愛に従って歩む 2017年9月17日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 14章13節~16節
聖書の言葉
14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。ローマの信徒への手紙 14章13節~16節
メッセージ
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ローマの教会には、信仰の強い人たちと信仰の弱い人たちがおりました。信仰の強い人たちは、何でも食べておりました。他方、信仰の弱い人たちは野菜だけを食べておりました。そして、互いに裁き合っていたのです。パウロの記述を読みますと、信仰の強い人たちが多数派であったようです。ローマの教会は、多くの異邦人キリスト者と少数のユダヤ人キリスト者からなっておりました。ですから、信仰の強い人たちの多くは異邦人キリスト者であったのかも知れません。また、信仰の弱い人たちの多くはユダヤ人キリスト者たちであったのかも知れません。それはよく分かりません。しかし、弱い人たちが肉を食べず野菜だけを食べていた理由は、宗教的な理由によるものであります。考えられる一つの推測は、ここでの「肉」が偶像に献げられた肉であったということです(ダニエル1章、一コリント8~10章参照)。信仰の弱い人たちは、偶像に献げられた肉を食べることによって汚れると考えて、肉を食べず野菜だけを食べたのです。しかし、信仰の強い人たちは、偶像に献げられた肉であろうと気にせずに食べたのです。
パウロは、多数派である信仰の強い人たちに、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と記しました(1節)。そして、信仰の強い人たちが、信仰の弱い人たちを受け入れるべき理由として、神様が信仰の弱い人たちをも受け入れられたことを記します。信仰の弱い人たちは、主イエスの召し使いです。それゆえ、強い人たちは、弱い人たちを裁く権限を持っていないのです。主イエスは召し使いを立たせてくださる御方であるのに、その召し使いを倒そうとしてはならないのです。弱い人たちだけではありません。強い人たちも主イエスの召し使いであります。弱い人たちは主イエスのために野菜だけを食べ、神様に感謝している。強い人たちは、主イエスのために何でも食べ、神様に感謝しているのです。弱い人も、強い人も、その現れ方は違いますが、内なる動機は、主イエスのためであるのです。
私たちも、主イエスの召し使い、キリスト者であります。私たちは、自分のために生き、また死ぬ者ではなく、主イエスのために生き、死ぬ者たちとされているのです。主イエスは、この地上の生涯だけではなく、死を越えて、私たちの主であられるのです。私たちは、主イエスに仕える僕仲間であります。また、主イエスにある兄弟姉妹であるのです。そうであれば、兄弟姉妹を裁いてはならないのです。パウロは、旧約聖書のイザヤ書45章の御言葉を引用して、私たちが神様の裁きの座の前に立つと記します。私たちは裁く者ではなくて、裁かれる者であるのです。そのとき、私たちは自分のことについて神様に申し延べることになるのです。自分の罪について弁解の言葉を述べるだけではありません。私たちは、主イエス・キリストの父なる神にこそ、義と力があることを告白し、御名をほめたたえることになるのです。私たちが地上の礼拝において、罪の赦しの宣言を聞いて、神様をほめたたえているように、私たちは、罪赦された者として、神様をほめたたえることになるのです。私たちは、そのような者たちであるのだから、もう互いに裁き合わないようにしようと、パウロは記すのです。
ここまでが、前回お話したことの振り返りであります。今朝は、その続きである13節から16節までの御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
13節から16節までをお読みします。
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
パウロは、「もう互いに裁き合わないようにしよう」と記しておりますが、「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」と記していますから、おもに、「信仰の強い人たち」に対して、記しています。「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置く」とは、肉を食べずに野菜だけを食べている人たちの前で、肉を食べないということです。野菜だけを食べている弱い人たちは、偶像に献げられた肉を食べることによって汚れると考えておりました。そのような弱い人たちをつまずかせることがないように、彼らの前で偶像に献げられた肉を食べてはならないとパウロは記すのです。では、パウロは偶像に献げられた肉を汚れていると考えていたのでしょうか?そうではありません。パウロ自身は何でも食べてよいと考える強い人でありました。14節でパウロは自分の立場を次のように記しています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それはその人にだけ汚れたものです」。食べ物が汚れている。その理由を、私は偶像に献げられたことから推測しました。しかし、もう一つ考えられる推測は、旧約の掟に記されている食物規定であります。レビ記の11章を見ると、食べてよい清いものと食べてはならない汚れたもののリストが記されています。旧約の177頁。レビ記の11章1節から8節までをお読みします。
主はモーセとアロンにこう仰せになった。イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。岩狸は反すうするが、ひづけは分かれていないから、汚れたものである。野兔も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
