聖書の言葉 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。ローマの信徒への手紙 12章9節~10節 メッセージ 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章以下で、イエス・キリストに結ばれて、教会の一員とされた私たちが、どのように生きるべきかを教えております。 前回、私たちは、神様が私たち一人一人に信仰の量りに従って、賜物を与えてくださっていること。それゆえ、私たちはそれぞれ自分の賜物とその賜物を受けている自分について慎み深く考えるべきであることを学びました。神様は、私たちがキリストの一つの体を形づくるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それゆえ、私たちは自分に与えられている賜物を教会のために用いることが求められているのです。 先程は、9節から13節までをお読みしましたが、今朝は、9節、10節だけを学びたいと願います。 9節、10節をお読みします。 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 ここで「愛」と訳されている言葉は、アガペーという言葉であります。だいぶ前に、ギリシャ語で愛と訳される言葉は、4つあることを申し上げたことがあります。それはストルゲーとフィリアとエロースとアガペーであります。ストルゲーは家族の愛を、フィリアは友人の愛を、エロースは男女の愛を、アガペーは神の愛を表します。ここでパウロは、神の愛を意味するアガペーを用いて、「愛には偽りがあってはなりません」と記しているのです。なぜ、パウロは、「愛には偽りがあってはならない」と記したのでしょうか?それは、愛こそが、私たちを一つの体として結び合わせる絆であるからです(コロサイ2:2参照)。パウロは、イエス・キリストに結ばれた私たちは、一つの体であると記しましたが、その私たちを一つに結び合わせる絆こそ、愛、アガペーなのであります。ですから、パウロは、「愛には偽りがあってはなりません」と記すのです。それは言い換えれば、「真実の愛で互いに愛し合おう!」と言うことであります。 「愛」と訳されるアガペーという言葉がローマの信徒への手紙において、どこで用いられているのかを確認したいと思います。最初に、アガペーという言葉が用いられるのは、5章5節であります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。聖霊によって、神様の愛が私たちの心に注がれている。父なる神の愛によって、私たちは御子イエスを愛する者とされた。また、御子イエスの愛によって、私たちは父なる神を愛する者とされたのです。聖霊によって、私たちの心に神の愛が注がれることによって、私たちは父と子との聖霊における愛の交わりに生きる者とされたのです。2番目に、アガペーという言葉が出て来るのは、5章8節であります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。神様は、私たちにどのようにして愛を示されたのか。それは、私たちがまだ罪人であったとき、その私たちのために、御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡すということによってでありました。イエス様も、私たちを愛して、御自分の命を自ら捨ててくださったわけです。そのイエス・キリストの十字架を通して、私たちは神の愛を知った。神の愛、アガペーが条件付きの愛ではなく無条件の愛であることを知ったのです。アダムにあって堕落した人間、罪をもって生まれて来る人間の愛は、条件付きの愛であります。私たち人間は、自分の利益になるものを愛する。それは、私たちの愛が自己中心的な愛であるからです。しかし、神様の愛はそうではありません。神様は私たちがまだ罪人であったとき、独り子であるイエス・キリストを十字架の死に引き渡されることによって、御自分の愛を示されたのです。父なる神様は、独り子をお与えになるほどに、私たち一人一人を愛してくださったし、今も愛しておられるのです(ヨハネ3:16参照)。3番目の8章35節にありますように、キリストの愛から、誰も、私たちを引き離すことはできないのです。また、4番目の8章39節にもありますように、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、どんな被造物も、私たちを引き離すことができないのです。私たちは、イエス・キリストと父なる神との愛の交わりに生かされているのであります。それゆえ、パウロは、12章9節で、「愛には偽りがあってはなりません」と記すのです。このパウロの言葉は、私たちが愛において偽ってしまう。役者のように演じてしまうことを前提としています。では、私たちが愛において偽らないために、どうすればよいのでしょうか?それは、私たちが、全身全霊で神様を愛することができないことを率直に認めることです。また、私たちが自分を愛するように隣人を愛することができないことを率直に認めることであります。私は、神学生のときに、ある牧師の祈りを聞いて衝撃を受けました。その牧師は、礼拝の祈りにおいて、こう祈られたのです。「私たちは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたを愛することができません。また、私たちは自分を愛するように、隣人を愛することができません」。この祈りを聞いたとき、私は正直驚いたのです。そこまで断言してよいのだろうかと思ったのであります。けれども、そんなに驚く必要はないのかも知れません。なぜなら、このことは、私たちが週ごとに、神様の御前に告白していることであるからです。私たちは、主の日の礼拝ごとに、罪の告白の勧告に従って、罪を告白し、罪の赦しをいただきます。その罪の告白の勧告において読まれるのが、十戒の要約とも言われる、イエス・キリストの言葉です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。このイエス様の戒めを聞いて、私たちは罪の告白をするのです。それは言い換えれば、私たちが心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛することができなかった。