あなたがたのなすべき礼拝 2017年7月02日(日曜 朝の礼拝)

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あなたがたのなすべき礼拝

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

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 今朝からローマの信徒への手紙の12章に入ります。ローマの信徒への手紙は、大きく2つに区分することができます。1章から11章までは信仰について、12章から16章までは生活について記していると区分することができるのです。あるいは、大きく3つに区分することもできます。1章から8章までは教理について、9章から11章までは救済史について、12章から16章までは倫理について記していると区分することもできます。二つに区分するにせよ、三つに区分するにせよ、12章から16章までは、キリスト者の生活、キリスト者の倫理についてのまとまった記述であるのです。小見出しに「キリストにおける新しい生活」とありますように、ここには、イエス・キリストを信じた私たちの新しい生活についての教えが記されているのです。イエス・キリストを信じた私たちがどのように生きるべきかが記されているのであります。特に、今朝学ぼうとしている1節、2節は、その原理、原則を教えている大切な御言葉であるのです。

 1節をお読みします。

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 「こういうわけで」とありますが、これはパウロがこれから記す勧めを、これまで記してきたことを土台として記すことを示しています。先程、私はローマの信徒への手紙は、大きく二つに区分できる。あるいは大きく三つの区分できると申しましたが、内容としては一続きの、一体的な手紙であるのです。パウロがこれまで記してきたことを土台として、今朝の御言葉を記していることは「神の憐れみによって」という言葉からも分かります。パウロは、11章32節で「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです」と記しておりました。前回、私たちは、私たちがイエス・キリストを信じて救われたのは、ひとえに神様の憐れみのゆえであることを学んだのであります。私たちが「神の憐れみによってあながたがに勧めます」というパウロの言葉を読むとき、この「神の憐れみ」を、11章32節の「神の憐れみ」と結びつけて読むことができます。しかし、どうもそれだけではないようです。と言いますのも、元の言葉を見ますと、11章32節で「憐れむ」と訳されている言葉(エレーオー)と、12章1節で「憐れみ」と訳されている言葉(オイクトゥルモーン)は、違う言葉が用いられているからです。しかも12章1節の神の憐れみは複数形で記されているのです。ですから、ここでの「神の憐れみ」とは、パウロがこれまで記してきたもろもろの憐れみを指しているのです(信仰による義、罪と死からの解放、律法からの解放、聖霊と命の支配に生かされていること)。パウロは、これまで自分が記してきた神様のもろもろの憐れみに基づいて「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」と勧めるのです。

 この勧めは、イエス・キリストを信じた者たち、主にある兄弟姉妹に向けてなされています。神のもろもろの憐れみを受けている者たちに対して、パウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と記すのです。このパウロの言葉は、旧約聖書に記されている動物犠牲を伴う礼拝を背景としています。旧約聖書を読みますと、神様を礼拝する際に、動物犠牲をささげるように命じられています。出エジプト記の20章24節にこう記されています。「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。レビ記を見ますと、それを実際にどのようにささげたらよいのかが記されています。レビ記1章1節から9節までをお読みします。旧約の163ページです。

 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内蔵と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

 なぜ、神様は牛や羊といった家畜をいけにえとしてささげよと命じられたのでしょうか?それは、罪に汚れた人間が、聖なる神様を礼拝するためには、罪の贖いが必要であることを教えるためでありました。4節に、奉納者が「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それはその人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。奉納者の罪は、牛の頭に手を置くことによって、牛に移され、その牛を屠って、献げることにより、罪が贖われ、神様を礼拝することができるのです。レビ記17章11節には「わたしが血をあなたがたに与えたのは、祭壇の上であなたがたの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。神様は、家畜をいけにえとして献げることを命じることによって、イスラエルの命を贖い、御自分を礼拝することができるようにされたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の291ページです。

