わたしたちは主のもの 2017年9月10日(日曜 朝の礼拝)
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わたしたちは主のもの
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 14章7節~12節
聖書の言葉
14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙 14章7節~12節
メッセージ
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ローマの信徒への手紙14章1節から15章13節までは、ひとつのまとまりをなしています。パウロは、そこで、ローマの教会に起こっていた問題について記しております。前回は、私たちは、1節から6節までを御一緒に学びました。今朝は、最初に、その振り返りをしたいと思います。
ローマの教会には、信仰の弱い人と信仰の強い人がおりました。信仰の弱い人は、肉を食べず野菜だけを食べておりました。他方、信仰の強い人は、何でも食べておりました。なぜ、信仰の弱い人たちは、野菜だけを食べていたのでしょうか?考えられる一つの推測は、その肉が偶像にささげられた肉であったからです。偶像にささげられた肉を食べることによって自らを汚すまいと信仰の弱い人たちは野菜だけを食べたのです。他方、信仰の強い人たちは、偶像にささげられた肉であっても気にしないで、何でも食べたのです。ローマの教会には、信仰の弱い人と信仰の強い人がおり、両者のグループは互いに裁きあっておりました。パウロの記述を読みますと、信仰の強い人が多数派であり、信仰の弱い人が少数派であったようです。それゆえ、パウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と記すのです。そして、その根拠を、「神はこのような人をも受け入れられたからです」と記すのであります。そもそも、強い人が弱い人を裁く権利などないのです。なぜなら、弱い人は主イエスの召し使いであるからです。いや、弱い人だけではありません。強い人も主イエスの召し使いであるのです。ですから、弱い人も強い人も互いに裁き合う権利を持っていないのです。信仰の弱い人は、ある日を他の日よりも尊ぶ人たちでもあったようです。この背後には、旧約の掟があったと考えられます。信仰の弱い人たちは、律法に定められている祭りの日を特別に尊んだのです。おそらく、信仰の強い人たちは、すべての日を同じように尊んだのでしょう。パウロは、この問題について、「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきです」と記します。このことは、先程の食事についても同じであります。野菜だけ食べるか、何でも食べるか。特定の日を尊ぶか、すべての日を同じように尊ぶかは、各自が自分の心の確信に基づいて決めればよろしいとパウロは言うのです。ここでパウロはそれぞれの異なる主張を認めております。違っていてもよいと言うのです。しかし、両者に共通する点がある。それが「主イエスのため」という確信であるのです。「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。信仰の強い人は、主イエスのために何でも食べる。そして神様に感謝している。信仰の弱い人は、主イエスのために野菜だけを食べる。そして神様に感謝している。このように、現れ方は異なりますけれども、内なる動機、その心の確信は、それが主イエスのためになるという同じ確信であるのです。信仰の強い人も、信仰の弱い人も、主イエス・キリストの召し使いであります。それゆえ、その心の確信も、主イエスのためという確信であるのです。そのことに気づくとき、互いに裁き合うことなく、主イエスの食卓を共に囲むことができる。主の晩餐を共に祝うことができるのです。
ここまでが、前回お話したことの振り返りであります。今朝は、7節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
7節から9節をお読みします。
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
パウロは、直前の6節で、食べること、食べないこと、それはどちらも主イエスのためであると記しました。そして、同じことが、生きるにも、死ぬにも言えると記すのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。これはまことに堂々たる言葉であります。このような言葉を読んで、皆様はどのような感想を持たれたでしょうか?わたしは、改めて、「そうなんだぁ」と思いました。私たちはイエス・キリストを主と信じて、洗礼を受け、教会の一員とされました。幼児洗礼を受けられた方でしたら、自分の口で「イエス・キリストは主である」と告白して、教会員としてのすべての特権にあずかる者となったのです。イエス・キリストを信じる私たちはキリスト者であります(使徒11:26参照)。キリスト者とは、どういう者であるのか?それは、「自分のために生きる者ではなく、自分のために死ぬ者でもない」ということです。私たちがキリスト者となる前は、どうであったでしょうか?私たちは、自分のために生き、自分のために死ぬ者であったのです。「生きるのも、死ぬのも、自分次第である。自分の人生は自分のものである」と考えていたのです。イエス・キリストを主と信じ、受け入れる前は、自分自身が主人であったのです。しかし、イエス・キリストを信じて、キリスト者とされた今はどうかと言えば、私たちは、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」者とされたのです。このことは、主イエスの御支配が私たちの全生涯に及ぶこと、地上の生涯ばかりではなく、死んでからの生涯にも及ぶことを教えております。パウロは4節で、「召し使い」(家内奴隷)という言葉を使いましたけれども、主イエスの召し使いである私たちは、自分のために生き、また死ぬのではなく、主イエスのために生き、また死ぬ者とされているのです。主イエスのために生きるのは分かるのですが、主のために死ぬとはどのようなことでしょうか?主イエスを証しする殉教の死を遂げるということでしょうか?そうかも知れませんが、ここで言われていることは、主イエスに結ばれて死を迎えるということではないかと思います。