主イエス・キリストを着なさい 2017年8月27日(日曜 朝の礼拝)

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主イエス・キリストを着なさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 13章11節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。ローマの信徒への手紙 13章11節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、私たちが神様から愛の負債を負っていること。そのような者として、すべての人を愛することが私たちにとっての義務であることを学びました。神様から愛されている者として、自分を愛し、隣人を愛して生きるとき、私たちは律法を全うすることができるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 11節をお読みします。

 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

 新共同訳聖書は、「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と翻訳しています。他方、新改訳聖書は「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい」と翻訳しています。口語訳聖書を見ましても、「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない」と翻訳しています。新共同訳聖書の翻訳には、「このように行いなさい」、あるいは、「この事を励まねばならない」という言葉が訳出されていません。しかし、今の時についての言及が、これまでパウロが記してきたことと繋がっていることは明かです。パウロは、12章から、私たちキリスト者がどのように生きるべきかを記してきました。前回、私たちは、神様から莫大な愛の負債を負っている者として、すべての人を愛する善き隣人となるように教えられたわけです。そのようなキリスト者の生活を動機付けるもの、それが今はどのような時であるかを知っている、時の理解であるのです。では、私たちが生きている今は、どのような時なのでしょうか?それはひと言で言えば、「終わりの時」であります。私たちは「終わりの時」「終わりの時代」を生きているのです。なぜ、私たちは終わりの時代に生きていると言えるのか?それは、イエス・キリストによって、神の国が既に到来したからです。イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1:15)。神の国はイエス・キリストにおいて既に到来したのです。それゆえ、私たちが生きている今の時代は、終わりの時代であると言えるのです。また、私たちが生きている時代は、イエス・キリストが天から来られるのを待ち望む時代とも言えます。なぜなら、主イエス・キリストが再び来られることによって、神の国は完成され、私たちは完全な救いにあずかることができるからです。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。このパウロの言葉を読むとき、私たちはパウロが、イエス様がすぐにでも来られると考えていたことが分かります。救いが近づいている、それはイエス様が栄光の主として来られる日が近づいているということです。「私たちが信仰に入ったころ」とは、私たちがそれぞれに「イエスは主である」と公に言い表し、洗礼を受けた日のことです。あるいは、幼児洗礼を受けた方が、自分の口で「イエスは主である」と公に言い表した信仰告白の日のことであります。私たちは、よく、洗礼を受けてから、何十年たったと言いますが、それは、それだけ救いは近づいている、主イエス・キリストが来られる日が近づいているということでもあるのです。ですから、パウロは、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既にきています」と記すのです。目覚めて、主イエス・キリストが来られるのを待ち望むこと。このことは、主イエスが弟子たちに教えられたことでありました。マタイによる福音書の24章42節から46節までをお読みします。新約の48ページです。

 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主人が帰って来られるのか、あなたがたは分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

 目を覚ましているとは、文字通り、眠らないでいるという意味ではなく、忠実で賢い僕としてイエス様を待ち続けるということです。忠実で賢い僕とは、どのような者を言うのか?イエス様は、その賢さを「十人のおとめのたとえ」によって教えられました。また、その忠実さについては、「タラントンのたとえ」によって教えられました。私は、今、目を覚ましているということは、イエス様の賢い忠実な僕として、イエス様を待ち続けることだと申しました。しかし、それだけではないと思います。なぜなら、イエス様は、タラントンのたとえの後で、栄光の主である御自分がすべての民族を裁くことを預言しておられるからです。そこで問われることは、小さなものに対しての愛の業であります。これは、前回学びました、「人を愛する者は律法を全うしている」という教えに通じるものであります。目を覚ましている。それは、やがては自分が、主イエス・キリストによって裁かれる者であることを知っているということです(二コリント5:9,10「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」参照)。そして、そこで問われるのは愛の業であるのです。イエス・キリストを信じる者としての愛の業が問われるのです。そのような者として、私たちはすべての人を愛することが求められているのです。

