるのです。そのようなことをしてはならない。できないことを無理にさせようとしてはならず、むしろ、そのできないことを受け入れることが、できる者には求められているのです。それが、本当の強さであるとパウロは言うのであります。
「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」。「おのおの」、「互いの」とありますように、パウロは、「強い者」だけではなく、「強くない者」にも語りかけています。教会の一員とされたおのおのが善を行って兄弟姉妹を喜ばせ、互いの徳を高めるべきであるのです。このパウロの言葉も、神の国の現れである教会を建て上げるという視点から記されています。強い者が強くない者の弱さを担うべきであるという言葉も同じです。神の教会を建て上げるためには、強い者が強くない者の弱さを担うべきであるのです。もし、強い者たちが自分の満足を求めるならば、それこそ、神の働きを破壊してしまうことになるのです。
パウロは、強くない者の弱さを担ってくださった方として、また、自分の満足を求めなかった方として、イエス・キリストのことを記します。イエス様こそ、強い者であり、できる者であります。それゆえに、イエス様は、弱い人たちの弱さを担われたのです(イザヤ53:4、マタイ8:17参照)。イエス様は、できない人たちを、御自分の民として受け入れ、癒してくださいました。自分は強い者であると主張していた律法学者やファリサイ派の人たちが、罪人と呼んで切り捨ててしまった人たちを、イエス様は訪ねてくださり、病を癒し、罪の赦しを宣言されたのです。マタイ福音書の9章35節、36節に、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と記されています。このようなイエス様こそ、強い御方であるのです。
また、イエス様はできる御方であるにもかかわらず、御自分の満足をお求めにはなりませんでした。福音書を見ますと、イエス様が救い主としての公生涯を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。空腹なイエス様に、悪魔は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しました(マタイ4:3参照)。もし、イエス様が自分の満足を求められて、石をパンに変えて食べたとしたら、どうであったでしょうか?イエス様の救い主としての働きは台無しになってしまったはずです。しかし、イエス様は、自分の満足を求められませんでした。イエス様は神の子として、聖書の言葉をもって、悪魔の誘惑を退けられたのです。イエス様は自分の満足を求められなかった。このことが最も明らかに示されたのが、イエス様が十字架に付けられたときであります。祭司長たちは、律法学者たちや長老たちと一緒に、イエス様を侮辱してこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:42、43参照)。もし、イエス様が自分の満足を求める者であったなら、十字架から降りられたことでしょう。しかし、イエス様は、御自分の満足をお求めになりませんでした。では、イエス様は、何を求められたのでしょうか?何を第一として、地上の生涯を歩まれたのでしょうか?パウロは、ここで、詩編69編10節後半を引用しています。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」。ここでの「あなた」とは神様のことです。「そしる」とは「悪しざまに言う。わるくいう。非難する。けなす」という意味です(『広辞苑』)。神様を悪く言う者の悪い言葉が、イエス様にふりかかった。それほどに、イエス様は、神様の御心を第一として歩まれたのです。神様の御心を行うイエス様をそしる者は、実は、神様をそしる者である。そのようにして、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という聖書の御言葉が実現したのです。
4節から6節までをお読みします。
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせて声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
パウロは、3節で、旧約聖書の詩編69編10節の御言葉を引用しました。それに続けて、聖書が私たちにとって、どのような書物であるかを記します。「かつて書かれた事柄」とは、旧約聖書のことです。パウロは、旧約聖書全体が、私たちを教え導くためのものであると記します。これと同じようなことを、パウロは、4章23節、24節で記しておりました。「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」。このように、聖書は、私たちを教え導くために記された書物であるのです。それゆえ、私たちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができるのです。ここで「慰め」と訳されている言葉は、「励まし」とも訳すことができます(新改訳参照)。私たちが聖書から忍耐と慰め(励まし)を学んで、希望を持ち続けるできるのは、聖書に記されている人物が忍耐し、神様から慰めを与えられ、神様の約束が実現することを待ち望んで生き、そして死んでいったからです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフもそうです。モーセも、ダビデも、預言者たちもそうであります。それゆえ、私たちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができるのです。そして、このように聖書を読まれた御方こそ、イエス・キリストであったのです。イエス様は、聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができたのです。
5節、6節は、パウロの祈りの言葉が記されています。なぜ、私たちが聖書から忍耐と慰めを学ぶことができるのか?それは、聖書が忍耐と慰めの源である神の御言葉であるからです。聖書は私たちを教え導くものであると言い切れるのも、聖書が神の霊の導きのもとに書かれた書物であるからです(二テモテ3:16、17「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」参照)。パウロは、忍耐と慰めを賜物として与えてくださる神様に、「キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせて」くださるよう祈ります。「キリスト・イエスに倣って」と訳されている言葉は、「キリスト・イエスに従って」とも訳すことができます(14:15「愛に従って」参照)。パウロは、強い人と弱い人に、キリスト・イエスに従って、互いに同じ思いが与えられるよう祈っているのです。キリスト・イエスに従うときに、与えられる同じ思いとは、神様の御心を第一とする思いであります。それは、主の祈りの第一の祈願である、父なる神の御名が聖なるものとされることを願う思いです。そのとき、私たちは心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえることができるのです。教会の一致は、そのようにして、世に示されるのです。
私たちは、これから聖餐の恵みにあずかります。聖餐は、パンを食べ、ぶどう酒を飲む、飲み食いであります。しかし、そのパンとぶどう酒が指し示すものは、主イエス・キリストの十字架の贖いの御業であります。私たちはパンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって、自分がキリストの死によって贖われた者たちであることを味わい知るのです。そして、主イエス・キリストに従う者として、心を合わせ、声をそろえて、父なる神を賛美するのです。そのような一致を、イエス・キリストは私たちに与えてくださっております。そのことをよく覚えて、聖餐の恵みにあずかりたいと願います。