信仰の言葉 2017年5月14日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙 10章5節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イスラエルがイエス・キリストを拒み続けているのは、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったからであることを学びました。神様は、約束に従って御子を、ダビデの子孫として遣わされました。そして、イエス・キリストは私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださいました。神様は、イエス・キリストを死から三日目に栄光の体で復活させられ、この方を信じる者が正しいと認められることを確証されたのです。イエス・キリストを信じるならば誰でも神の御前に正しい者とされる。これがパウロが宣べ伝えた福音であり、異邦人が信じた福音であったのです。しかし、イスラエルは、その福音を受け入れませんでした。彼らは、自分で神の掟を守ることによって、神様の御前に正しい者とされると考えたのです。彼らは信仰による義ではなく、律法による義を追い求めたのであります。しかし、それは、正しい認識に基づくものではありませんでした。なぜなら、キリストは律法の目標を達成することによって、律法によって義とされるという考え方に終わりをもたらしたからです。4節に、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。ここで「目標」と訳されている言葉(テロス)は、「終わり」とも訳すことができる言葉です(口語訳、新改訳参照)。キリストは律法を守って義とされるという目標に到達することにより、律法を守ることによって義とされるという考え方に終わりをもたらしたのです。それは、御自分を信じる者すべてに義をもたらすためでありました。神様の御心は、イエス・キリストを信じる者すべてを、御自分の御前に義とすることであるのです。今朝の御言葉はこの続きであります。

 5節から8節までをお読みします。

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

 パウロは直前の4節で、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と記しましたが、5節以下はその続きであります。パウロは、キリストが信じる者すべてに義をもたらすために、律法の終わりとなられたことを、旧約聖書から論証しようとしているのです。パウロは、まず、律法による義について記します。「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています」。「掟を守る人は掟によって生きる」。これはレビ記18章5節の御言葉であります。そこには、「わたしの掟と法とを守りなさい。これを行う人はそれによって命を得ることができる、わたしは主である」と書かれています。しかし、これまで、学んで来ましたように、アダムの子孫であり、罪を持って生まれてくる私たちはだれも、神の掟を守ることによっては神の御前に義とされないのです。「掟を守る人は掟によって生きる」という御言葉を実現されたのは、罪のない御方、何一つ罪を犯さなかったイエス・キリストだけであるのです。そのような意味で、イエス・キリストは律法の目標に到達したのです。しかし、イエス・キリストを除くすべての人間は、律法を守ることによって神の御前に正しいとされることはありません。パウロが3章20節で記しておりましたように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」のです(申命31:16~21、24~29も参照)。

 では、信仰による義についてはどうでしょうか。6節に、「信仰による義については、こう述べられています」とありますが、これは意訳でありまして、直訳すると、「信仰による義は、こう言っています」と記されています。「信仰による義」が擬人化されて、語っているかのように記されているのです。ここで一つ指摘しておきたいことは、律法による義については、「記されている」「書いてある」とあり、信仰による義については、「述べられている」「言っている」と記されていることです。パウロは、コリントの信徒への手紙二の3章6節で、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」と記しております。パウロは新しい契約に仕える者として、文字ではなく霊に仕える資格を与えられた。そのようなパウロにとって、律法による義は文字であり、信仰による義は霊であると言えるのです。ですから、パウロは、「モーセは、信仰の義についてはこう書いている」とは記さずに、「信仰による義は、こう言っています」と記したのです。パウロは聖霊の導きによって、旧約聖書を読み解き、信仰による義について語るのです。ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書の申命記の30章の御言葉であります。開いて読んでみたいと思います。旧約の329ページ。申命記の30章11節から14節までをお読みします。

 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 これを読んで皆様はどう思われるでしょうか。これは、信仰による義についてではなくて、むしろ律法による義について教えているのではないかと思われたのではないでしょうか。しかし、パウロは、この御言葉はイエス・キリストを信じる者すべてが義とされる、信仰による義について教えていると記すのです。パウロは、このところを引用するのでありますが、「行う」という言葉を削除して、引用しています(12、13、14節の3つ)。それは、イエス・キリストの十字架と復活によって、掟を行うことによっては誰も義とされないことが明らかとされたからです。また、パウロは、13節の「海のかなた」を「底なしの淵」と言い換えています。これは、イエス・キリストが死んで陰府にくだられたことを念頭においているからであります。パウロは、復活されたイエス・キリストの聖霊に導かれて、この所を解釈し、自由に引用するのです。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の288ページです。

