主イエスのために 2017年9月03日(日曜 朝の礼拝)
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ローマの信徒への手紙 14章1節~6節
聖書の言葉
14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。
14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。
14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。
14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。ローマの信徒への手紙 14章1節~6節
メッセージ
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今朝からローマの信徒への手紙の14章に入ります。14章1節から15章13節までは一つの大きなまとまりであると言われています。ここでパウロはローマの教会に起こっていた問題を取り上げています。パウロは、ローマの教会を訪れたことはありませんでした。しかし、16章を見ますと、多くの友人がいたことが分かります。おそらく、パウロは、その友人たちからローマの教会の問題について聞いていたのでしょう。そのローマの教会の問題を、14章1節から15章13節で扱っているのです。今朝は、14章1節から6節までを御一緒に学びたいと願います。
1節から3節までをお読みします。
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
「信仰の弱い人」とありますが、信仰の弱い人とは、野菜だけを食べている人のことであります。肉を食べないで野菜だけを食べている人、それが信仰の弱い人であるのです。では、信仰の強い人とは、どのような人のことを言うのでしょうか?それは、何でも食べてもよいと信じている人のことであります。パウロ自身は、信仰の強い人でありました。14節を見ますと、こう記されています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、確信しています」。また、15章1節を見ますと、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであ」ると記されています。ローマの教会には、何を食べてもよいと信じる強い人たちと、野菜だけを食べる弱い人たちがいたのです。おそらく、何を食べてもよいと信じる強い人たちが多数派であったのでしょう。それゆえ、パウロは、信仰の強い人たちに対して、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と記すのです。
ローマの教会には、何でも食べる信仰の強い人と、野菜だけを食べる信仰の弱い人がおりました。信仰の強い人が多数派であり、信仰の弱い人が少数派でありました。そして、この両者の間で争いが起こっていたようです。それゆえ、パウロは、「食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」と記すのです。この人たちがどのような人たちであるかは、よく分かりません。一つの推測は、何でも食べる人は、異邦人でイエス・キリストを信じた者たちであり、野菜しか食べない人はユダヤ人でイエス・キリストを信じた者たちであるという推測です。ローマの教会は多くの異邦人キリスト者と少数のユダヤ人キリスト者からなる教会でありました。その少数のユダヤ人キリスト者が、野菜だけを食べていたと推測できるのです。21節を見ますと、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず」とありますから、野菜だけを食べていた人は、肉も食べずぶどう酒も飲まなかったようです。こう聞きますと、私たちは、バビロンに連れて行かれたダニエルのことを想い起こすのではないでしょうか?ダニエル書の1章8節にこう記されています。「ダニエルは、宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た」。バビロンの宮廷の肉と酒は、異教の神々に献げられたもののおさがりでありました。それゆえ、ダニエルは肉を食べず、野菜だけを食べたのです。また、ダニエル書まで遡らなくても、コリントの信徒への手紙一の8章から10章で、パウロは偶像にささげられた肉の問題について記しています。当時は、偶像にささげられた肉のおさがりが市場で売られておりました。その肉を食べると、偶像の支配のもとに戻ってしまうのではないかと考える者たちがいたのです。その者たちは、やはり肉を食べなかったのです。この人たちは、ユダヤ人ではなく偶像に親しんでいた異邦人でありました。ですから、信仰の弱い人はユダヤ人キリスト者であると言い切ることはできないかも知れません。しかし、弱い人たちが肉を食べずに、野菜だけを食べていたのは、その肉が異教の神々にささげられたものであり、それを食べることによって汚れると考えていたからであると推測できるのです。
何でも食べてもよいと信じている人たちは、野菜しか食べない人を、信仰の弱い人たちだと軽蔑しておりました。他方、野菜だけを食べる人たちは、何でも食べる人たちを、自分を汚していると裁いていたのです。しかし、パウロは、そのように互いを非難せずに、受け入れるよう記すのです。なぜなら、神様がこのような人をも受け入れられたからです。神様は野菜だけを食べている弱い人をも受け入れてくださいました。ですから、何でも食べてもよいと信じているあなたがたも、弱い人を受け入れなさいと記すのです。信仰の弱い人の考えを批判して、何を食べてもよいと信じるようになってから受け入れるのではありません。野菜だけを食べている信仰の弱いままで受け入れなさいとパウロは言うのです。そして、その根拠は、神様がその弱い人を受け入れてくださっているからであるのです。
4節をお読みします。
