選びによる神の計画 2017年4月23日(日曜 朝の礼拝)
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選びによる神の計画
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- 村田寿和 牧師
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ローマの信徒への手紙 9章10節~18節
聖書の言葉
9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。ローマの信徒への手紙 9章10節~18節
メッセージ
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受難週、イースターと、しばらく、ローマの信徒への手紙から離れておりましたので、初めに、これまでのことを振り返っておきたいと思います。
パウロは、9章から、「イスラエルの選び」について論じております。パウロには、深い悲しみと絶え間ない心の痛みがありました。それは、同胞の民であるイスラエルが約束のメシア、救い主であるイエス・キリストを拒み続けているということであります。神様の約束に従って、イスラエルから約束のメシア、イエス・キリストが出たのでありますが、イスラエルの民はイエス・キリストを信じようとはしないのです。そのような現状を前にして、パウロは、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」と記します。神の民であるイスラエルが約束の救い主であるイエス・キリストを受け入れないことは、神の約束が無効になったからではないのです。そもそも、イスラエルとはどのような者を言うのか?このことについて、パウロは、6節後半から8節でこう記しておりました。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が子孫と見なさるのです」。ここでパウロが記していることは、血縁によってヤコブの子孫が、またアブラハムの子孫が決まるのではない、ということです。そのことを、パウロは、肉による子供であるイシュマエルと、約束に従って生まれたイサクを例に出して記したのです。イシュマエルは、人間の知恵によって、アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれた子供でありました。しかし、イサクは神様の約束によって、アブラハムと妻サラとの間に生まれた子供でありました。そして、神様の祝福は、イシュマエルではなく、神様の約束に従って生まれたイサクに受け継がれたのです。創世記の17章21節にありますように、神様は、「わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる」と言われたのです。このように、アブラハムと血が繋がっておりましても、イシュマエルは神様がアブラハムに約束された祝福を受け継ぐことはできなかったわけです。そして、これと同じことがイサクとリベカの間に産まれた双子の兄弟、エサウとヤコブにおいても見ることができるとパウロは話しを続けるのです。今朝は、10節以下を御一緒に学びたいと願います。
10節から13節までをお読みします。
それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
10節の「同じことが言えます」の「同じこと」とは、「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」こと。さらには、「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされる」ことを指しています。イサクとリベカの間に産まれた双子であるエサウとヤコブの場合は、そのことがもっとはっきりと示されたわけです。イシュマエルとイサクの場合は、二人ともアブラハムの子孫であっても、母親が違っておりました。イシュマエルは、側室とされた女奴隷ハガルから生まれた子供であります。他方、イサクは妻サラから産まれた子供でありました。イシュマエルが年長でありましても、イサクが家督を継いだことは、よく分かることであります。しかし、イサクとリベカから生まれた双子のエサウとヤコブは、そうではありません。エサウとヤコブは同じ父と母から、同じ日に生まれたのです。エサウの方が先に出て来たので兄となっていますが、彼らはほぼ同じ時刻に生まれてきたのです。古代の世界において、長男が家督を継ぐことになっておりました。ですから、「弟が兄に仕える」のが当然でありました。しかし、神様は、子供がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と告げたのです。このことを、旧約聖書から御一緒に確認しておきたいと思います。旧約の39ページです。創世記25章19節から26節までをお読みします。
アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出て来た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
この所を読みますと、イサクにもなかなか子供が授けられなかったことが分かります。イサクがリベカと結婚したのは四十歳の時でありましたが、リベカが双子を産んだとき、イサクは六十歳であったと記されているからです。イサクは、およそ20年間、リベカのために主に祈り続けたのです。また、23節の主の言葉を読みますと、「二つの国民」のことが言われていますが、これは後に、エサウがエドム人の先祖となること、ヤコブがイスラエル人の先祖となることと関係があります。イスラエル人がエドム人を支配することは、その先祖であるエサウとヤコブが生まれる前から定まっていたことであったということであります。このように、リベカから子供が生まれる前、子供たちが善いことも悪いこともしていない前に、神様は、「兄が弟に仕えるようになる」と言われたのでありました。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の286ページです。
