パウロの心痛 2017年3月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。ローマの信徒への手紙 9章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からローマの信徒への手紙の9章に入ります。先程、1節から5節までを読んでいただきましたが、それを聞いて、少し感じが変わったとの印象を受けられたのではないかと思います。ローマの信徒への手紙全体をどのように区分するかは様々な意見があるのですが、大きく三つに区分することができます。1章から8章までが教理について、9章から11章までが救済史について、12章から16章までが倫理についてであります。9章から11章までは大きな一つのまとまりであり、新しい主題がここから取り上げられるのです。それは、ひと言で言えば、神の民、イスラエルについてであります。神の民、イスラエルの多くが約束のメシアであるイエス・キリストを拒んでいる。このことをどのように理解したらよいのか?ということであります。私たちは、旧約の区分で言えば異邦人でありますから、あまり関心を持てないかも知れません。しかし、神様がイスラエルをどのように扱われるのかは、私たちにとっても重大な問題であります。もし、神様が御自分の民イスラエルを見捨てられたのであれば、私たちをも見捨てられるかも知れないからです。ここで問われているのは、イスラエルの選びだけではなくて、イスラエルを選ばれた神様の真実、誠実でもあるのです。

 先程わたしは、9章から11章までは一つの大きなまとまりであると申しましたが、今朝の御言葉はその序文とも言えます。パウロは、神の民であるイスラエルが約束のメシアを受け入れない現実を取り扱うにあたって、自分がどのような思いを抱いているかを書き記すのです。

 1節から3節までをお読みします。

 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

 パウロは、「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない」という言葉によって、これから自分が記すことが偽りのない真実であることをキリストの御前に宣言いたします。また、それが真実であることを証言する者として、自分の良心と、自分の心に宿っている聖霊を証人として記すのです。ですから、私たちは続くパウロの言葉、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」という言葉を、パウロの本心からの言葉として信じ、受け入れなければなりません。それにしても、なぜ、パウロはこのように記さねばならなかったのでしょうか?それは、パウロのことを誤解している人々がいたからです。パウロは同胞のユダヤ人には冷たい、冷淡であるとの誤解が広まっていたのです。パウロがユダヤ人に対して厳しい言葉を記していることは、彼の手紙の中にしばしば見いだすことができます。例えば、テサロニケの信徒への手紙一の2章14節から16節で、パウロはこう記しています。新約の375ページです。

 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤのキリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語ることを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

 このようなパウロの言葉を読みますと、確かにパウロが同胞のユダヤ人に対して冷淡であるような印象を受けます。しかし、この手紙が、テサロニケにあるユダヤ人から迫害を受けている異邦人の教会に宛てて記されたことを考えるならば、この所から、パウロがユダヤ人に対して冷淡であると言うことはできないと思います。パウロは、ユダヤ人から迫害を受けているテサロニケの信徒たちを励ますために、ユダヤ人に対して神様が怒りを持って臨んでくださることを記しているからです。それに対して、ローマの信徒への手紙は、パウロが訪れたことのないローマにある、ユダヤ人と異邦人とからなる教会に宛てて記した手紙であるのです。 

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の286ページです。

 パウロにとって、肉による同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じないことは、深い悲しみであり、絶え間ない心の痛みでありました。パウロは、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ願ったほどであったのです。ここでパウロは、「兄弟たち」を「主イエス・キリストに結ばれた兄弟姉妹」という意味ではなくて、「肉による同胞」「同じ民族のユダヤ人」という意味で用いています。ユダヤ人たちの多くは、イエス・キリストを拒んで、神から見捨てられた者となっておりました。しかし、パウロは、彼らが救われるならば、自分がキリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ願ったのです。これは、同胞のユダヤ人に対する最上級の愛の表現であります。多くの研究者は、このパウロの姿に、イスラエルのために執り成したモーセの姿を重ねております。出エジプト記の32章に、イスラエルの民が金の子牛を造って、飲み食いし、戯れたことが記されています。イスラエルの民は、モーセがシナイ山から降りて来ないので、不安になり、金の子牛を造り、主の御臨在を確保しようとしたのです。しかし、それは主が十戒の第二戒で禁じておられた偶像崇拝でありました(出エジプト20:4「あなたはいかなる像も造ってはならない」参照)。それゆえ、主はモーセに、「わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたの大いなる民とする」とさえ言われたのです(出エジプト32:10)。そのような主に対して、モーセはこう言うのです。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出エジプト32:31,32)。モーセは、主に対して、「イスラエルの罪を赦してください。もしお赦しくださらなければ、わたしをあなたが書き記された命の書(天国の住民登録書)から消し去ってください」と言ったのです。モーセはイスラエルの民と滅びを共にするほど、彼らを愛していたのです。そのモーセと同じように、パウロは、肉による同胞であるイスラエルを愛していると言うのです。しかし、モーセの言葉とパウロの言葉を比べると、言われていることが違うことに気づきます。モーセは、「イスラエルの民が滅ぼされるならば、自分も滅んでもかまわない」と言って、イスラエルの民に対する愛を表しました。しそれと同じように、パウロは、「イスラエルの民が救われるならば、わたしがキリストから離されて、神から見捨てられた者となってもかまわない」と言って、イスラエルに対する自分の愛を言い表したのです。パウロはこのように何度も願ったわけでありますが、それは実際には不可能な願いでありました。パウロ自身が8章39節で記していたように、誰もキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。むしろ、このパウロの祈りは、イエス・キリストの祈りであると言えます。イエス・キリストが深い悲しみと絶え間ない心の痛みをもって、この地上を歩まれ、御自分の民を救うために、神から見捨てられた者として、十字架の死を死なれたのであります。そのようなイエス・キリストに結ばれている者として、パウロは、自分が肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもよいとさえ願ったのです。パウロは、決して、肉よる同胞が神から見捨てられることを願ったのではありません。イエス・キリストを拒む肉による同胞に代わって、自分が神から見捨てられた者となってもよいと願ったのです。それほどまでに、パウロは肉による同胞であるイスラエルの民を愛しているのです。