また、自分を愛するように、隣人を愛することができなかったと、告白しているのです。しかし、もちろん、それで終わりではありません。そのように告白する者として、私たちは、聖霊において私たちの心に神の愛が注がれていること。神様の愛、イエス・キリストの愛を、十字架によって知ったこと。主イエス・キリストとの愛の交わりに、また、父なる神との愛の交わりに生かされていることを想い起こすべきであるのです。 私たちが真実な愛で互いに愛し合うには、私たち一人一人を命を捨てて愛してくださったイエス・キリストへと常に思いを向ける必要があります。イエス様は、ヨハネによる福音書の13章34節、35節でこう仰せになりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。私たちは、イエス様から愛されている愛で、互いに愛し合うことが命じられているのです。そのイエス様の愛で、互いに愛し合うとき、私たちは偽りのない真実の愛で愛し合うことができるのです。神様のアガペーをいただき、神様のアガペーによって愛され、その交わりに生かされている者として、私たちは神様の愛によって、互いに愛し合うことができるのです(一ヨハネ4:7~12参照)。 神様の愛、アガペーは、悪を憎み、善を喜ぶものであります。それゆえ、パウロは、神の愛に生かされている私たちに対して、「悪を憎み、善から離れず」と記すのです。私たちは神様との愛の交わりに生きる者として、神様の御心に背く悪を憎み、神様の御心に適う善から離れず、親しむことが求められているのです(新改訳参照)。そもそも、神様からの愛をいただかなければ、私たち人間は、何が悪であり、何が善であるかを本当のところ知ることができません。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章9節でこう記しています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に付けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」。ここでパウロが祈っているように、私たちは愛によって、本当に重要なことを見分けることができるのです。今朝の御言葉で言えば、私たちは愛によって、悪と善を見分け、悪を憎み、善から離れず、親しむことができるのです。 続けて、パウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し」なさいと記します。私たちは兄弟愛をもって、家族のように親しく愛し合うことを求められているのです。この地上の家族は、私たちが互いに愛し合うためのモデルであるのです。いや、単なるモデルというだけではなく、私たちはイエス・キリストに結ばれて、神を父とし、イエス・キリストを長兄とする神の家族とされているのです。パウロは、8章14節から16節で、こう記しておりました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。また、8章29節で、パウロはこう記しておりました。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」。このように、私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ、御子イエスの霊を与えられて、神の子とされ、また、イエス様の弟たち、妹たちとされているのです(マタイ12:49、50参照)。私たちは主にある兄弟姉妹として、また、神の家族として、親しく愛し合うことが求められているのです(一テモテ5:1,2も参照)。 最後に、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」について学びましょう。この御言葉は、元の言葉を直訳しますと、「尊敬においては、互いに、先んじて手本を示せ」となります。相手が自分を尊敬してくれるのであれば、自分も相手を尊敬しようというのではなくて、尊敬するということにおいて、互いに先んじなければならない。そのようにして、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思わなければならないのです。ある研究者は、ユダヤの社会において、相手に先んじて挨拶することが教えられていたことを指摘しておりました(マタイ5:47も参照)。挨拶されるのを待つのではなく、自分から挨拶することによって、相手に対する敬意を示す。そのように、私たちも互いに相手を優れた者として重んじることが求められているのです。この模範も、私たちの主イエス・キリストに見ることができます。イエス様は、私たちに先んじて、私たちを御自分よりも優れた者とみなしてくださいました。フィリピの信徒への手紙2章3節から8節で、パウロはこう記しています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。そえはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここで、パウロは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」るように記しています。そして、その模範として、イエス・キリストのへりくだり、神の御子が人としてお生まれになり、それも十字架の死を死んでくださったというへりくだりについて記すのです。私たちが、誰かを優れた者と見なすには、実際に自分よりも優れた能力なり、経歴が必要であると考えます。しかし、イエス様はどうであったでしょう。イエス様は、私たちが実際に優れていたから、私たちを優れた者と考えられたのでしょうか?そうではありません。イエス様の方が優れておられる事は明かです。しかし、そのイエス様が、へりくだって、御自分を私たちの下に置いてくださった。私たちを優れた者、大いなる者と見なしてくださったのです。イエス様が、御自分よりも、私たちを大いなる者と考えてくださったからこそ、イエス様は、私たちのために十字架の死を死ぬことができたのです(マタイ20:26~28参照)。このように見てきますと、私たちがどのように生きるべきかの究極的な答えが、「主イエス・キリストに倣って生きる」であることが分かります(一コリント11:1参照)。主イエス・キリストに倣って、その御言葉と聖霊に導かれて歩むとき、私たちは真実の愛で互いに愛し合い、互いを重んじることができるのです。 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使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章以下で、イエス・キリストに結ばれて、教会の一員とされた私たちが、どのように生きるべきかを教えております。
