恵みによって残された者 2017年5月28日(日曜 朝の礼拝)
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恵みによって残された者
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 11章1節~10節
聖書の言葉
11:1 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
11:2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
11:4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。
11:5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
11:6 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
11:9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。
11:10 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」ローマの信徒への手紙 11章1節~10節
メッセージ
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前回私たちは、イスラエルがイエス・キリストを信じないのは、聞いたことがなかったからでも、分からなかったからでもないことを学びました。イスラエルはイエス・キリストの福音を聞いて、理解したうえで、福音に従わなかったのです。彼らはまさに、「不従順で反抗する民」でありました。しかし、イエス・キリストは、その不従順で反抗する民に、良い知らせを伝える者たちを遣わし続けられるのです。私たちの福音宣教は、不従順で反抗する人々に対して差し伸べられたイエス様の両手であるのです。ここまでは前回お話したことですが、今朝はその続きとなります。
1節をお読みします。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
イスラエルの人々がイエス・キリストに従わないで、神様に反抗している。このことをどのように理解したらよいのか。パウロは、一つの問いを想定して、こう記します。「神は御自分の民を退けられたのであろうか」。この問いの背後には、神様がイスラエルを頑なにしておられるという信仰があります。9章18節に、「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」とありましたように、イスラエルが心を頑なにしているのは、神様が彼らの心を頑なにされているからであるのです。そうであれば、神様は御自分の民を退けられたのではないだろうか?と問うのです。そして、パウロはこの問いを、「決してそうではない」という強い言葉で否定します。そして、その証拠として、自分のことを記すのです。パウロもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者でありました。また、パウロも不従順で反抗する者であったのです。パウロもかつては福音に従わず、教会を迫害しておりました。そのパウロがイエス・キリストを信じて救われた、そればかりでなく、福音を宣べ伝える使徒とされたことは、神様がイスラエルを退けられたのではないことの証拠であるのです。同じことが私たちにも言えます。日本で福音宣教は難しいとよく聞きます。日本人が福音に従うことは不可能なことなのでしょうか。そうではありません。なぜなら、私たちも日本人であるからです。神様は日本人を退けてはおられない。退けておられないどころか、日本人をも憐れみ、豊かに恵んでくださる。その証拠が、日本人でイエス・キリストを信じて、主の名を呼び求めている私たち自身であるのです。
2節から6節までをお読みします。
神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いによるのではありません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
パウロが、「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいません」と記すときの、「前もって知っておられた御自分の民」とは、イスラエルの中の選びの民を指しております。パウロが9章6節で、「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず」と記していたように、血筋によってイスラエルかどうかが決まるのではなく、神様の自由な選びによって神の民であるイスラエルに属するかどうかが決まるのです。そのことを念頭において、パウロは、「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした」と記すのです。そして、その証拠として、旧約聖書に記されているエリヤの物語に言及するのです。この所は、旧約聖書を開いて読んでみたいと思います。旧約聖書の565ページ。列王記上19章1節から18節までをお読みします。
アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて、食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
エリヤは紀元前9世紀に、北王国イスラエルで活躍した預言者であります。エリヤの時代、イスラエルの王はアハブでありました。アハブの妻のイゼベルはシドン人で、バアルに仕える者でありました。バアルとは、カナン地方で礼拝されていた豊穣の神のことであります。イゼベルは、イスラエルの首都であるサマリアにバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いたのでした(列王上16:29~33参照)。イスラエルでは、国策として、バアル崇拝が推し進められていったのです。列王記上の18章には、エリヤとバアルの預言者たちの対決が記されています。火をもって答える神こそがまことの神であるとし、イスラエルの神がまことの神であることが明かとなりました。どっちつかずに迷っていたイスラエルの民は、その日、バアルの預言者たちを殺したのでした。その出来事の後で、19章のお話が記されているのです。エリヤは大勝利を収めたのですが、イゼベルの言葉を恐れて、ホレブの山へ行きました。ホレブの山とは、かつてモーセが主にお会いした山であり、イスラエルの民が神様と契約を結び、十戒を与えられたシナイ山のことであります。そこでの神様とエリヤとのやりとりをパウロは、ローマ書において引用しているのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の289ページです。