 私たちは、この手紙が書かれてから2000年ほど経った時代に生きています。ですから、私たちは、「イエス様が来られるのは、まだ先のことだ。自分が生きている間は来ないのではないか」と考えるかも知れません。確かに、その可能性はあります。主イエスがいつ来られるかは、誰にも分からないからです。しかし、私たちは、主イエス・キリストが自分の生きている間に来られることを祈り、また期待すべきであるのです。もし、私たちが、「イエス様は、自分が生きている間に来ないのではないか」と考えるならば、私たちは眠り込んでしまいます。そして、自分が主人であるかのように振る舞ってしまうのです。しかし、主イエス・キリストが来られることを祈りつつ、待ち望むならば、私たちは目を覚まして、賢い忠実な僕として歩むことができるのです。主イエスによって裁かれる者として、隣人に愛を行うことができるのです。 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の293ページです。

 12節から14節までをお読みします。

 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

 ここでの「日」は、主イエス・キリストが再び来られる再臨の日のことであります。「主イエス・キリストが来られる日は近づいている。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けよう」とパウロは記すのです。闇の行いの具体例として、13節に、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」があげられています。これらはいずれも夜に行われる闇の行いであります。しかし、私たちは、主イエス・キリストが来られることを知っているのですから、夜であっても、日中を歩むように、品位をもって歩むことが求められているのです。パウロは、それを「光の武具を身に着ける」と言い表しました。光の武具とは、闇の力と戦うための武具であります。イエス・キリストは十字架と復活によって、悪魔に勝利されました。しかし、悪魔は今も、吠え猛る獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(一ペトロ5:8参照)。悪魔は今も、この世の支配者であるかのように振る舞っているわけです。しかし、イエス様が再び来られる日に、悪魔は完全に滅ぼされます(黙20:10参照)。そのことを知っている者として、私たちは、光の武具を身に着け、悪魔と戦うことが求められているのです。このことは、パウロがエフェソの信徒への手紙で記していることでもあります。エフェソの信徒への手紙6章10節から18節までをお読みします。新約の359ページです。

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 このように、私たちは、悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けることが求められているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の293ページです。

 「光の武具を身に着けましょう」と記したパウロは、14節で、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と記します。新共同訳聖書ですと、「身に着けましょう」、「身にまといなさい」と訳し分けていますが、もとは同じ言葉(エンドゥオー)です。「主イエス・キリストを着なさい」とパウロは記しているのです(新改訳参照)。「主イエス・キリストを着る」とは、どのような意味でしょうか?それは、「主イエス・キリストのように生きる」という意味です(一ヨハネ2:6「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」参照)。ある人は、ここで「主イエス・キリスト」と言われていることに注意を払うべきであると指摘しています。私たちが服を着るとき、その服を選ぶ、わたしが主人であります。しかし、主イエス・キリストを着るとき、その服である主イエス・キリストが主人であるのです。服装によって、私たち自身が変えられるように、主イエス・キリストという服によって、私たちがキリストに似た者へと変えられていくのです。そして、そのようにして歩むとき、私たちにとって、主イエス・キリストの再臨の日が、待ちに待った喜びの日となるのです(一ヨハネ4:17「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」参照)。闇の行いを着ている内は、酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを楽しみとしている内は、主イエス・キリストが来られる日を待ち望むことはできません。そのような内は、「イエス様、まだ来ないでくさい。来るなら、わたしが死んでからにしてください」と願うことになります。しかし、私たちは、闇の業から解放された、主イエス・キリストを着る者として、主イエスが来てくださる日を待ち望むべきであるのです(黙22:20参照)。

 最後に、パウロは「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と記します。私たちは主イエス・キリストを着ている者として、肉の欲望を第一としてはならないのです。主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と言われました(マタイ6:33)。弟子たちに教えられた主の祈りは、まさしくそのような内容であったのです(前半は父なる神のための祈り、後半は私たちのための祈り)。主イエス・キリストを着る。それは具体的には、主イエスの祈りを私たちの祈りとすること。主の祈りに生きることであります。私たちは、主の祈りを祈り続けることによって、主イエス・キリストのように歩みたいと願います。

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