 パウロがこの手紙を記したのは、紀元60年頃でありますが、当時は、エルサレム神殿において、旧約聖書の掟に従って、動物犠牲がささげられておりました。しかし、パウロは、イエス・キリストを信じているあなたがたは、牛や羊をささげるのではなく、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさいと勧めるのです。なぜ、私たちは、牛や羊をいけにえとしてささげる必要がないのか?それは、イエス・キリストが十字架のうえで、私たちの罪の贖いとなってくださったからです。このことは、パウロが3章21節から26節で記していたことであります。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 イエス様が、御自分を信じる者たちのために十字架のうえで血を流して死んでくださった。イエス様は、私たちの罪を償う供え物として、御自分を献げてくださったのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、動物をいけにえとしてささげる必要はないのです。イエス・キリストを信じる私たちに命じられているのは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることであるのです。ここで「自分の体を」とありますが、これは具体的なことであります。私たちは、この地上において体をもって存在しており、体を離れては生きることができません。私たちは、今、礼拝をささげておりますが、体をもってこの所に集まり、共に礼拝をささげているわけです。私たちは礼拝に出席することにより、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げていると言えるのです。私は、今、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることを、主の日の礼拝と結びつけてお話をいたしました。しかし、このパウロの言葉は、神様のもろもろの憐れみを受けたキリスト者がどのように生きるべきかを教えている原理、原則でありますから、私たちの生活の全領域に当てはめることができます。私たちは主の日だけではなく、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることが求められているのです。

 2節をお読みします。

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 ここでの「この世」とは神様に敵対している世、やがては過ぎ去る世のことであります。イエス・キリストを信じる私たちも、そのような世に身を置いて生きているわけです。しかし、あなたがたは、この世に倣ってはならない。むしろ、心を新たにし自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい、と言うのです(わきまえるとは「物の道理を十分に知る」こと)。これは、私たちの生活の全領域において言われていることであります。私たちは、家庭においても、学校においても、職場においても、地域社会においても、どこでも、いつでも、だれといても、ひとりであっても、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるべきであるのです。そのようにして、私たちは、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることができるのです。私たち日本キリスト改革派教会の創立20周年記念宣言の中に「神中心的・礼拝的人生観」という言葉があります。私たちは人生のあらゆる領域において、神様を礼拝することができる。神様の御心をわきまえて、夫婦として歩むとき、親として子供を育てるとき、仕事に勤しみ、学びに励むとき、私たちは自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげていると言えるのです。そして、そのような神中心的・礼拝的人生観を支えるのは、週ごとに行われる主の日の礼拝であるのです。なぜなら、主の日の礼拝においてこそ、神様は御言葉とその説き明かしである説教によって、何が御心であるかを示してくださるからです。私たちが、心を新たにしたいとの願いをもって礼拝に出席するとき、神様は私たちに、何が御心であるかを示し、私たちをキリストに似た者へと造りかえてくださるのです(二コリント3:18参照)。

 今朝は、最後に、1節後半の「あなたがたのなすべき礼拝です」という言葉についてお話して終わりたいと思います。この所を新改訳聖書は、「あなたがたの霊的な礼拝です」と訳しております。この「霊的」と訳されている言葉(ロギコス)は、「理にかなった」とも訳すことができます。それで、新共同訳聖書は「あなたがたのなすべき礼拝です」と訳したわけです。これは、神様のもろもろの憐れみを受けた者もして、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることが、道理にかなったことだ。当然なされるべきことだという意味であります。パウロは、1章から11章に渡って、神様のもろもろの憐れみについて記してきました。そのような憐れみ、恵みを私たちは神様から与えられているのです。そうであれば、私たちが自分の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることはなすべきことであるのです。神様からもろもろの憐れみをいただいておりながら、自分の体を罪に任せるような生活をしているならば、それは理にかなっていない。おかしなことであるのです(ローマ6:13参照)。イエス・キリストは、私たちの罪のために、御自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして、十字架のうえで献げてくださいました。それは、御自分を信じる私たちが、神様の憐れみに感謝して、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるためであるのです。

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