このように、旧約聖書には、食べてよい清いものと、食べてはならない汚れたものが定められておりました。今もユダヤ教徒が豚肉を食べないのは、この掟のためであります。信仰の弱い人たちは、レビ記に記されている食物規定に従って、豚などの肉を食べなかった。そのようにも推測できるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の294頁です。
「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」。このパウロの言葉の背後には、マルコによる福音書の7章に記されている主イエスの御言葉があると考えられています。そこで、イエス様は、「外から人の体に入るもので人を汚すものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と仰せになりました。このように、イエス様はすべての食べ物を清いとされたのです(新改訳、口語訳マルコ7:19参照)。また、使徒言行録10章を見ますと、天にあげられたイエス様が、ペトロに幻を通して、神様はすべての食べ物を清められたことを三度お示しになりました。ペトロは、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声を三度聞いたのです。それは、ペトロに、異邦人であるコルネリウスの家を訪れる準備をさせるためでありました。ユダヤ人と異邦人との交わりの障害となって食物規定を無効であることを示すことによって、主イエスはペトロに、コルネリウスの家を訪ねる心備えをさせられたのです。パウロは、この手紙の10章4節で、「キリストは律法の目標であります」と記しました。ここで「目標」と訳されている言葉(テロス)は、「終わり」とも訳されます(新改訳参照)。パウロは、イエス・キリストが食物規定という律法を終わりにされたことを知り、確信していたのです。ただ問題は、それ自体は汚れていなくても、汚れたものだと思う人にとっては、汚れたものであるということであります。「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」。それゆえ、強い人たちは、自分たちの食べ物のことで、兄弟姉妹が心を痛めないように配慮する必要があるのです。強い人たちは、偶像に献げられた肉を、あるいは、旧約の掟で食べてはいけないとされていた肉を、彼らの前で食べてはいけないし、さらには、彼らにも食べるように促してもならないのです。もし、そのようにするならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいないと、パウロは言うのあります。「愛に従って歩む」。これこそ、私たちキリスト者に求められていることであります。パウロは、12章9節、10節で、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた物と思いなさい」と記しました。また、13章8節では、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法全体を全うしているのです」と記しました。そのような愛に従って歩む者として、強い人はどうすればよいのでしょうか?弱い人が心を痛めようがかわまず、肉を食べるべきでしょうか?そうではありません。強い人は、弱い人をつまずかせないために、自分の自由を制限すべきであるのです。食べ物のことで兄弟姉妹を滅ぼすことがないように、彼らの前で肉を食べないようにすべきであるのです。なぜなら、キリストはその兄弟姉妹のために死んでくださったからです。イエス様が、その人を救うために十字架の死を死んでくださった。それほどまでに、主イエスはその人を愛してくださったのです。そうであれば、主イエスの愛に従って歩む私たちは、兄弟姉妹を滅ぼさないために、細心の注意をすべきであるのです。
パウロは、16節で、「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」と記します。ここでの「あなたがた」とは「何でも食べてよいと考える信仰の強い人」のことです。そして、「善いこと」とは、「それ自体で汚れたものは何もないと確信して、何でも食べること」です。これはパウロ自身の立場でもあり、善いことであるのです。しかし、その善いことが、「そしりの種」になることがあるとパウロは記すのです。「そしる」とは、「悪く言われる」ことです。悪く言うのは、教会の外の人たちでありましょう。「それ自体で汚れたものは何もないと確信して、何でも食べること」そのことは善いことであります。しかし、それによって、教会の一致が損なわれ、弱い人たちが滅んでしまうようなことがあれば、周りの人々からそしりを受けることになるのです。善いことのために、キリストの教会が人々から悪く言われることになるのです。
イエス・キリストによって贖われ、主のものとされた私たちであります。また、神様を父とし、イエス・キリストを長兄とする神の家族とされた私たちであります。その私たちが、食べ物のことで争い、弱い人が滅んでも肉を食べると言うならば、それは人々が教会のことを悪く言う原因となるのです。そのようにならないために、あなたたちは愛に従って歩みなさい。食べ物のことについても、弱い人々に対する愛をもって判断しなさいとパウロは言うのあります。私たちの中には、野菜だけを食べる弱い人はいないかも知れません。では、今朝の御言葉は、私たちに関係がないかと言えばそうではありません。私たちの自由な態度によって、心を痛めている兄弟姉妹がいるならば、私たちはその兄弟姉妹を滅ぼさないように、自分の自由を制限すべきであるのです。自分にとって善いことであっても、他の人にはつまずきとなることがある。そのことを心に留めて、私たちは愛に従って歩んで行きたいと願います。