上に立つ権威 2017年8月06日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
13:2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
13:3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
13:4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
13:5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。
13:6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
13:7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。ローマの信徒への手紙 13章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ローマの信徒への手紙13章1節から7節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節をお読みします。

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

 パウロは、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と記します。「すべての魂、すべての人間は、上に立つ権威に従うべきである」とパウロは記すのです。上に立つ権威に従うことにおいて、キリスト者も例外ではないということです。私たちは、イエス様を、キリスト、メシア、油を注がれた王と告白しています。イエス様をキリストと告白することは、イエス様が油を注がれた王であると告白することであるのです(使徒17:7「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」参照)。しかし、そのように告白するキリスト者であっても、上に立つ権威に従うべきであるとパウロは言うのです。ここでの上に立つ権威とは、具体的に言えば、ローマ皇帝やローマの総督やローマの官憲たちのことであります。現代の私たちで言えば、国会や県議会や市議会や警察などのことであります。イエス様をキリスト、王と告白する私たちも、他の人たちと同じように、上に立つ権威に従うべきであるのです。なぜなら、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。ここでの権威は国家権力を指していますが、国家は神様によって定められた制度であります。神様は、御自分に背いて堕落した世界の秩序を保たれるために、国家を定められたのです。神様が国家為政者を立てられた。国家為政者の権威も神様に由来するものである。そのことを知っているゆえに、私たちは国家為政者に従うべきであるのです。ここで、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」とありますが、この「神」を「イエス・キリスト」と置き換えて読むこともできます。なぜなら、復活させられ、天へと上げられたイエス・キリストは、天と地の一切の権能を授けられて、神の右に座しておられるからです。そのことをはっきりと宣言したのが、私たち改革派教会の30周年宣言、「教会と国家にかんする信仰の宣言」であります。その一部を週報に抜き書きしておきましたので、お読みします。

 1、教会と国家の主キリスト

(1)(主キリストの主権)主権的な創造主である聖なる三位一体の神は、あがない主イエス・キリストに、天においても地においてもいっさいの権威を授けて、御自身の支配を宣言し、神の国を樹立された。神は、イエス・キリストの死と復活と高挙とにより、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。このかしらによって、神は万物を支配しておられる。

 われわれはイエス・キリストを、もろもろの王の王・主の主・国々の統治者また審判者として礼拝し、彼に服従する。

(2)(教会と国家の関係)主イエス・キリストは、父なる神のみこころを行うにあたって、御自身のよしとする天地のあらゆる権能を用いられる。彼は教会と国家を、それぞれに固有の働きを委託して、御自身に仕えさせられる。彼は教会のかしらであると同時に、国家のかしらでもあられる。

 したがって、教会と国家は、ともにかしらなるキリストに従属し共同の責任を負うので、相互に密接な関係がある。

 教会と国家は、自己に託された権能と働きにしたがって相互に助け合う義務があるが、それぞれの権限は別個のものであり、キリストにたいする関係も異なっているので、いずれも他方の領域を侵害することは許されない。

 また、教会と国家の関係は一国内に留まるものではなく、国際的な広がりをもつ。

 私たちの主イエス・キリストは、教会のかしらであると同時に、国家のかしらでもあられます。それゆえ、私たちは、国家為政者に従うという仕方で、イエス・キリストに従うことが求められているのです。ちなみに、ここで「従う」と訳される言葉のもともとの意味は、「下に配置する」という意味です。私たちは、国家為政者の権威がイエス・キリストに由来することを知っているゆえに、立てられている権威者の下に、自らを配置することが求められているのです。

 2節から4節までをお読みします。

 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 「すべての権威は神に由来するものである。よって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、自分の身に裁きを招くでしょう」とパウロは記します。ここで、パウロが考えているのは、ローマの官憲や裁判を行う総督などのことであります。現代の私たちで言えば、警察や裁判所などのことであります。ちなみに、『広辞苑』は警察という言葉の意味を次のように記しています。「社会公共の安全・秩序に対する障害を除去するために、国家権力をもって国民に命令し、強制する作用。また、その行政機関」。私たちが安心して暮らすことができるのも、善を奨励し、悪を罰する警察のおかげであるのです。パウロは、4節の後半で、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」と記しておりますが、これは、12章19節と内容としてはつながっています。12章19節で、パウロはこう記しておりました。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」。このところについてお話したときに、わたしは、「世の終わりの最後の審判において、神様が私たちに対して悪を行った者たちに報復してくださる」と申しました。しかし、今朝の御言葉を読みますと、世の終わりを待つまでもなく、神様は、御自分に仕える権威者によって、悪を行う者に怒りをもって報いてくださるのです。そのために神様は権威者に剣を帯びることを許しておられるのです。権威者が帯びている「剣」は、悪を行う者に罰を与える権能の象徴であるのです。私たちはこの世の権威者の裁きに、神の裁きを見て、その裁きに満足しなければなりません。たとえ、この世の裁きが、不当に思えても、最終的には神様が正しい裁きをしてくださることを信じて、復讐心に捕らわれて生きてはならないのです。また、自らも、権威者の裁きに神の裁きを見て、悪を行わないようにすべきであるのです。