 6節に、「『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これはキリストを引き降ろすことにほかなりません」とありますが、この意味は、「天の上ることができるものなど誰もいないと考えてはならない。なぜなら、イエス・キリストが天に上られたからである。もし、そう考えるならば、天におられるキリストを引き降ろすことになる」という意味です。また、7節に、「『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」とありますが、この意味は、「底なしの淵に下ることができる者など誰もいないと考えてはならない。なぜなら、イエス・キリストが陰府に下られたからである。もし、そう考えるならば、キリストを死者から引き上げること、キリストの死を否定することになってしまう」という意味であります。それは言い換えれば、「私たちが天に上ろうとする必要も、底なしの淵に下ろうとする必要もない」ということであります。なぜなら、イエス・キリストが私たちに代わって十字架の死を死んで、陰府に下られたからです。また、私たちの初穂として復活し、天の上られたからであります。天に上ろうとすること、底なしの淵に下ろうとすること、それは不可能なことをしようとする超人的な努力を表します。そのような不可能なことをしようと超人的な努力をする必要はないのです。律法によって義とされることは、まさにそのような超人的な努力と言えるのです。しかし、イエス・キリストがそのことを実現してくださいましたから、私たちはただ信じるだけで義とされる。神様の救いはそれほどまでに近くにある。心で信じて、口で告白すれば救われる。それほどまで近くなった、簡単なこととなったのです。ですから、パウロは、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という御言葉が信仰による義について述べていると記したわけです。そして、これこそ、パウロたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのであります。

 9節から13節までをお読みします。

 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 パウロが宣べ伝えている信仰の言葉、それは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」という福音であります。理屈から言うと、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じて、口でイエスは主であると公に言い表すわけですが、8節の申命記の御言葉との繋がりから、口で告白することが、心で信じることよりも先に記されています。ここで、注意したいことは、神様がイエス様を復活させ、さらには天へと上げられて主とされたということであります。フィリピ書の2章に記されているキリスト賛歌を見ますと、キリストが十字架の死に至るまで従順であられたこと。それゆえ、神様はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名、主という名を与えられたことが記されています。神様がイエス・キリストを復活させられ、天へと上げられ、主となされた。ですから、「イエス・キリストは主である」と公に宣べることは、父である神をたたえることになるのです。先程、口で告白することと、心で信じることの順番について言及しましたが、大切なことは、それが一体的な関係にあるということです。私たちが口で、イエスは主であると公に言い表すのは、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるからです。また、私たちは、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるからこそ、口でイエスは主であると公に言い表すのです。10節に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです」とあります。ここでは、心で信じて、口で言い表すという順序で記されています。ここでも、心で信じて、口で言い表すことは一体的な関係にあります。ですから、義とされることと救われることも同じことであるのです。私たちは、どのようにして救われたのか?それは、天に上るような、あるいは底なしの淵に下るような、不可能なことをしたからではありません。それは、すべてイエス・キリストがしてくださいました。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守って天に上り、私たちに代わって十字架の死を死なれることによって底なしの淵に下られたのです。ですから、私たちはそのようなできないことをしようと努力する必要はないのです。私たちは、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じ、口で「イエスは主である」と公に言い表して救われたのです。

 そして、このことは、モーセだけではない、預言者も記していることであるのです。11節の「主を信じる者は、だれも失望することがない」という御言葉は、9章33節でも引用されていた、イザヤ書28章16節の御言葉であります。ここでの「主」は神様というよりも、神様によって復活させられ、主とされたイエス・キリストのことであります。また、パウロは、ここで「だれも」という言葉を付け加えています。なぜなら、イエス・キリストはユダヤ人とギリシア人との区別なしに、すべての人の主であられるからです。そして、イエス・キリストは、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるのです。ここでパウロが強調しておりますのは、イエス・キリストの救いの普遍性であります。イエス・キリストの救いは、人種や民族や国籍の壁を越えて、主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人に与えられるのです。13節は、ヨエル書の3章5節の引用であります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(使徒2:21も参照)。神様は、主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人を豊かに恵み、救ってくださいます。ですから、私たちは主イエス・キリストの名を呼び求める礼拝において、主の恵みと救いを豊かにいただくことができるのです。

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