律法の終わりであるキリスト 2017年5月07日(日曜 朝の礼拝)

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律法の終わりであるキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 9章30節~10章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。ローマの信徒への手紙 9章30節~10章4節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、焼き物師が同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるように、神様にもある人々を怒りの器として、またある人々を憐れみの器として造る権限があることを学びました。怒りの器とは神様の怒りの対象である人々を、憐れみの器とは神様の憐れみの対象である人々を指しております。もっとはっきり言えば、怒りの器とはイエス・キリストを拒み続けているイスラエルを、憐れみの器とはユダヤ人だけではなく、異邦人の中から召し出されたイエス・キリストを信じる者たちを指しています。神様がイスラエルの人々の心を頑なにされ、怒りの器とされたのは、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためでありました。神様の栄光は、神様の憐れみによってイエス・キリストを信じたユダヤ人と異邦人からなる教会において現されるのです。神様の栄光は、異邦人を「わたしの民、愛された者」と呼ぶ憐れみによって、また、イスラエルの残りの者を救われるという憐れみによって現されるのです。今朝の御言葉はこの続きであります。

 9章30節から33節までをお読みします。

 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 パウロは、「では、どういうことになるのか」と言って、違った視点から話しを進めます。9章6節から29節まで、パウロは、イスラエルがイエス・キリストを信じないことを、神様の主権から論じました。しかし、今朝の御言葉では、人間の側から、イスラエルがイエス・キリストを信じない理由が論じられているのです。イエス・キリストを信じる教会は、イスラエルの残りの者であるユダヤ人と神の民でなかった異邦人からなっておりました。しかし、全体の比率で言えば、異邦人の方が多かったわけです。そのような現状を背景として、「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました」と記すのです。ここでの「義」「正しさ」は道徳的な正しさというよりも、「神様との正しい関係」を指しております。異邦人は神様の民ではなかったわけですから、当然、神様との正しい関係を求めることはありませんでした。しかし、その異邦人がイエス・キリストを信じることにより、神様との正しい関係を得たのであります。しかし、神の民であるイスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。「義の律法」とは「律法による義」、神様の掟を守ることによって成り立つ正しさのことであります。神の契約の民であるイスラエルは、神の掟、律法を守ることによって神の御前に正しい者とされると考えたのです。そして、義の律法、律法による義を追い求めた。しかし、その律法に達することはできませんでした。律法を守るという仕方では、神様との正しい関係に達することができなかったのです。それはなぜか?パウロはその理由を32節で、次のように記しています。「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたのです」。私たちはこの手紙を最初から読み続けて来たのですが、この手紙の主題は、1章16節、17節に記されておりました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。イエス・キリストの福音によって示された神の正しさ、それはイエス・キリストを信じる者を正しい者とする正しさでありました。神様が私たち人間に求めておられること、それは神の御子でありダビデの子孫として生まれたイエス・キリストを信じることであるのです。このような主題を掲げた後で、パウロは、全人類の罪について記しました。ユダヤ人も異邦人も皆、罪の下にあることを記したのです。律法を実行することによっては、だれ一人、神の御前に義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じないとパウロは記したのです。それだけならば、人間は絶望するしかないわけですが、パウロは、「ところが今や」と語りだします。3章21節から26節でパウロはこう記しておりました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお閉めしになるためです。このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。イエス・キリストにおいて示された神の義、それは罪人を裁いて滅ぼすことによって現される義ではなく、罪人を正しい者とする憐れみに満ちた義でありました。人間に求められていること、それはイエス・キリストにおいて示された神の義を感謝をもって受け入れ、信じることだけであるのです。信仰によって義とされることは、イスラエルの先祖アブラハムにおいても見られたことでありました。パウロは、4章で、アブラハムも信仰によって義とされたと記しました。そして、5章に入ると、はじめの人アダムとイエス・キリストを並べて、イエス・キリストは新しい契約の頭であることを記したのです。アダムができなかったことをイエス・キリストはしてくださった。それゆえ、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、この方の聖霊に導かれるところに救いがある、命があることを6章から8章に渡って記したのであります。その際、パウロは、律法についても記してきました。パウロも律法が聖なるものであり、正しく、善いものであると記します。しかし、問題は、その律法を与えられている人間に律法に逆らう罪があるということなのです。神の掟は、結果的に、私たちの内に罪を呼び覚ます。「むさぼるな」という掟は、わたしの内に「むさぼり」を生じさせる。罪は掟を用いて、あらゆる種類のむさぼりを私たちのうちに起こさせるのです。そのような罪の法則から私たちを救い出してくださるのはだれか?それが、イエス・キリストであるのです。イエス・キリストに結ばれた私たちは、肉の支配下ではなく、霊の支配下にある。キリストの霊に導かれて歩むところに、律法の要求が満たされることをパウロは記したのであります。これがパウロが宣べ伝えて来た福音であり、多くの異邦人が信じた福音であったのです。しかし、イスラエルは、そのようには考えませんでした。イエス・キリストを信じないイスラエルの人々は、後にキリスト教と袂を分かち、ユダヤ教を形成していきます。ユダヤ教では、人間は生まれながら罪を持っているとは考えません。ですから、律法を守ることができないとも考えないわけです。神の民である彼らにとって、律法を守ることこそ、神様との契約関係を維持する手段であるのです。それは、パウロがこの手紙に記しているイスラエルも同じであったのです。イスラエルはイエス・キリストを信じることではなく、律法を行うことこそ、神様の御前に正しい態度であると考えたのです。しかし、パウロは、「彼らはつまずきの石につまずいた」と記します。そして、そのことは、旧約聖書に預言されていたことであったのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(イザヤ8:14、28:16参照)。ここでの「つまずきの石、妨げの岩」とは、イエス・キリストのことであります。そして、この「つまずきの石、妨げの岩」を置いたのは、神様であるのです。イスラエルの人々がつまずいた、信仰によってではなく、行いによって神の御前に正しいとされると考えた。このことも、神様の御計画のうちにあることなのです。

