良い知らせを伝える者 2017年5月21日(日曜 朝の礼拝)

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良い知らせを伝える者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 10章14節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
10:20 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。ローマの信徒への手紙 10章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、心で神がイエスを復活させられたと信じ、口でイエスは主であると公に言い表すならば救われることを御一緒に学びました。旧約の預言者ヨエルが記しておりました通り、「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです」。主イエス・キリストは、ユダヤ人とギリシア人の区別なく、すべての人の主であり、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるのです。私たちも主イエス・キリストを呼び求めることによって、豊かな恵みをいただき、神の救いにあずかる者とされたのです。今朝の御言葉はこの続きであります。

 14節、15節をお読みします。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

 パウロは、直前の13節で、「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」と記しました。この「主」とは神が死者の中から復活させられ、主となされたイエス・キリストのことであります。主イエス・キリストの名を呼び求める者はだれでも救われる。そう記した後で、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」と記すのです。ここで、パウロはその前提となることを一つずつ遡って問うています。呼び求めるには、信じなくてはならない。信じるには、聞かなくてはならない。聞くためには、宣べ伝える人がいなくてはならない。宣べ伝えるには、遣わされなくてはならない。このことをパウロは、「どうして、何々できようか」という問いを重ねることによって生き生きと記すのです。主の名を呼び求めて救いにあずかるために、人は、主イエス・キリストを信じなければならない。主イエス・キリストを信じるためには、主イエス・キリストについて聞かなくてはならない。主イエス・キリストについて聞くには、宣べ伝える人がいなければならない。主イエス・キリストについて宣べ伝えるには、遣わされなければならない。主の名を呼び求める者が救われるためには、このような一連のことがなされなければならないわけです。もし、神様が人を遣わされなければ、だれも良い知らせ、福音を宣べ伝えることができなかった。宣べ伝える人がいなければ、だれも聞くことができなかった。聞く人がいなければ、誰も信じることができず、主の名を呼び求めることもできなかったのです。しかし、主は良い知らせを宣べ伝える者たちを遣わしてくださいました。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおり、神様は、良い知らせである福音を伝える者たちを遣わしてくださったのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。これは、イザヤ書52章7節からの引用であります。そこには、こう記されています。旧約の1148ページです。

 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 イザヤ書の歴史的な文脈において、「良い知らせ」とは、バビロン捕囚からの解放を指しております。バビロン帝国によって滅ぼされたシオンにおいて、神は王として君臨なされる。それが当時の人々が心待ちにしていた良い知らせでありました。パウロは、その「良い知らせ」をイエス・キリストの福音、イエス・キリストを信じるだけで救われるという良い知らせに当てはめて、引用するのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の288ページです。

 パウロが「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と記すとき、その「良い知らせを伝える者」とは、イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒たちのことであります。「使徒」とは「遣わされた者」という意味でありまして、復活されたイエス・キリストの代理人として遣わされた者たちでありました。パウロも使徒であり、福音を宣べ伝える者として遣わされた者であるのです。使徒たちだけではありません。キリストの弟子となった者たちが、至る所で福音を告げ知らせたのです(使徒8:4、11:20参照)。私たちに当てはめて言えば、「良い知らせを伝える者」は、説教者たちだけではなく、信徒たちのことが言われているのです。私たちがイエス・キリストの福音を宣べ伝えるとき、その私たちの足は美しいと言えるのです。

 わたしは、今、「良い知らせを伝える者」を、当時で言えば使徒たちや弟子たちに、現代で言えば説教者たちや信徒たちのことであると申しましたが、その前に心を留めておきたいことは、イエス様が、良い知らせを伝える者として神様から遣わされ、ユダヤの地を巡り歩いて福音を宣べ伝えられたということであります。イエス様は神様から遣わされた者として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の福音を宣べ伝えられたのです(マルコ1:15)。そのような御方として、イエス様は復活された後、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに命じられたのであります(マルコ16:15)。神様はイエス・キリストを遣わし、イエス・キリストはその弟子たちを遣わして、良い知らせを、今も宣べ伝えているのです。それは、十字架の死と復活を経てすべての人の主となられたイエス・キリストを信じて、すべての人が救いにあずかるためであるのです。