パウロは、エリヤがイスラエルを神にこう訴えていると記し、列王記上19章の御言葉を引用します。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」。ここでの「彼ら」、主の預言者たちを殺し、主の祭壇を壊し、エリヤの命を狙っている「彼ら」とは、イスラエルのことであります。異邦人のことではありません。アハブ王と后イゼベルに従うイスラエルの人々が、主の預言者たちを殺し、主の祭壇を壊し、エリヤを殺そうとしているのです。エリヤは、主に「わたしだけが残りました」と申しました。しかし、主はエリヤにこう告げられます。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」。ここではパウロは、列王記にはない、「自分のために」「わたしのために」という言葉を付け加えています。神様は御自分の約束が真実であることを示すために、バアルにひざまずかなかった七千人を御自分の民として残しておかれたのです。それと同じように、「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とパウロは記します。ここでの「恵みによって選ばれた者」とは、イスラエルの中でイエス・キリストを信じた者たちのことです。イスラエルの全人口からすれば少数であっても、イエス・キリストを信じる者たちがいる。その者たちこそ、エリヤの時代に神様が御自分のために残しておいた者たちであるとパウロは言うのです。イエス様の12弟子たち、使徒たちはいずれもイスラエル、ユダヤ人でありました。使徒言行録を見ますと、ペンテコステの日にペトロの説教を聞いたイスラエルの中から三千人がペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けて仲間に加わったとが記されています。エルサレムの教会、ユダヤ人からなる教会は、すべての異邦人教会の母教会とも呼べる存在となったのです。エリヤの時代、バアルにひざまずかなかった残りの者によって神の民が保たれたように、今も、イエス・キリストを信じる残りの者によって、神の民は保たれているのです。それゆえ、神様は御自分の民を退けられなかったと言えるのです。
パウロは5節で、「恵みによって選ばれた者が残っています」と記していますが、残りの者とは、「恵みによって選ばれた者」のことであります。これは、パウロがこれまで教えてきた信仰義認に通じることであります。イエス・キリストを信じる者が残りの者と言われていますが、イエス・キリストを信じることは、私たちの行いではありません。私たちはイエス・キリストを信じるという行いによって救われたのではなくて、イエス・キリストを信じるという恵みによって救われたのです。エリヤの時代に残された七千人について言えば、彼らはバアルにひざまずかなかったから残りの者にされたのではありません。彼らは残りの者として選ばれていたからこそ、バアルにひざまずかなかったのです。私たちがイエス・キリストを信じて救われた、神の民とされたのも同じであります。私たちは自分の行いの報酬としてイエス・キリストを信じることができたのではありません。私たちは神様の一方的な、無償の恵みによってイエス・キリストを信じる恵みをいただき、神の民とされたのです(一コリント1:26~31参照)。
7節から10節までをお読みします。
では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
パウロは、神様がイスラエルを退けられたのではないと記しました。少数者であっても、イエス・キリストを信じる者たちが残されている以上、神はイスラエルを神の民として保ち続けておられるのです。神は恵みによる選びによって、イエス・キリストを信じる者たちを残しておられたのです。では、イエス・キリストを信じない他の者たちはどうなのでしょうか。パウロは、「他の者はかたくなにされた」と記します。そして、それは聖書に記されていること。いつの時代においても、イスラエルにおいて見られたことであるのです。
8節は、申命記29章3節からの引用であります。そこには、イスラエルの民が主の大いなる御業をその目で見たにもかかわらず信じなかったのは、主が今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をイスラエルに与えられたなかったからであると記されています。これと同じことがパウロの時代のイスラエルにおいても言えたわけです。特に、イエス様は、大いなる奇跡をもって、御自分が神様から遣わされたメシア、救い主であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの指導者たちは、それを認めず、悟ることもできず、十字架の死に引き渡したのです(ヨハネ9章参照)。復活され、天へ上げられたイエス様は、聖霊において、弟子たちを通して大いなる奇跡を行いました。しかし、イスラエルの人々は弟子たちが宣べ伝えるイエス・キリストを信じなかったのです(使徒4章参照)。なぜでしょうか。それは、神様が彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられたからだと、パウロは言うのです。
9節、10節は、詩編69編からの引用であります。詩編69編は、メシアの苦難を預言している有名な詩編であります。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように」。ここでの食卓は、宗教的な儀式として意味を持つ食卓であります。福音書を読みますと、ファリサイ派の人々が念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったことが記されています(マルコ7:3参照)。彼らは、神殿祭儀の規定を、日常の食事にまで適用していたのです。イスラエルにおいて、食事を取ることは、宗教的な意味を持っていたわけです。そのようなことを踏まえて、この詩編の言葉を読みますとき、彼らの食卓が、自分たちの罠、網、つまずき、罰となる原因が、その規定を守る律法主義にあることが分かるのです。
10節の「彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください」とは、ダビデが自分に敵対する者たちに対して語った言葉であります。ダビデに敵対し、苦しめているのも、やはりイスラエルであるわけです。ダビデに敵対する者たちが、重荷を背負って腰を曲げているように、ダビデの子孫であるイエス・キリストに敵対する者たちは、自らに苦しみを招くことになるのです。イエス・キリストを信じるか、信じないか。それは、どちらでも良いことではありません。私たち人間の救いがその一事にかかっているのです。パウロは、律法の行いによって神の義を得ようとすることが、どれほど無謀で、大きな苦しみを担うことであるかを告げているのです。そして、それはイエス・キリストを信じて神の民とされた私たちにも告げられている警告の言葉であるのです。もし、私たちが自分の行いによって救われるかのように考えているならば、私たちの心の目はくらんで見えなくなっているのです。そして、私たちの背はその重荷によって曲がってしまうことになるのです。