子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこもしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と言われたことは、私たちに何を教えているのでしょうか?それは、自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになる方によって進められることを私たちに教えているのです。13節の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」は、預言書であるマラキ書からの引用であります。ここでの「憎んだ」は「選ばなかった」「退けた」という意味です。ここでパウロは、律法と預言書から引用することによって、神様が兄のエサウではなく、弟のヤコブを選んだことが聖書の教える真理であることを強調しているのです。旧約聖書に記されている歴史は、神の民イスラエルの歴史でありますが、その歴史を主権をもって導いておられるのは、神様であるのです。そして、そのことは、教会の歴史、私たち一人一人の歴史・人生においても言えることであるのです。なぜなら、私たちも神様の御計画に従って召された者たちであるからです(ローマ8:28参照)。私たちは自由な選びによる神の計画によって、行いによらず、ただ恵みによってイエス・キリストを信じる者、イエス・キリストにあって神の民イスラエルとされているのです(エフェソ2:8参照)。
14節から18節までをお読みします。
では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
神様は、子供たちが生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と言われました。すなわち、兄エサウを神の祝福の担い手として選ばれず、弟ヤコブを選ばれたのであります。そう聞きますと、私たちの内に、一つの反論が生まれて来るかも知れません。それは、神に不義があるのではないか?ということです。神様ならどちらにも同じように接するべきではないか?そのように、私たちは考えるのです。それに対してパウロは、「決してそうではない」神様に不義などあるはずがないと記します。そして、神様がモーセに言われた御言葉、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」を引用するのです(出エジプト33:19)。これは、神様の自由な主権を教える御言葉であります。すべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられる神様は、「自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」絶対的な主権、絶対的な自由を持っておられるのです。ですから、神様の選びは、人の意志や努力ではなく、ただ神の憐れみによるものであるのです。なぜ、神様はエサウではなくヤコブを選ばれたのか?それはヤコブが神様の祝福を求め、そのために努力する者となることを知っていたからではありません。なぜ、神様がエサウではなくヤコブを選ばれたのか?それは神様がエサウではなくて、ヤコブを憐れまれたからであるのです。選びの根拠は、選ばれた対象にあるのではなくて、選びの主体である神様にあるのです。そして、そのことについて、絶対的な主権、絶対的な自由を持つ神様はいちいち人間に説明する義務はないのです。
また、神様は憐れみたいと思う者を憐れむだけではなく、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる御方でもあります。ここでは、エジプトの王ファラオについての主の御言葉が引用されています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」。これは出エジプト記の9章からの引用であります。この所も旧約聖書から確認しておきたいと思います。旧約の107ページです。出エジプト記9章13節から19節までをお読みします。
主はモーセに言われた。「明朝早く起き、ファラオの前に立って、彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。あなたはいまだに、わたしの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と。」
出エジプト記には、いわゆる十の災いが記されています。ここに記されている「雹の災い」は、七番目の災いでありますが、なぜ、それほど、主はエジプトに災いをもたらされねばならなかったのでしょう。それは、エジプトの王ファラオが心を頑なにして、イスラエルの民をエジプトから去らせようとはしなかったからです。ファラオは心を頑なにするのでありますが、それは主によることでありました。主がファラオの心を頑なにされ、その結果、エジプトでは十の災いが行われ、イスラエルの神がまことの神、力ある神であることが示されるのです。世界と歴史の主である神様は、御自分の民を選ばれるだけではなくて、御自分の民を苦しめるエジプトの王ファラオを立てられる御方でもあるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の286ページです。
神様の救いの歴史、それは憐れみによって御自分の民イスラエルを選び、導かれるだけではなくて、イスラエルに敵対するエジプトの王ファラオをも用いて進められる歴史であります。神様がファラオの心を頑なにされたからこそ、神様の力と御名は全世界に告げ知らされたのです。そのことは、パウロが問題としているイエス・キリストを信じないイスラエルの民においても言えるのです。なぜ、神の民イスラエルが心を頑なにして、イエス・キリストを拒み続けているのか?それは、神様によること、神様がその心を頑なにされたからであります。そして、そのことによって、神様の御名が全世界の人々に告げ知らされたのです。神の契約と関わりのなかった異邦人と呼ばれていた私たちにも、イエス・キリストの福音が告げ知らされたのです。そのようにして、選びによる神の御計画は、今も進められているのです。今から2000年前のことだけではありません。第二次世界大戦後に、ユダヤ人はパレスチナの地にイスラエル共和国を建国しました(1948年)。しかし、彼らは依然として心を頑なにして、イエス・キリストを拒み続けております。私たちはそのことの背後にも、神様のお働きを見ることができるのです。そして、何より、イエス・キリストを信じて神の民とされた私たち自身に、神様の憐れみと慈しみを見ることができるのです。