 16節、17節をお読みします。

 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 神様はイエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、イエス・キリストは十字架と復活によって救いを成し遂げ、弟子たちを遣わしてくださいました。イエス・キリストは、今も、説教者たちや信徒たちを遣わしておられます。イエス様は、すべての人が信じて救われるために、良い知らせを宣べ伝える者たちを遣わしてくださったし、今も遣わしてくださっているのです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。福音を聞いても、従わない人が大勢いるのです。イエス・キリストを信じるだけで、すべての罪が赦され、神様の御前に正しい者とされます。その良い知らせを聞いても、無関心である人が多いわけです。その良い知らせを聞いて、それなら、わたしもイエス・キリストを信じます。教会の礼拝に出席して、主イエス・キリストの名を呼び求めます、という人は少ないわけです。どうしてだろうかと私たちは不思議に思うのですが、パウロは、それはイザヤが言っているとおりであると記すのです。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」。この御言葉は、イザヤ書53章1節からの引用であります。イザヤ書53章は、「主の僕の苦難と死」について記しているところですが、その冒頭に、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」と記されています。イエス様は、この主の僕が御自分のことであると解釈されました。また、イエス様の聖霊を与えられた弟子たちも、ここにイエス様の苦難の死と復活が預言されていると解釈したのです。けれども、多くのユダヤ人は、そのように解釈しませんでした。多くのユダヤ人は、ここにイエス・キリストを見いだし、信じることができなかったのです。私たちが福音を宣べ伝えるとき、それは聞いた人が福音に従うことを期待してのことであります。私たちは、福音に従うことを期待して、福音を宣べ伝えるわけです。しかし、多くの人が福音に従わないことを、イザヤはあらかじめ告げているのです。ですから、私たちは多くの人が福音に従わないからといって、宣べ伝えることをやめてはならないのです。なぜなら、「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」からです。このパウロの言葉は、御言葉が公に宣べ伝えられる、礼拝の説教のことを考えたらよく分かると思います。私たちは礼拝の説教において、キリストについての言葉を聞きますけれども、それは同時にキリストの言葉であるのです。例えば、福音書からの説教として、「あなたの罪は赦された」というイエス様の言葉を、説教者の口を通して聞きます。それを私たちは、信仰をもって、イエス・キリストの言葉として聞くわけです。それは、私たちが自分でできることではなくて、聖霊なる神のお働きによるものであります。かつて語られたキリストの言葉を、今、わたしに語りかけているキリストの言葉として聞くこと、これが説教において起こる聖霊なる神の御業であるのです。私たちが、神がイエスを死者の中から復活させられ、主となされたと信じることができたのはなぜか。それは、御言葉を通して、特に御言葉の説教を通して、語っておられるキリストの言葉を聞いたからです。天におられ、今も活きておられるイエス・キリストは、福音を宣べ伝える者を遣わし、その宣べ伝える者の言葉を用いて、信じる者たちを起こされるのです。そのことを信じて、また、そのことを祈りつつ、私たちは御言葉に聞き続けなければならないのです。

 18節から21節までをお読みします。

 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

 パウロが、「彼らは聞いたことがなかったのだろうか」と言うときの「彼ら」とはイエス・キリストを信じないイスラエルのことを指しています。イスラエルがイエス・キリストを信じないのは、聞いたことがなかったからだろうか。そうであれば、イスラエルには何の責任もないことになります。なぜなら、聞いたことのない方を人は信じることができないからです。しかし、もちろん、彼らは聞いたのです。詩編19編5節にあるように、イエス・キリストの福音は全地に響き渡り、全世界の果てにまで及んでいるのです。ですから、イスラエルは聞いたことがなかったと言い訳することはできないのです。それでは、イスラエルは、分からなかったのでしょうか。聞いても、難しくて分からなかったということであれば、イスラエルに責任はないのではないか。この問いについて、パウロはまずモーセの言葉を引用しています。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたを怒らせよう」(申命記32:21)。ここでパウロが言いたいことは、「わたしの民ではない」異邦人、「愚かな民」である異邦人が、福音を理解したのだから、イスラエルが分からなかったということはないということです。イスラエルは聞いたけれども、難しすぎたので信じなかったのだとは言えない。なぜなら、愚かな民と言われている異邦人が福音に従ったからです。神の民ではない異邦人、愚かな民である異邦人が、福音に従うことができたのはなぜか。それは、イザヤが大胆に預言しているように、主イエスが、尋ねなかった者たちに御自分を現してくださったからです(イザヤ65:1参照)。

 では、イスラエルについて、イザヤは何と言っているか?「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(イザヤ65:2)。ここでパウロは、イスラエルのことを「不従順で反抗する民」と言っています。イスラエルが福音に従わないのはなぜか。それは、福音を聞いたことがなかったからではありません。また、福音を聞いても理解できなかったからでもありません。彼らは福音を聞いて、理解したうえで従わないのです。神が死者の中から復活させられ、主とされたイエス・キリストに反抗し続けているのです。しかし、そのような民に、イエス・キリストは一日中、両手を差し伸べているのです。放蕩息子の帰りを待ち続ける父親のように、イエス様はイスラエルが悔い改めて御自分のもとに帰って来るのを待ち続けておられるのです。それは具体的に言えば、不従順で反抗する民にも、福音を宣べ伝える者を遣わし続けておられるということです。福音を聞いたうえで、福音を理解したうえで信じない。それが心をかたくなにするということです。そして、それは、私たちの周りにいる多くの人の姿でもあるのです。その人々にも、イエス様は両手を差し伸べておられる。それゆえ、私たちは主の愛をもって、忍耐強く、福音を宣べ伝えて行くことが求められているのです。私たちの福音宣教は、心をかたくなにする人々に差し伸べられているイエス様の両手を示すものであるのです。

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