前回、私たちは、神様が私たち一人一人に信仰の量りに従って、賜物を与えてくださっていること。それゆえ、私たちはそれぞれ自分の賜物とその賜物を受けている自分について慎み深く考えるべきであることを学びました。神様は、私たちがキリストの一つの体を形づくるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それゆえ、私たちは自分に与えられている賜物を教会のために用いることが求められているのです。
先程は、9節から13節までをお読みしましたが、今朝は、9節、10節だけを学びたいと願います。
9節、10節をお読みします。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ここで「愛」と訳されている言葉は、アガペーという言葉であります。だいぶ前に、ギリシャ語で愛と訳される言葉は、4つあることを申し上げたことがあります。それはストルゲーとフィリアとエロースとアガペーであります。ストルゲーは家族の愛を、フィリアは友人の愛を、エロースは男女の愛を、アガペーは神の愛を表します。ここでパウロは、神の愛を意味するアガペーを用いて、「愛には偽りがあってはなりません」と記しているのです。なぜ、パウロは、「愛には偽りがあってはならない」と記したのでしょうか?それは、愛こそが、私たちを一つの体として結び合わせる絆であるからです(コロサイ2:2参照)。パウロは、イエス・キリストに結ばれた私たちは、一つの体であると記しましたが、その私たちを一つに結び合わせる絆こそ、愛、アガペーなのであります。ですから、パウロは、「愛には偽りがあってはなりません」と記すのです。それは言い換えれば、「真実の愛で互いに愛し合おう!」と言うことであります。
「愛」と訳されるアガペーという言葉がローマの信徒への手紙において、どこで用いられているのかを確認したいと思います。最初に、アガペーという言葉が用いられるのは、5章5節であります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。聖霊によって、神様の愛が私たちの心に注がれている。父なる神の愛によって、私たちは御子イエスを愛する者とされた。また、御子イエスの愛によって、私たちは父なる神を愛する者とされたのです。聖霊によって、私たちの心に神の愛が注がれることによって、私たちは父と子との聖霊における愛の交わりに生きる者とされたのです。2番目に、アガペーという言葉が出て来るのは、5章8節であります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。神様は、私たちにどのようにして愛を示されたのか。それは、私たちがまだ罪人であったとき、その私たちのために、御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡すということによってでありました。イエス様も、私たちを愛して、御自分の命を自ら捨ててくださったわけです。そのイエス・キリストの十字架を通して、私たちは神の愛を知った。神の愛、アガペーが条件付きの愛ではなく無条件の愛であることを知ったのです。アダムにあって堕落した人間、罪をもって生まれて来る人間の愛は、条件付きの愛であります。私たち人間は、自分の利益になるものを愛する。それは、私たちの愛が自己中心的な愛であるからです。しかし、神様の愛はそうではありません。神様は私たちがまだ罪人であったとき、独り子であるイエス・キリストを十字架の死に引き渡されることによって、御自分の愛を示されたのです。父なる神様は、独り子をお与えになるほどに、私たち一人一人を愛してくださったし、今も愛しておられるのです(ヨハネ3:16参照)。3番目の8章35節にありますように、キリストの愛から、誰も、私たちを引き離すことはできないのです。また、4番目の8章39節にもありますように、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、どんな被造物も、私たちを引き離すことができないのです。私たちは、イエス・キリストと父なる神との愛の交わりに生かされているのであります。それゆえ、パウロは、12章9節で、「愛には偽りがあってはなりません」と記すのです。このパウロの言葉は、私たちが愛において偽ってしまう。役者のように演じてしまうことを前提としています。では、私たちが愛において偽らないために、どうすればよいのでしょうか?それは、私たちが、全身全霊で神様を愛することができないことを率直に認めることです。また、私たちが自分を愛するように隣人を愛することができないことを率直に認めることであります。私は、神学生のときに、ある牧師の祈りを聞いて衝撃を受けました。その牧師は、礼拝の祈りにおいて、こう祈られたのです。「私たちは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたを愛することができません。また、私たちは自分を愛するように、隣人を愛することができません」。この祈りを聞いたとき、私は正直驚いたのです。そこまで断言してよいのだろうかと思ったのであります。けれども、そんなに驚く必要はないのかも知れません。なぜなら、このことは、私たちが週ごとに、神様の御前に告白していることであるからです。私たちは、主の日の礼拝ごとに、罪の告白の勧告に従って、罪を告白し、罪の赦しをいただきます。その罪の告白の勧告において読まれるのが、十戒の要約とも言われる、イエス・キリストの言葉です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。このイエス様の戒めを聞いて、私たちは罪の告白をするのです。それは言い換えれば、私たちが心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛することができなかった。また、自分を愛するように、隣人を愛することができなかったと、告白しているのです。しかし、もちろん、それで終わりではありません。そのように告白する者として、私たちは、聖霊において私たちの心に神の愛が注がれていること。神様の愛、イエス・キリストの愛を、十字架によって知ったこと。主イエス・キリストとの愛の交わりに、また、父なる神との愛の交わりに生かされていることを想い起こすべきであるのです。
