聖書の言葉 12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。ローマの信徒への手紙 12章11節~13節 メッセージ 先程は、ローマの信徒への手紙12章9節から13節までを読んでいただきました。前回は、9節、10節を学びましたので、今朝は、11節から13節までを御一緒に学びたいと願います。 11節をお読みします。 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 ここには、イエス・キリストを信じる私たちが、どのように主に仕えるべきかが教えられています。「怠らず励み」と訳されている言葉は、「熱心においてはなまけず」とも訳すことができます(岩隈訳)。マタイによる福音書の25章に、イエス様が弟子たちにお語りになった「タラントンのたとえ」が記されています。主人が旅行に出かけるとき、僕たちを読んで、自分の財産をあずけた。主人はそれぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントンを預けて旅に出たのです。タラントンは、6000デナリに相当します。一デナリは一日の労働賃金にあたりますから、一タラントンは6000日分の労働賃金になります。五タラントンを預かった僕は、それで商売をして、他に五タラントンをもうけました。二タラントンを預かった僕も、それで商売をして、他に二タラントンをもうけました。しかし、一タラントンをあずかった僕は、穴を掘り、主人の金を隠しておきました。今で言えば、金庫にしまっておいたのです。かなりの日が経ってから、主人が帰って来て、彼らと精算を始めました。そのとき、主人は、五タラントンをもうけた僕と、二タラントンをもうけた僕に対して、「忠実な良い僕だ」と言われました。しかし、主人の金を土の中に隠しておいた僕に対しては、「怠け者の悪い僕だ」と言われたのです。そして、主人は、この男からタラントンを取り上げ、外の暗闇に追い出すよう命じたのです。私たちが、「怠らず励み」、「熱心におおいてはなまけず」という言葉を読むとき、このタラントンのたとえを想い起こしたら良くお分かりいただけると思います。タラントンとは賜物のことであります。ここでの主人はイエス様のことです。主人は僕の力に応じてタラントンを預けましたが、これは、ローマ書の言葉で言えば、イエス様が信仰の量りに応じて、私たち一人一人に賜物を与えてくださったということです。私たちには皆、それぞれに信仰の量りに従って賜物が与えられています。しかし、それを主のために用いないのであれば、タラントンを土の中に埋めた僕と同じことをしているのです。そして、主イエスから、「怠け者の悪い僕だ」と言われてしまうことになるわけです。そのようにならないように、私たちは熱心において怠けてはならないのです。神様が私たちにそれぞれ異なる賜物を与えてくださったのは、一つの体を形づくるためであります。そのことを知っている者として、私たちは怠らず励み、主に仕えることが求められているのです。 次に「霊に燃えて」でありますが、この霊は、人間の霊を指すのか?それとも、神の霊である聖霊を指すのか?と言った議論があります。ローマ書の文脈から言えば、聖霊を与えられた私たちキリスト者のことが言われているわけですから、聖霊を抜きにして考えることは正しくないと思います。聖霊と私たちの霊の関係について言えば、一つに結び合わされていると言えます(一コリント6:17「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」参照)。私たちの霊と聖霊は一つに結び合わされている。それゆえ、私たちは聖霊によってキリストに結ばれ、さらには父なる神に結ばれていると言えるのです。ですから、パウロが「霊に燃えて」と記すとき、その「霊」とは聖霊と一つとされた私たちの霊のことであるのです。ここでパウロが言っていることは、「愛に燃えて」と言い換えることができると思います。といいますのも、愛こそ、聖霊の結ぶ実の最たるものであるからです(ガラテヤ5:22参照)。私たちはなまぬるい愛ではなく、燃えるような熱い愛をもって、主に仕えることが求められているのです。 最後、「主に仕えなさい」でありますが、ここで「仕えなさい」と訳されている言葉は、「奴隷として仕えなさい」という言葉です。パウロは、6章22節でこう記しておりました。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」。私たちは、イエス・キリストの命という代価によって、買い取られ、神の奴隷とされました。私たちは、神様を「主なる神」と呼び、イエス様を「主イエス」と呼びますが、それは自分が神様の僕であり、また、イエス様の僕であることを言い表しているのです。