 4節、5節をお読みします。

 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 ここでの「彼ら」とは、パウロが「兄弟たち」と呼んだ「肉による同胞」のことであります。これまで、パウロは、「ユダヤ人」という言葉を用いてきましたが、ここでは、「イスラエルの民」と記しています。「イスラエル」とは神様が族長ヤコブに与えられた名前であります。創世記の32章を見ますと、ヤコブが主の御使いと夜通し格闘したことが記されています。そこで、主の御使いはヤコブにこう言うのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ」(創世32:29)。イスラエルとは「神は争われる」という意味ですが、ヤコブは神と人と戦って勝った者として、この名前をいただくのです。そして、ヤコブの子孫たちは、自分たちをイスラエルと呼んだのであります。イスラエルこそ、神の民として選ばれた神の子でありました。出エジプト記4章22節で、主は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言われております。また、栄光とは神様の臨在にともなう栄光でありまして、旧約聖書を見ますと、幕屋に、神殿に、神様は御臨在され、その栄光を現されました。契約も彼らに与えられたものであります。そもそも、旧約聖書は、神の民イスラエルの歴史を記している書物であると言えるのです。神様はアブラハムに、そしてモーセを通してイスラエルの民に、またダビデにともろもろの契約を与えられました。エレミヤが預言した新しい契約も彼らに与えられたものであります。礼拝、そのための様々な規定や儀式、さらにはもろもろの約束、特に、ダビデの子孫から救い主がお生まれになるという約束は、彼らに与えられたものでありました。先祖たちも彼らのものです。パウロは、この手紙において、アブラハムやダビデについて言及してきましたが、アブラハムもダビデもイスラエルの民に属する、イスラエルの先祖たちです。そして、肉によればイエス・キリストも彼らから出られたのです。イエス・キリストもイスラエルの一員としてお生まれになったのであります(マタイ1章参照)。しかし、私たちは、ここでパウロが、「肉によればキリストも彼らのものです」と記していないことに注意したいと思います。なぜなら、キリストはイスラエルであるユダヤ人だけのものではないからです。キリストは、肉によれば、人間としては、ユダヤ人としてお生まれになりましたけれども、ユダヤ人だけの救い主としてお生まれになったのではありません。イエス・キリストが成し遂げてくださった救いは、一民族に留まるようなものではありません。なぜなら、この御方は、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神その方であるからです。

 神様は、アブラハムを召し出し、イサク、ヤコブと契約を結び、ヤコブをイスラエルと呼び、約束のとおりその子孫を天の星のように増やされました。そして、御自分の民として、栄光、契約、律法、礼拝、約束を与えられたのです。神様はそのようにして、イスラエルが約束のメシアであるイエス・キリストを受け入れるように準備をして来られたのです。しかし、実際にイエス・キリストがお生まれになると、イスラエルはイエス・キリストを拒んだのです。イエス・キリストを拒んで、十字架につけて殺してしまった。そして、復活して、万物の上におられるイエス・キリストを今も拒み続けているのです。なぜ、神の民であるイスラエルが約束の救い主であるイエス・キリストを今も拒み続けているのか?そのことを思うとき、パウロは深い悲しみと絶え間ない心の痛みを覚えずにおれなかったのです。

 今朝の御言葉を読むとき、私たちが問われる一つのことは、私たちもイエス・キリストを拒み続ける肉による同胞である日本人のために、深く悲しみ、絶え間ない痛みを覚えているか?ということであります。パウロの肉による同胞はイスラエル、神の民であり、私たちの肉による同胞である日本人はまことの神を知らない異邦人でありますから、状況は同じであるとは言えません。しかし、もし、イエス・キリストを拒み続ける同胞に対して悲しみと心の痛みを覚えないというのなら、それはキリスト者として不健全だと思います。なぜなら、その悲しみ、心の痛みこそ、イエス・キリストの悲しみであり、心の痛みであるからです。イエス・キリストは、すべての人を救うために、神から見捨てられるという十字架の死を死んでくださいました(一テモテ2:6参照)。そのイエス・キリストの愛を知った者として、私たちは同胞である日本人に、イエス・キリストの福音を忍耐強く宣べ伝えてゆきたいと願います。

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