神の憐れみの器 2017年4月30日(日曜 朝の礼拝)

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神の憐れみの器

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 9章19節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」ローマの信徒への手紙 9章19節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イサクとリベカとの間に生まれた双子の兄弟、エサウとヤコブの事例から、選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになる方によって進められることを学びました。神様は、自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ、絶対的な主権、絶対的な自由を持っておられるのです。神様が兄のエサウではなく、弟のヤコブを選ばれたのは、ヤコブがエサウよりも神様の祝福を熱心に求めるようになることを知っておられたからではありません。神様の選びは、選ばれる対象によるのではなくて、選ぶ主体である神様の憐れみによるのです。15節の「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という御言葉は、出エジプト記33章19節からの引用であります。前回の説教の時に、この所は開きませんでしたので、今朝はこの所を開いて確認しておきたいと思います。旧約の150ページです。出エジプト記33章18節、19節をお読みします。

 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」

 ここで確認しておきたいことは、神様の栄光は神様が恵みもうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむという仕方で示されるということであります。神様の栄光は神様の恵みと憐れみによって示されるのです。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の287ページです。

 神様はご自分が憐れみたいと思う者を憐れむ御方でありますが、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる御方でもあります。聖書にはエジプトの王ファラオが心を頑なにして、イスラエルの民をエジプトから去らせなかったことが記されています。神様はエジプトの王ファラオの心を頑なにすることによって、御自分の力を現し、御自分の御名を全世界に告げ知らせたのです。世界と歴史の主である神様は、御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる御方であるのです。今朝の御言葉はこの続きとなります。

 19節から21節までをお読みします。

 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

 ここでパウロは一つの反論を想定しております。それは、「神様は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるならば、神様が人を責められるのはおかしいのではないか。誰も神様の御心に逆らえないのだから」という反論であります。これは神様の主権と人間の責任の問題とも言えます。以前にも申しましたように、9章から11章までは、イスラエルの問題を扱っている一つのまとまった記述であります。ですから、ここにも、神の民イスラエルが約束のメシアであるイエス・キリストを受け入れないのはなぜか?という問題意識があるわけです。イスラエルの人々がイエス・キリストを信じないのは、神様がイスラエルの人々の心を頑なにされたからであれば、どうしようもないではないか?そのような問題意識があるわけです。このような反論に対して、パウロは答えることをせず、その反論を神様に対する不遜として退けます。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」と言って、神様と私たち人との間には、絶対的な隔たりがあること、造り主と造られた者という隔たりがあることを思い起こさせるのです。「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。この二つの疑問文はどちらも、元の言葉を見ますと否定詞から始まっています。つまり、否定の答えを予想する疑問文として記されているのです。ですから、パウロは、造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」とは言えない。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限がある、と言っているのです。この「焼き物師と器」の譬えは、旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書に記されています。ここでは、エレミヤ書の18章を開いて読みたいと思います。旧約の1210ページです。エレミヤ書18章1節から10節までをお読みします。

 主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」

 聖書は、神様が人を土の塵から造られたと教えております(創世2:7参照)。それゆえ、神様は陶工に、私たち人はその陶工によって作られた器に譬えられるのです。陶工が、様々な用途に適した器を作る権限をもっているように、神様は歴史の中に様々な役割を担う人間を立てられる権限を持っておられるのです。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の278ページです。