それゆえ、私たちが神様の御言葉、イエス様の御言葉に従うことは当然のことであるのです(ルカ17:10参照)。11節の御言葉を一つずつ解説してきましたけれども、やはり、一続きの文として読むことが大切であります。私たちは、主の御心を知っている者として怠らず励み、聖霊の実である愛に燃えて、主の僕として仕えることが求められているのです。 12節をお読みします。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 パウロが「希望をもって喜び」と記すとき、その「希望」とは、神の栄光にあずかる希望であります(5:2参照)。もう少し詳しく言えば、義の宿る新しい天と新しい地において、体が贖われ、神の子とされるという希望であります(8:18~25節参照)。私たちは、どのような状態にあっても、喜ぶことのできる希望が与えられているのです。そして、この希望のゆえに、苦難を耐え忍ぶことができるのです。ここで「耐え忍び」と訳されている言葉(ヒュポメノー)は、「下にとどまる」という言葉であります。私たちは苦しくなるとその原因となっているものを放り出したくなります。しかし、苦難のもとにとどまり続けることを、パウロは私たちに求めているのです。それは、私たちが受けている苦しみが、将来、比べられないほどの栄光をもたらすことになるからです(8:17,18参照)。 希望を持って喜び、苦難を耐え忍ぶためには、たゆまず祈ることが必要であります。それゆえ、パウロは、「たゆまず祈りなさい」と記すのです。たゆまず祈ることによって、神様との交わりを持ち、希望を新たにすることができるのです。キリスト者にとって、毎日聖書を読み、お祈りすることは大切なことであります(『信徒のしおり』参照)。神様の御言葉である聖書を読み、神様に祈りをささげることにより、神様とのお交わりを持つのです。それによって、私たちは、希望を持って喜び、苦難を耐え忍ぶことができるのです。御言葉によって励ましと慰めを与えられることにより、また、私たちの願いを神様に申し上げることによって、私たちは、希望をもって、苦しみのもとにとどまることができるのです。神様は耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださることを信じて、忍耐することができるのです(一コリント10:13参照)。 13節をお読みします。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 「聖なる者たち」とは、イエス・キリストを信じる者たちのことであります。イエス様を信じて、教会の一員となった者の中には、貧しい者たちがおりました。その者たちの貧しさを自分のものとして共有し、彼らを助けなさいとパウロは記すのです。その具体例として、パウロは、15章でエルサレム教会の聖なる者たちに対する募金について記しております。マケドニア州とアカイア州の教会は、エルサレムの聖なる者たちの貧しさを共有して、喜んで彼らを援助したのです。私たち改革派教会において、このことは具体的に、どのように行われているのでしょうか?羽生栄光教会という各個教会のレベルで言えば、毎月の月例献金のことを考えていただければ分かりやすいと思います。また、中会のレベルで言いますと、私たちがささげている伝道会計負担金は、甲信地区の教会・伝道所のために、盛岡伝道所のために、草加伝道プロジェクトのために用いられています。さらに大会のレベルで言いますと、私たちがささげている国内伝道負担金が、東北中会の札幌伝道所のために、西部中会の熊本伝道所、小倉伝道所、那覇伝道所のために用いられています。また、特別会計として、東北伝道援助資金特別会計と四国伝道援助資金特別会計を設け、全日本伝道積立金より、それぞれに毎年150万円を援助しています。このように私たちも月例献金によって、中会への伝道会計負担金や大会への国内伝道負担金によって、聖なる者たちの貧しさを自分のものとしているのです。 また、パウロは、「旅人をもてなすよう努めなさい」と記します。当時、それほど宿屋があったわけではありません。また、宿屋はいかがわしい誘惑に満ちておりました。それゆえ、パウロは旅人をもてなすよう努めなさいと言うのです(16:1,2参照)。この旅人の中に、福音を宣べ伝える者も含まれております。ヨハネの手紙三の5節から8節にこう記されています。 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています(新改訳では「旅をしているあの兄弟たち」)。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。 私たちの改革派教会から、海外に遣わされている宣教師は現在は残念ながらおりません。しかし、海外宣教のために遣わされている信徒の方はおられます。私たちの教会もガンビアで医療伝道されている川島利子姉のために、月例献金をささげています。