私たちが真実な愛で互いに愛し合うには、私たち一人一人を命を捨てて愛してくださったイエス・キリストへと常に思いを向ける必要があります。イエス様は、ヨハネによる福音書の13章34節、35節でこう仰せになりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。私たちは、イエス様から愛されている愛で、互いに愛し合うことが命じられているのです。そのイエス様の愛で、互いに愛し合うとき、私たちは偽りのない真実の愛で愛し合うことができるのです。神様のアガペーをいただき、神様のアガペーによって愛され、その交わりに生かされている者として、私たちは神様の愛によって、互いに愛し合うことができるのです(一ヨハネ4:7~12参照)。
神様の愛、アガペーは、悪を憎み、善を喜ぶものであります。それゆえ、パウロは、神の愛に生かされている私たちに対して、「悪を憎み、善から離れず」と記すのです。私たちは神様との愛の交わりに生きる者として、神様の御心に背く悪を憎み、神様の御心に適う善から離れず、親しむことが求められているのです(新改訳参照)。そもそも、神様からの愛をいただかなければ、私たち人間は、何が悪であり、何が善であるかを本当のところ知ることができません。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章9節でこう記しています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に付けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」。ここでパウロが祈っているように、私たちは愛によって、本当に重要なことを見分けることができるのです。今朝の御言葉で言えば、私たちは愛によって、悪と善を見分け、悪を憎み、善から離れず、親しむことができるのです。
続けて、パウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し」なさいと記します。私たちは兄弟愛をもって、家族のように親しく愛し合うことを求められているのです。この地上の家族は、私たちが互いに愛し合うためのモデルであるのです。いや、単なるモデルというだけではなく、私たちはイエス・キリストに結ばれて、神を父とし、イエス・キリストを長兄とする神の家族とされているのです。パウロは、8章14節から16節で、こう記しておりました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。また、8章29節で、パウロはこう記しておりました。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」。このように、私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ、御子イエスの霊を与えられて、神の子とされ、また、イエス様の弟たち、妹たちとされているのです(マタイ12:49、50参照)。私たちは主にある兄弟姉妹として、また、神の家族として、親しく愛し合うことが求められているのです(一テモテ5:1,2も参照)。
最後に、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」について学びましょう。この御言葉は、元の言葉を直訳しますと、「尊敬においては、互いに、先んじて手本を示せ」となります。相手が自分を尊敬してくれるのであれば、自分も相手を尊敬しようというのではなくて、尊敬するということにおいて、互いに先んじなければならない。そのようにして、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思わなければならないのです。ある研究者は、ユダヤの社会において、相手に先んじて挨拶することが教えられていたことを指摘しておりました(マタイ5:47も参照)。挨拶されるのを待つのではなく、自分から挨拶することによって、相手に対する敬意を示す。そのように、私たちも互いに相手を優れた者として重んじることが求められているのです。この模範も、私たちの主イエス・キリストに見ることができます。イエス様は、私たちに先んじて、私たちを御自分よりも優れた者とみなしてくださいました。フィリピの信徒への手紙2章3節から8節で、パウロはこう記しています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。そえはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここで、パウロは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」るように記しています。そして、その模範として、イエス・キリストのへりくだり、神の御子が人としてお生まれになり、それも十字架の死を死んでくださったというへりくだりについて記すのです。私たちが、誰かを優れた者と見なすには、実際に自分よりも優れた能力なり、経歴が必要であると考えます。しかし、イエス様はどうであったでしょう。イエス様は、私たちが実際に優れていたから、私たちを優れた者と考えられたのでしょうか?そうではありません。イエス様の方が優れておられる事は明かです。しかし、そのイエス様が、へりくだって、御自分を私たちの下に置いてくださった。私たちを優れた者、大いなる者と見なしてくださったのです。イエス様が、御自分よりも、私たちを大いなる者と考えてくださったからこそ、イエス様は、私たちのために十字架の死を死ぬことができたのです(マタイ20:26~28参照)。このように見てきますと、私たちがどのように生きるべきかの究極的な答えが、「主イエス・キリストに倣って生きる」であることが分かります(一コリント11:1参照)。主イエス・キリストに倣って、その御言葉と聖霊に導かれて歩むとき、私たちは真実の愛で互いに愛し合い、互いを重んじることができるのです。