 22節から24節までをお読みします。

 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 ここでパウロは、「怒りの器」と「憐れみの器」について記しています。「怒りの器」とは、「怒りの対象となる人々」を、「憐れみの器」とは「憐れみの対象となる人々」を意味しています。「憐れみの器」とは、どのような人々を指すのか?それは、24節にありますように、イエス・キリストを信じる私たち教会のことであります。では、「怒りの器」とは、どのような人々を指すのか?それは、イエス・キリストを信じないすべての人々、特に、神の民でありながら、イエス・キリストを拒み続けるイスラエルの人々のことであります。神様は御子を約束のとおりダビデの子孫として生まれさせ、十字架の贖いによって、救いを成し遂げられました。そのイエス・キリストを信じないで拒み続けることは、神の怒りに値することであります。これはすべての人に言えることですが、神の民として導かれてきたイスラエルには特に言えることです(アモス3:2、ローマ9:4参照)。しかし、神様はイエス・キリストを信じないイスラエルの人々を、寛大な心で耐え忍ばれていると言うのです。しかもそれは、憐れみの器として栄光を与えようとして準備しておられた者たち、すなわち、イエス・キリストを信じる私たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったと言うのであります。なぜなら、イエス・キリストの福音は、イスラエルの民であるユダヤ人が拒むことによって、異邦人に宣べ伝えられることになるからです。24節に、「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」とあります。この手紙の宛先であるローマの教会は、ユダヤ人と異邦人からなる教会でありました。そこには、人種や民族や国籍を超えた、主イエス・キリストにある交わりが実現していたわけです。ここには、イエス・キリストを信じる教会こそ、まことの神の民イスラエルであるとの主張があります。なぜなら、イエス・キリストこそ、アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと受け継がれた約束を実現する御方であるからです。「あなたの子孫によって、すべての氏族は祝福に入る」。この約束は、イエス・キリストにおいて実現したからであります。私たちは、旧約の区分で言えば、まことの神様を知らない異邦人であり、神様から遠く離れた者たちでありました。しかし、イエス・キリストにあって、私たちは神様の憐れみを受ける者とされたのです。そしてそれは、神様が私たちを天地創造の前から、イエス・キリストにおいて選んでくださったからであるのです。23節に、「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち」とありますが、この言葉は、私たちがイエス・キリストにあって憐れみを受けることが、前もって定められていたことを示しています。神様は、途中で計画を変更されたのではありません。神様の選びの計画は、天地創造の前から一貫しております。神様はイスラエルを選び、イスラエルを通して、すべての人を祝福しよう、憐れもうとしておられるのです。そして、パウロは、いつの日か、イスラエルの人々が、イエス・キリストを信じる日が来ることを信じて疑わないのです。怒りの器が憐れみの器となる日が来ることをパウロは信じて疑わないのであります(ローマ11:31参照)。

 神様は御自分の憐れみの器を、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました。そして、このことは、旧約聖書に預言されていたことであるとパウロは記すのです。

 25節から29節までをお読みします。

 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」

 ここでパウロは、ホセア書とイザヤ書から引用していますが、ホセア書は、異邦人の中から召し出された者たちについて述べています。このホセアの預言は、イスラエルの民に語られたものですが、ここでパウロは文字通り、神の民でない異邦人に当てはめて記しています。私たちは、イエス・キリストにあって、神の民、愛される者、生ける神の子らと呼ばれる者とされたのです。これはまさしく神様の恵み、憐れみによることであるのです。

 また、パウロは、イスラエルについての預言としてイザヤ書を引用しています。異邦人に対する神様の憐れみは、神の民でないものを神の民と呼ぶ、神の民として召し出すという仕方で表されました。しかし、イスラエルについては、神の民として残す、保持するという仕方で、神様の憐れみは表されます。もし、神様が憐れみをもってイスラエルを取り扱ってくださらなければ、イスラエルは神様によって滅ぼされたソドムとゴモラと同じようになっていた。しかし、神様はイスラエルを憐れみ、残りの者を備えてくだったと言うのです。この「残りの者」とは、アッシリア帝国による捕囚から帰って来る民のことを指しておりました。それがいつしか、神様によって残された、まことの神の民を指すようになったのです。そして、パウロは、その残りの者こそが、ユダヤ人でイエス・キリストを信じた者たちであると言うのです。多くのユダヤ人がイエス・キリストを拒み続けておりますが、その中からもイエス・キリストを信じる者たちが起こされました。そして、そこにパウロは神様の憐れみを見るのです。

 ユダヤ人であっても、異邦人であっても、イエス・キリストを信じて神の民とされることは、一方的な神様の憐れみによることであります。それゆえ、神様の栄光は、イエス・キリストの教会を通して、この世界に示されるのです。この説教の初めに、神様の栄光は、神様の恵みと憐れみによって示されることを確認しました。私たちは神様の恵みと憐れみによってイエス・キリストを信じ、神の民イスラエルとされました。ですから、神様の栄光は私たちによって示されるのです。イエス・キリストを信じて神の民とされた私たちは、神の憐れみの器であると同時に、神の栄光を現す器でもあるのです。

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