そのようにして、私たちも真理のために共に働く者とされているのです。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けること。旅人をもてなすよう務めることは、愛の具体的な行為と言えます。パウロは9節で、「愛には偽りがあってはなりません」と記しましたが、その具体的な愛の行為として、聖なる者たちの貧しさを助けること、旅人をもてなすことが求められているのです。それゆえ、今朝は、私たちの愛の源であり、模範であるイエス・キリストへと思いを向けて、終わりたいと思います。 パウロは、コリントの信徒への手紙二の8章で、エルサレム教会の聖なる者たちのための募金について記しております。パウロは、コリントの教会に対して、この慈善の業においても豊かな者となりなさいと記します。そして、続けてこう記すのです。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(二コリント8:8,9)。主イエスは、豊かであったのに、私たちのために貧しくなられました。私たちはその主の貧しさによって、豊かなものとされたのです。そのような者たちとして、私たちは、主イエスに倣って、聖なる者たちの貧しさを共有し、援助すべきであるのです。私たちの教会では、負担金というかたちでささげておりますので、この点を見過ごしやすいと思います。しかし、負担金でありましても、その出所は、私たちの献金であります。ですから、私たちは、主の貧しさによって、豊かにされた者たちとして、聖なる者たちの必要を覚えて、大会、中会のために献金をささげたいと願います。 旅人をもてなすように努めることについてですが、イエス様は十二人を遣わすにあたって、次のように言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。イエス様の福音を宣べ伝えるために遣わされた人を受け入れる人に、イエス様御自身が報いてくださいます。なぜなら、イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるからです(マタイ25:40)。それゆえ、私たちはイエス様への愛から、旅人をもてなすよう努めることが求められているのです。旅人をもてなすことだけではなく、病気や様々な事情のために、礼拝に集うことのできない兄弟姉妹をお訪ねすることが求められているのです(マタイ25:37~39参照)。 関連する説教を探す 2017年の日曜 朝の礼拝 『ローマの信徒への手紙』
先程は、ローマの信徒への手紙12章9節から13節までを読んでいただきました。前回は、9節、10節を学びましたので、今朝は、11節から13節までを御一緒に学びたいと願います。
11節をお読みします。
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
ここには、イエス・キリストを信じる私たちが、どのように主に仕えるべきかが教えられています。「怠らず励み」と訳されている言葉は、「熱心においてはなまけず」とも訳すことができます(岩隈訳)。マタイによる福音書の25章に、イエス様が弟子たちにお語りになった「タラントンのたとえ」が記されています。主人が旅行に出かけるとき、僕たちを読んで、自分の財産をあずけた。主人はそれぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントンを預けて旅に出たのです。タラントンは、6000デナリに相当します。一デナリは一日の労働賃金にあたりますから、一タラントンは6000日分の労働賃金になります。五タラントンを預かった僕は、それで商売をして、他に五タラントンをもうけました。二タラントンを預かった僕も、それで商売をして、他に二タラントンをもうけました。しかし、一タラントンをあずかった僕は、穴を掘り、主人の金を隠しておきました。今で言えば、金庫にしまっておいたのです。かなりの日が経ってから、主人が帰って来て、彼らと精算を始めました。そのとき、主人は、五タラントンをもうけた僕と、二タラントンをもうけた僕に対して、「忠実な良い僕だ」と言われました。しかし、主人の金を土の中に隠しておいた僕に対しては、「怠け者の悪い僕だ」と言われたのです。そして、主人は、この男からタラントンを取り上げ、外の暗闇に追い出すよう命じたのです。私たちが、「怠らず励み」、「熱心におおいてはなまけず」という言葉を読むとき、このタラントンのたとえを想い起こしたら良くお分かりいただけると思います。タラントンとは賜物のことであります。ここでの主人はイエス様のことです。主人は僕の力に応じてタラントンを預けましたが、これは、ローマ書の言葉で言えば、イエス様が信仰の量りに応じて、私たち一人一人に賜物を与えてくださったということです。私たちには皆、それぞれに信仰の量りに従って賜物が与えられています。しかし、それを主のために用いないのであれば、タラントンを土の中に埋めた僕と同じことをしているのです。そして、主イエスから、「怠け者の悪い僕だ」と言われてしまうことになるわけです。そのようにならないように、私たちは熱心において怠けてはならないのです。神様が私たちにそれぞれ異なる賜物を与えてくださったのは、一つの体を形づくるためであります。そのことを知っている者として、私たちは怠らず励み、主に仕えることが求められているのです。