他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」。パウロは、この言葉を、どちらのグループに対して語っているのでしょうか?3節に、「食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とありましたから、食べない人、すなわち信仰の弱い人に語りかけているようにも見えます。しかし、そうではないと思います。パウロは、多数派である強い人たちに語りかけているのです。野菜しか食べない人は、少数派であり、教会の中で弱い立場にありました。ですから、4節のパウロの言葉は、教会の多数派で、強い立場にある何を食べてもよいと信じている人たちに向けて言われているのです。パウロは、強い人たちが弱い人たちを受け入れずに、裁くならば、それは他人の召し使い(家内奴隷)を、裁いていることになると言うのです。ここでの「他人」とは、弱い人を受け入れてくださった主イエス・キリストであります。弱い人が立つのも倒れるのも主人であるイエス・キリストによることであるのです。それゆえ、強い人は、弱い人を倒してはならない。たとえ、倒れたとしても、主イエスは弱い人を立たせることができる御方であるのです。詩編の145編14節に、「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」とあります。主イエスは倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を立たせてくださるのです。このように見てきますと、弱い人を倒そうとすることが、弱い人を立たせられる主に背く行為であることが分かります。なぜなら、強い人も、主イエスの召し使いであるからです。弱い人も強い人も、主の家で働く召し使いであり、主に受け入れられた者たちであるのです。主イエスは、私たちを受け入れてくださいました。ですから、私たちも互いを受け入れることが求められているのです。
5節、6節をお読みします。
ある日を他の日より尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして神に感謝しているのです。
ここでは、食事のことではなく、日のことが言われています。おそらく、野菜しか食べない弱い人は、ある日を他の日より尊ぶ人であったのでしょう。ある日を他の日よりも尊ぶ人は、旧約の掟に基づいて、そのようにしていたと思われます。旧約の掟に親しんでいたユダヤ人がイエス・キリストを信じてからも安息日を重んじた。また、掟に定められている祭りの日を重んじたと考えられるのです。他方、ここでも多数派である強い人は、すべての日を同じように考えたと思います。つまり、旧約の掟に基づいて、ある日を他の日よりも尊ぶことはしていなかったのです。しかし、パウロは、ここでもある日を他の日よりも尊ぶ人を非難しておりません。すべての日を同じように考えるよう説得するようなことはしていません。そうではなくて、「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことである」と記すのです。これは、食事についても言えることです。何でも食べる。あるいは、野菜だけを食べる。それは各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことであるのです。肉を食べるか、食べないか。ある日を特別に重んじるか、重んじないか。そのことについて、パウロはそれぞれの違いを認めております。それは各自が自分の心の確信に基づいて決めればよいと言うのです。
「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」。こう記した後で、パウロは、「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と記します。これは、自分の心の確信が、主のためであるという確信であることを教えています。何でも食べる人は、何でも食べることが主イエスのためであると自分の心に確信して、何でも食べるわけです。他方、野菜だけを食べる人も、肉を食べないことが主イエスのためであると自分の心に確信して、野菜だけを食べるわけです。ですから、彼らは食べる物が違っていても、その確信、その動機は同じ、「主イエスのために」ということであるのです。そして、ここに主イエスの召し使いである私たちの一致があるのです。
「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。パウロが、「食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と記すとき、食べない人は、食べない物に対して、感謝をささげているのではありません。食べる野菜のことで神様に感謝をささげているわけです。私たちも食事の前に、神様に感謝の祈りをささげます。その姿を想像してみたらよいと思います。強い人の食卓には、肉も酒も並んでいる。そして、強い人は神様に感謝の祈りをささげて、何でも食べるのです。他方、弱い人の食卓には、野菜と水が並んでいる。そして、弱い人も神様に感謝の祈りをささげて野菜だけを食べるのです。強い人は主イエスのために何でも食べ、神様に感謝をささげている。弱い人は主イエスのために野菜だけを食べ、神様に感謝をささげている。この一致に気づくとき、ローマの信徒たちは、主の食卓を共に囲むことができるのです。初代教会において、聖餐式は、食事と一緒に行われました(一コリント11章参照)。私たちは礼拝において、ひとかけらのパンを食べ、少量のぶどう酒を飲みます。けれども、初代教会において、聖餐式と食卓の交わりが一つであったのです。そのことを考えますとき、食べ物のことで互いを裁き合うことが、どれほど、教会の一致を損なうことであったかが分かると思います。しかし、主イエスは、御自分の食卓に、何でも食べる人と野菜だけを食べる人を招いてくださいました。それゆえ、私たちも様々な違いを認めつつ、互いに受け入れ合うべきであるのです。