 5節から7節までをお読みします。

 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を治めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 ここには、私たちが権威者に従うべき、消極的な理由と積極的な理由が記されています。消極的な理由は、権威者に委ねられている裁き、そこに秘められている神の怒りを逃れるためであります。また、積極的な理由は、私たちの良心のためであります。私たちは権威者に従うことが神の御心に適う善であることを知っているゆえに、権威者に従うべきであるのです。権威者に従う。それは具体的には、税金を納めるということであります。権威者は神に仕える者として、その務めに専念しているのですから、税金によって彼らの生活を支える必要があるのです。現代でも、警察の働きは税金によって支えられています。公務員の働きは税金によって支えられているわけです。神に仕える権威者たちの働きを税金を納めることによって支えることは、その恩恵にあずかっている私たちの義務であるのです。また、権威者は神に仕える者であるゆえに、私たちは権威者を敬うべきであるのです。

 今朝の御言葉を読みますと、権威者にとって、大変都合のよいことが記されているように思えます。しかし、よく読むとそうではないことが分かります。今朝はそのことを三つほど指摘して終わりたいと思います。

 1つは、権威者は神ではなく、神に仕える者であると言われている点です。権威者は神ではなく、神に仕える者ですから、その権能は神から委託されたものであり、その権能には限界があります。権威者が神に仕える者であるということは、権威者も神に対して責任を負っているということです。すなわち、権威者も神の裁きを免れないのです。

 2つ目は、権威者が税金を徴収するのは、委ねられた務めに専心するためであり、また、公共の益のためであって(道路や橋の建設など)、自分たちの思想やイデオロギーを実現するためではないということです。

 3つ目は権威者が裁くのは善い行いにしろ、悪い行いにしろ、行いに限られているということです。この世の権威者は人の心の中に踏み込んで、その人の思想や良心まで裁いてはならないのです。なぜ、権威者は人の心の中まで裁いてはならないのか?それは、人間にはそのような能力がないからです。心の中をご存じであられるのは、神様だけであるからです。ご存じのように6月15日に、いわゆる共謀罪法が強行採決されました。私たち改革派教会は、大会議長名で、「『共謀罪法』(改正組織的犯罪処罰法)の強行採決に抗議し、廃止を求める声明」を6月23日付けで、内閣総理大臣並びに衆参議長宛に出しました。その抗議声明に記されている、共謀罪法の廃止を強く求める理由の一つが、「共謀罪法は『内心の自由』を侵害」するということであります。神様から国家為政者が委ねられている権能は、善い行いをするものをほめ、悪い行いをするものを罰することであります。しかし、政府与党は、共謀罪法を強行採決することによって、神様から委ねられている権威を越えて、心の中まで裁く権能を自分のものとしたわけです。これは国家が神のようになろうとする暴挙であります。日本に生きる私たちキリスト者は、そのような時代に、神だけを良心の主として生きることが求められているのです。

 パウロは、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると記しています。しかし、そのことを権威者たちが必ずしも知っているわけではありません。異教徒である権威者はそのことを知らないわけです。それゆえ、権威者たちは、自分たちを絶対化して、思想・良心の自由を侵したり、あるいは自らの思想やイデオロギーを実現するために、税金を徴収することがあるのです(国家主義、軍国主義)。そのような時、私たちキリスト者は、抗議の声を上げるべきであるのです。さらに、私たちキリスト者は、権威者が神の御心に逆らうことを命じる場合には、抵抗することを命じられています(神社参拝など)。ペトロが大胆に語ったように、私たちは人間よりも、神に従わなくてはならないのです(使徒5:29参照)。パウロは、5節で、「良心のためにも、権威者に従うべきです」と記しましたが、権威者が委ねられた権能を越えて、神のように振る舞うとき、私たちは良心のために、権威者に従ってはならないのです。また、権威者が神の掟に背くことを命じるとき、私たちは良心のために従ってはならないのです。なぜなら、私たちの良心の主はイエス・キリストの父なる神であるからです。私たちは、権威者に無条件に従うことが求められているのではありません。権威者が神様によって立てられ、神様に仕える者であるがゆえに従うことが求められているのです。

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