次に「霊に燃えて」でありますが、この霊は、人間の霊を指すのか?それとも、神の霊である聖霊を指すのか?と言った議論があります。ローマ書の文脈から言えば、聖霊を与えられた私たちキリスト者のことが言われているわけですから、聖霊を抜きにして考えることは正しくないと思います。聖霊と私たちの霊の関係について言えば、一つに結び合わされていると言えます(一コリント6:17「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」参照)。私たちの霊と聖霊は一つに結び合わされている。それゆえ、私たちは聖霊によってキリストに結ばれ、さらには父なる神に結ばれていると言えるのです。ですから、パウロが「霊に燃えて」と記すとき、その「霊」とは聖霊と一つとされた私たちの霊のことであるのです。ここでパウロが言っていることは、「愛に燃えて」と言い換えることができると思います。といいますのも、愛こそ、聖霊の結ぶ実の最たるものであるからです(ガラテヤ5:22参照)。私たちはなまぬるい愛ではなく、燃えるような熱い愛をもって、主に仕えることが求められているのです。
最後、「主に仕えなさい」でありますが、ここで「仕えなさい」と訳されている言葉は、「奴隷として仕えなさい」という言葉です。パウロは、6章22節でこう記しておりました。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」。私たちは、イエス・キリストの命という代価によって、買い取られ、神の奴隷とされました。私たちは、神様を「主なる神」と呼び、イエス様を「主イエス」と呼びますが、それは自分が神様の僕であり、また、イエス様の僕であることを言い表しているのです。それゆえ、私たちが神様の御言葉、イエス様の御言葉に従うことは当然のことであるのです(ルカ17:10参照)。11節の御言葉を一つずつ解説してきましたけれども、やはり、一続きの文として読むことが大切であります。私たちは、主の御心を知っている者として怠らず励み、聖霊の実である愛に燃えて、主の僕として仕えることが求められているのです。
12節をお読みします。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
パウロが「希望をもって喜び」と記すとき、その「希望」とは、神の栄光にあずかる希望であります(5:2参照)。もう少し詳しく言えば、義の宿る新しい天と新しい地において、体が贖われ、神の子とされるという希望であります(8:18~25節参照)。私たちは、どのような状態にあっても、喜ぶことのできる希望が与えられているのです。そして、この希望のゆえに、苦難を耐え忍ぶことができるのです。ここで「耐え忍び」と訳されている言葉(ヒュポメノー)は、「下にとどまる」という言葉であります。私たちは苦しくなるとその原因となっているものを放り出したくなります。しかし、苦難のもとにとどまり続けることを、パウロは私たちに求めているのです。それは、私たちが受けている苦しみが、将来、比べられないほどの栄光をもたらすことになるからです(8:17,18参照)。
希望を持って喜び、苦難を耐え忍ぶためには、たゆまず祈ることが必要であります。それゆえ、パウロは、「たゆまず祈りなさい」と記すのです。たゆまず祈ることによって、神様との交わりを持ち、希望を新たにすることができるのです。キリスト者にとって、毎日聖書を読み、お祈りすることは大切なことであります(『信徒のしおり』参照)。神様の御言葉である聖書を読み、神様に祈りをささげることにより、神様とのお交わりを持つのです。それによって、私たちは、希望を持って喜び、苦難を耐え忍ぶことができるのです。御言葉によって励ましと慰めを与えられることにより、また、私たちの願いを神様に申し上げることによって、私たちは、希望をもって、苦しみのもとにとどまることができるのです。神様は耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださることを信じて、忍耐することができるのです(一コリント10:13参照)。
13節をお読みします。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
