神の霊が降る 2020年5月31日(日曜 朝の礼拝)
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神の霊が降る
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- 村田寿和 牧師
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ヨエル書 3章1節~5節
聖書の言葉
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。ヨエル書 3章1節~5節
メッセージ
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序 文脈の確認
今朝は、教会の暦によると聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝です。それで、今朝は、『ヨエル書』の第3章から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
ヨエルは、南王国ユダで神さまの言葉を語った預言者でありました。ヨエルは、バッタによる荒廃を目の当たりにして、来たるべき主の日を恐るべき破滅の日として語り、ユダの人々に悔い改めを迫りました。第2章12節から14節にはこう記されています。
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵み深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。あるいは、主が思い直され/その後に祝福を残し/あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。
このような御言葉に導かれて、ユダの人々は断食を布告し、聖会を招集して、涙を流して祈りをささげたのです。その祈りを、主は聞いてくださいました。第2章18節から20節にこう記されています。
そのとき/主は御自分の国を強く愛し/その民を深く憐れまれた。主は答えて、その民に言われた。「見よ、わたしは穀物とぶどうとオリーブをお前たちに送り、飽き足らせよう。お前たちが国々の中で恥を受けることを/わたしは二度と許さない。北から来る者をお前たちから遠ざけ/彼らを乾いた荒廃の地に追いやり/先陣を東の海に、後陣を西の海に追い落とす。その臭気が上り/悪臭が立ちこめる。」まことに、主は偉大な御業を成し遂げられた。
このように、主は、御自分の民を深く憐れんでくださり、バッタをユダの地から追い払ってくださったのです。そればかりか、主はユダの人々に豊かな収穫を約束してくださるのです。第2章25節から27節までをお読みします。
わたしがお前たちに送った大軍/すなわち、かみ食らういなご/移住するいなご、若いいなご/食い荒らすいなごの/食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。お前たちは豊かに食べて飽き足り/驚くべきことを/お前たちのために成し遂げられた主/お前たちの神なる主の御名を/ほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。イスラエルのうちにわたしがいることを/お前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
このような御言葉に続いて、今朝の御言葉は記されているのです。
1.わたしはすべての人にわが霊を注ぐ
第3章1節と2節をお読みします。
その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
「その後(のち)」とは、「ユダの人々が豊かに食べて飽き足りて、主こそ神であることを知るようになる後(のち)」のことです。主はバッタが食い荒らした損害を償われた後(のち)に、御自分の霊をすべての人に注ぐと言われるのです。これまで主は、イスラエルの指導者だけに、御自分の霊を注いで来られました。例えば、モーセ、サムソン、サウル、ダビデ、などです。しかし、ここで主は、御自分のすべての民に、御自分の霊を注ぐと言われるのです。このことは、モーセが願っていたことでもありました。『民数記』の第11章に、主がモーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられたこと。すると、七十人の長老は預言状態になったことが記されています。このことを聞いて、ヨシュアはモーセにこう言ました。「わが主モーセよ、やめさせてください」。するとモーセは、ヨシュアにこう言ったのです。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(民数11:29)。このモーセの願いが実現する日が来ることを、ヨエルは預言しているのです。主が「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われるとき、その「すべての人」には、男も女も、老人も若者も、奴隷となっている者も含まれています。つまり、神さまは、性別や年齢や社会的な身分に関係なく、すべての人に、御自分の霊を注いでくださるのです。そして、すべての人が神さまからの啓示を受けて、神さまの言葉を語るようになるのです。