 10章1節から3節までをお読みします。

 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

 ここでパウロはもう一度、自分の同胞に対する思いを明らかにしています。パウロは、イスラエルの人々が救われるようにと、彼らのために熱心に祈っていたのです。イスラエルが救われることを心から願う者として、パウロはイスラエルのつまずきについて記しているのです。パウロは、イスラエルの人々が熱心に神様に仕えていることを証ししますが、その熱心さが正しい認識に基づくものではないと記します。なぜなら、彼らは「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。ここでの「神の義」は、イエス・キリストにおいて示された神の義であります。イエス・キリストを信じる者を正しいとする神の義です。パウロは9章32節で、「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えた」と記しましたが、行いようにって神様に正しいとしていただくとは、自分の義を求めることと同じであります。神様は、私たち人間が神の掟を完全に守れないことをご存じで、御自分の御子をダビデの子孫として、この地上に遣わしてくださいました。そして、イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守り、なおかつ、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださったのです。そして、神様はイエス・キリストを死から復活させられ、この御方を信じる者を、正しい者とすることを確証されたのでありました。しかし、イスラエルは、その神の義に従わなかった。彼らは自分で律法を守ることによって、自分の義で神様の御前に正しいとされることを求めたのです。そして、ここに、イスラエルの指導者である祭司長や律法学者やファリサイ派の人々が、イエス様を拒み、十字架につけた理由があるのです。福音書を見ますと、イエス様は神様の掟を守っていない徴税人や罪人を受け入れ、食事まで一緒にされました。イエス様は、徴税人や罪人をそのままの姿で受け入れたのです。そのことが、熱心に律法を守っていた律法学者やファリサイ派の人々には我慢ができなかったのです。徴税人や罪人の友となり、救いまで宣言されるイエス様を、彼らは受け入れることができなかった。それは、彼らが、律法を守ることによって、自分の義によって神の御前に正しいとしていただけると考えていたからです。イエス様が語られた譬え話に、そのことを教えている譬え話があります。それはルカによる福音書の18章に記されている「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」であります。新約の144ページです。ルカによる福音書の18章9節から14節までをお読みします。

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 神様の掟を熱心に守っているファリサイ派の人と神様の掟を守っていない罪人である徴税人のどちらが、神様の御前に正しいとされるか?人々は当然、ファリサイ派の人々であると思いました。しかし、イエス様は、義とされたのはファリサイ派の人ではなく、徴税人であったと言うのです。なぜでしょうか?それは、ファリサイ派の人が律法を守ることによって、自分を神様の御前に正しい者とし、高ぶっているからです。それに対して、徴税人は自分が律法を守ることのできない罪人であることを告白し、神様の憐れみを祈り求めているからであります。そして、このようなへりくだった態度こそ、神様の御前に正しい態度であるのです。ここには、徴税人がイエス様を信じたとは書いてありませんが、この徴税人のような人がイエス様を信じるようになるわけです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の288ページです。

 4節をお読みします。

 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 ここで「目標」と訳されている言葉(テロス)は、「終わり」とも訳せる言葉であります。口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと、「終わり」と訳されています。「キリストは律法の終わりである」というとき、それは律法を守るという仕方で、神の御前に正しいとされるという考え方に終わりをもたらしたということであります。約束のメシア、救い主であるイエス・キリストが十字架の死を死んで、復活されたのはなぜか?それは、人間がだれ一人、神の掟を守ることによって義とされないことを示すためでありました。このことは、パウロ自身が、復活されたイエス・キリストと出会うことによって教えられたことでありました。かつて、パウロはファリサイ派の一員であり、律法を守ることに人一倍熱心な者でありました。パウロは教会を迫害するほどに熱心であったのです(ガラテヤ1:13,14参照)。また、パウロは自分が律法の義については非のうちどころのない者であったとも記しています(フィリピ3:6参照)。そのようなパウロが、なぜ、イエス・キリストを信じるようになったのか?それは、あのダマスコ途上において、復活の主イエス・キリストと出会ったからです(使徒9章参照)。それによって、パウロは律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神様から与えられる義を拠り所とする者とされたのです。わたしは、今、目標と訳されている言葉を「終わり」と訳してお話をしたのでありますが、この「目標」という翻訳によっても教えられることがあります。それは、神の掟を守って義とされるという考え方がキリストにおいて目標に到達したということです。キリストは神の掟を守って義とされるという考え方をどのようにして、終わりにされたのか?それは、神の掟を落ち度無く守るということによってでありました。イエス・キリストは、神の掟を落ち度無く守るという目標を達成することにより、神の掟を守って正しい者とされるという考え方を終わりにされたのです。イエス・キリストは律法の目標を達成することにより、律法によって救われるという考え方に終わりをもたらされた。それは御自分を信じる者すべてに、義をもたらすためであったのです。かつて、私たちは神の民ではない、異邦人でありました。神様から遠く離れて歩んでいたのです。そのような私たちが、神様の御前に正しい者とされたのは、ただイエス・キリストのゆえであるのです。

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