「聖なる者たち」とは、イエス・キリストを信じる者たちのことであります。イエス様を信じて、教会の一員となった者の中には、貧しい者たちがおりました。その者たちの貧しさを自分のものとして共有し、彼らを助けなさいとパウロは記すのです。その具体例として、パウロは、15章でエルサレム教会の聖なる者たちに対する募金について記しております。マケドニア州とアカイア州の教会は、エルサレムの聖なる者たちの貧しさを共有して、喜んで彼らを援助したのです。私たち改革派教会において、このことは具体的に、どのように行われているのでしょうか?羽生栄光教会という各個教会のレベルで言えば、毎月の月例献金のことを考えていただければ分かりやすいと思います。また、中会のレベルで言いますと、私たちがささげている伝道会計負担金は、甲信地区の教会・伝道所のために、盛岡伝道所のために、草加伝道プロジェクトのために用いられています。さらに大会のレベルで言いますと、私たちがささげている国内伝道負担金が、東北中会の札幌伝道所のために、西部中会の熊本伝道所、小倉伝道所、那覇伝道所のために用いられています。また、特別会計として、東北伝道援助資金特別会計と四国伝道援助資金特別会計を設け、全日本伝道積立金より、それぞれに毎年150万円を援助しています。このように私たちも月例献金によって、中会への伝道会計負担金や大会への国内伝道負担金によって、聖なる者たちの貧しさを自分のものとしているのです。
また、パウロは、「旅人をもてなすよう努めなさい」と記します。当時、それほど宿屋があったわけではありません。また、宿屋はいかがわしい誘惑に満ちておりました。それゆえ、パウロは旅人をもてなすよう努めなさいと言うのです(16:1,2参照)。この旅人の中に、福音を宣べ伝える者も含まれております。ヨハネの手紙三の5節から8節にこう記されています。
愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています(新改訳では「旅をしているあの兄弟たち」)。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
私たちの改革派教会から、海外に遣わされている宣教師は現在は残念ながらおりません。しかし、海外宣教のために遣わされている信徒の方はおられます。私たちの教会もガンビアで医療伝道されている川島利子姉のために、月例献金をささげています。そのようにして、私たちも真理のために共に働く者とされているのです。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けること。旅人をもてなすよう務めることは、愛の具体的な行為と言えます。パウロは9節で、「愛には偽りがあってはなりません」と記しましたが、その具体的な愛の行為として、聖なる者たちの貧しさを助けること、旅人をもてなすことが求められているのです。それゆえ、今朝は、私たちの愛の源であり、模範であるイエス・キリストへと思いを向けて、終わりたいと思います。
パウロは、コリントの信徒への手紙二の8章で、エルサレム教会の聖なる者たちのための募金について記しております。パウロは、コリントの教会に対して、この慈善の業においても豊かな者となりなさいと記します。そして、続けてこう記すのです。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(二コリント8:8,9)。主イエスは、豊かであったのに、私たちのために貧しくなられました。私たちはその主の貧しさによって、豊かなものとされたのです。そのような者たちとして、私たちは、主イエスに倣って、聖なる者たちの貧しさを共有し、援助すべきであるのです。私たちの教会では、負担金というかたちでささげておりますので、この点を見過ごしやすいと思います。しかし、負担金でありましても、その出所は、私たちの献金であります。ですから、私たちは、主の貧しさによって、豊かにされた者たちとして、聖なる者たちの必要を覚えて、大会、中会のために献金をささげたいと願います。
旅人をもてなすように努めることについてですが、イエス様は十二人を遣わすにあたって、次のように言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。イエス様の福音を宣べ伝えるために遣わされた人を受け入れる人に、イエス様御自身が報いてくださいます。なぜなら、イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるからです(マタイ25:40)。それゆえ、私たちはイエス様への愛から、旅人をもてなすよう努めることが求められているのです。旅人をもてなすことだけではなく、病気や様々な事情のために、礼拝に集うことのできない兄弟姉妹をお訪ねすることが求められているのです(マタイ25:37~39参照)。