主イエスとの関係は死によって断ち切られることはないと信じて死を迎えること。それが主イエスのために死ぬということであるのです。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。そうであれば、私たちは、自分が生きるにしても、死ぬにしても、主イエスのものであることが分かります。自分が主イエスの召し使いである。そのことがよく分かるのは、主イエスにお仕えしているときであります。私たちが自分がキリスト者であることがよく分かるのは、主の日に教会に集い、イエス・キリストの御名によって神様を礼拝しているときです。それと同じように、主のために生き、主のために死ぬのであれば、私たちは、自分が生きるにしても、死ぬにしても、主のものであることが分かるのです。それは、私たちが勝手に思い込んでいるのではありません。そうではなくて、キリストが死んで、三日目に栄光の体で復活されたという事実に基づくことであるのです。キリストは私たちが生きている間だけ主なのではありません。キリストは、私たちが死んでからも主であられるのです。なぜ、そう言えるのか?それは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んで、私たちを正しい者とするために復活されたからです(ローマ4:25参照)。イエス様は、弟子たちに「人の子は…多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」と言われました(マルコ10:45)。「身代金」とは「贖いの代価」とも訳せます(新改訳参照)。イエス・キリストは十字架のうえで命をささげることによって、私たちを罪から贖い、御自分のものとしてくださったのです。そして、復活することによって、御自分と私たちとの関係が、死を越えて続いていくことを示されたのです。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。この恵みを、ハイデルベルク信仰問答は「ただ一の慰めである」と告白しております。
第1問 生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか。
答 わたしの唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、わたしの体も魂も、わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストの所有(もの)であるということです。
主は尊い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、わたしを悪魔のすべての支配から贖い出してくださいました。
主は、今も、天にいますわたしの父のみこころでなければ、わたしの頭から髪の毛一本も落ちることのないように、いな、すべてのことがわたしの救いに役立つように、わたしを護っていてくださいます。
それゆえ、主は、御自身の聖霊によって、わたしに、永遠の生命(いのち)を保証し、今からのちは、主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることができるようにしてくださるのです。
私たちが生きるにも死ぬにも、主イエスのものであること。それは、私たちにとっての確かな拠り所であり、力強い慰めであるのです。
10節から12節までをお読みします。
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ここでパウロは「兄弟」という言葉を用いて、自分とは主張の異なる人が主にある兄弟姉妹であることを想い起こさせます。主イエスは、私たちを御自分にあって、兄弟姉妹としてくださいました。私たちは神様を父とし、イエス・キリストを長兄とする神の家族であるのです。そうであれば、私たちは互いを裁いたり、侮ったりしてはならないのです。むしろ、私たちは互いに愛し合うべきであるのです(一ヨハネ5:1、2参照)。
私たちが兄弟を裁いてはならない究極的な理由、それは、私たちが皆、神様によって裁かれる者であるからです。イエス・キリストを信じた私たちも、神の裁きの座の前に立つことになります(二コリント5:10参照)。イエス様が十字架のうえで、罪の裁きを受けてくださったのだから、私たちは神の裁きを受けなくてもよいのではないかと考えるかも知れません。けれども、イエス・キリストを信じた私たちも救われた者として裁きを受けることになるのです。そのことを論証するために、パウロは、旧約聖書のイザヤ書45章23節を引用するのです。実際に聖書を開いて確認したいと思います。旧約の1137頁、イザヤ書45章20節から25節までをお読みします。
国々から逃れて来た者は集まって/共に近づいて来るがよい。偶像が木に過ぎないことも知らず担ぎ/救う力のない神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て/恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。
24節に、「恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う」とあります。ここで「恵みの御業」と訳されている言葉は、「義」という言葉(ツェデク)です。主をほめたたえる。それは、義と力は主にあると告白することであるのです。そして、そのような者を主は正しい者としてくださるのであります。私たちキリスト者は、そのような者とされているのです。なぜなら、私たちは、すでにこの地上の礼拝において、主イエス・キリストこそ、私たちを正しい者としてくださった力ある御方であると告白しているからです。私たちは、主イエスによって正しい者とされ、神を誇る者とされているのです。そのような者たちとして、私たちは一人一人自分のことについて神様に申し述べることになるのです。自分以外の他の兄弟について申し述べるのではありません。自分のことを神様に申し述べるのです。そのとき、私たちはどのような言葉を語るのでしょうか?それこそ、私たちは神をほめたたえる言葉を語るのではないでしょうか?私たちは、神様に裁かれる者として、兄弟姉妹を裁いてはならない。いやそれ以上に、私たちは主イエスによって正しい者として、神様をほめたたえているゆえに、兄弟姉妹を裁いてはならないのです。