2.主の御名を呼ぶ者は皆、救われる
3節から5節までをお読みします。
天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
主の日とは、主なる神さまが歴史に介入される日のことです。主の日とは、神さまの正しい裁きが行われる日のことです。それゆえ、主の日は、神さまに逆らって、罪を犯している私たち人間にとって、大いなる恐るべき日であるのです。そのような主の日が来る前に、主はすべての人に御自分の霊を注いでくださるのです。
主の日は神さまの正しい裁きが行われる日ですから、罪人である私たち人間にとって滅びの日であります。「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。ここでの「主の御名を呼ぶ者」は、「主が呼ばれる残りの者」でもあります。主の御名を呼ぶ者は、主が呼ばれる者でもあるのです。そして、主の霊を注がれるすべての人も、主の御名を呼ぶ者であり、主が呼ばれる者であるのです。主は、すべての人に聖霊を注いで、主の御名を呼ぶ者としてくださり、御自分の裁きから救ってくださるのです。
3.ペンテコステの説教
イエス・キリストの使徒ペトロは、ペンテコステの説教において、ヨエルの預言が、自分たちのうえに実現したと語りました(使徒2章参照)。そのことを踏まえて、今朝の御言葉を読み直してみたいと思います。1節の「その後(のち)」とは、ペトロによれば、「終わりの時」のことです。イエス・キリストが十字架の死から復活され、天に上げられ、聖霊を注いでくださった。このことは、今という時が、「終わりの時」であることを示しているのです。また、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」の「すべての人」が「イエス・キリストを信じるすべての人」であることが分かります。なぜなら、ペンテコステの日に聖霊を注がれたのは、イエス・キリストの弟子たちだけであったからです。聖霊を注がれたイエス・キリストの弟子たちは、ヨエルが預言していたように、神の言葉を語る者となりました。それも彼らは、世界の国々の言葉で、神の偉大な業、イエス・キリストの福音を語り出したのです。そのことは、イエス・キリストが天にあげられる前に、弟子たちに言われていたことでもありました。イエスさまは、弟子たちにこう言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。聖霊を注がれた弟子たちが、世界の国々の言葉で、イエス・キリストの福音を語り出したことは、地の果てに至るまで、世界の国々の言葉で福音が語られるようになることを前もって示していたのです。
神さまは、聖霊を、イエス・キリストを通して注いでくださいました。神さまは、聖霊を、十字架と復活の主であるイエス・キリストを通して注いでくださったのです。イエス・キリストは、十字架の死によって、神さまの恐るべき裁きを受けてくださいました。そして、神さまは、イエス・キリストを復活させて、高く上げ、主という名をお与えになったのです。この主イエス・キリストの御名を呼ぶ者は皆、救われるのです(ローマ10:9~13参照)。主イエス・キリストが、十字架のうえで恐るべき裁きを受けてくださり、さらには復活してくださったゆえに、主イエスの御名を呼ぶ者は救われるのです。そして、主イエスの御名を呼ぶすべての人に、神さまは御自分の霊を注いでくださるのです。
ヨエルの預言は、今から2000年ほど前のペンテコステの日にだけ実現したのではありません。私たちが自分の罪を嘆いて、主イエス・キリストの御名を呼び求めるならば、今日、私たちに聖霊は注がれるのです。
今朝は最後に、『使徒言行録』の第2章36節から39節までをお読みします。新約の216ページです。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
主の日は、主イエス・キリストが裁き主として来られる日であります。その裁きから救われるために、神さまに立ち帰って、イエス・キリストを主と告白し、洗礼を受けることがすべての人に求められているのです。今、すべての人がコロナウイルス感染症を恐れて生活しています。しかし、すべての人が恐るべきは、何よりも主の日の裁きであるのです。コロナウイルスの災いは、主の日が来る前の予兆、終末のしるしであるのです(ルカ21:11「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」参照)。その時のしるしを見分けて、すべての人が神さまに立ち帰り、主イエス・キリストの御名を呼ぶことが求められているのです(使徒4:12参照)。神さまは、「イエスは主である」と告白するすべての人に聖霊を与え、主の日の裁きから救ってくださいます。神さまは、主イエス・キリストを信じるすべての人に、聖霊を注いで、救ってくださるのです。
「イエス・キリストは主である」と告白する私たちには、神の霊、聖霊が注がれています。聖霊によって、私たちは聖書を神の言葉として読み、イエス・キリストの福音を語ることができるのです。御言葉の教師だけが福音を語ることができるのではありません。イエス・キリストを主と告白するすべての人が、救われた者として、福音を語ることができるのです。聖霊を注がれている者として、イエス・キリストを力強く証しすることができるのです。